大島渚監督の現在までの生き方を、NIKKEI Net [INTERVIEW]の「映画監督・大島渚 最先端を走る姿勢貫く」で ”ハンセン病の歌人、明石海人が詠んだ歌を愛する。人知れず暗やみの中で孤独に耐え、内側から激しく命の炎を燃やす深海魚。その姿が自らの生き方と重なるのだろう。”と結んでいます。その大島渚映画監督の「私の明石海人」を、(沼商百周年史の中より)ご紹介します。

私の明石海人 映画監督     大島   渚
明石海人という風変わりな名前にはじめて会ったのは昭和27年のことであった。
 今でもあまり古びていないその本は、創元文庫の現代短歌全集の第7巻である。アイウエオ順なのだろうか、明石海人作品集はその巻頭に置かれていた。中身は「白描」抄であり、上下2段組8頁の短歌が収められている。その前に海人の略歴が1頁。全部で14人の作者が並べられているのだから、際立って目立つところは何一つない。今考えても、当時大学の3回生だった私がその本を買った理由は、どこにも発見できないのだ。私はなぜその本を手にいれたのだろう。

 私は短歌を特別愛好していたわけではなかった。中学、高校で国語の成績は良かったし、私のまわりには短歌の愛好者もいた。私も文芸部に属して何やら習作めいたものを発表したこともある。しかし、どちらかといえば、私は文学的なるものに対して好意よりは嫌悪を抱いていた。
 それは私があまりにも早く文学的なるものに接しすぎたからであろう。私の父は私が小学校1年を終える日に死んだ。農林省の水産の学者だった父は、その官舎に膨大な図書を残して死んだのだった。
33歳の母と1歳の妹と私はその蔵書を抱えて母の故郷である京都に移り住んだ。
 京都の家は暗い。私はその暗い家の中でもっぱら父の残した本に埋まって子供時代を過ごした。私が眼鏡をかけているのは、そのせいである。当時まだ近眼の子供は1学年に数人しかいなかった。

 母は私に新刊の子供雑誌、学習雑誌を買い与えたが、私の読書欲を満足させるには、それでは不十分で、私は父の残した本をむさぼり読んだ。それは日本文学、西洋文学の全集から始まって、社会科学、特に当時はやや国禁の書に近いマルクス主義のものまであった。そのほかに演劇や映画、はては宮武外骨にいたるまで、要するに少年の悪しき想像力をかき立てるために十分な量と質を兼ね備えた本の山であった。

 こんなことで私の読書生活話を繰り広げていては、きりがないので終わりにしたいと思うが、運の良いことに、中学2年の夏、日本の戦争は敗れて終った。私は空襲に備えて庭に埋めてあった百科事典ほかの本を取り出し、ああ自分は今までに人生で読むべき本はすべて読んだと思った。事実、私は『資本論』にまで目を通していたのである。もう読むべき本はない。その後の私の青春は、草野球への熱中が全てということになった。
 本を読まない決心をしたのだから、もちろん戦後文学も私にとっては何程のものでもない。それでも太宰、織田作、安吾を愛する青白い友人達が私のそばに来ることを拒む理由は発見できなかった。私にできることはそうした文学的なものを嫌悪することだけだった。
 そのように文学的なるものを嫌悪したのは、ひとえに私が死の匂いを嫌っていたからであろうと思う。あまりにも深く文学の匂いの中にいるということは、死の匂いの中にいるこということだったのだ。しかし、そのように死の匂いを嫌悪しながら、私はどこに生きるよすがを発見すれば良いのか。

 その答えが創元文庫の明石海人のとびらにあった一つの言葉であった。
        「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」
 この言葉がどこから海人のところにきたのか、私は知らない。しかし私はこの言葉がひどく気に入ったのだ。 感動したとか、感銘したとか、そういうのではない。ただ気に入ったのだ。
 何が気に入ったのか。現代の言葉で言えばこの言葉のもつイメージが気に入ったということであろう。

 深海に生きる魚族、暗い海の底にユラユラと海草がゆれている。眼が見えるのか見えないのか、何やら怪しい光を放つ魚がその中をいずこへとなく泳いでいる。光はどこから発しているのかわかならいが、おそらく魚体のどこからか発しているのだ。そんな青とも緑ともつかぬ光だけが、その魚の命なのだ。その魚のように生きていこう。
 その魚のように生きていこうと思ったときから私は、死からのがれ、ともかくも生きてある自分を肯定することができた。
 それは戦争が終わった混濁したに日本中で生きていく私のよすがであった。
 昭和28年の3月、つまり明石海人を読んだ翌年である。私は卒業した高校の同窓会の会長として、なんと100頁もある同窓会誌を出し、その巻頭に「ごあいさつにかえて」という文章を書き、その冒頭に明石海人の言葉をかかげた。それは私の呪文であった。

 やがて私は、心ならずも撮影所の助監督などというものになり、監督になる日に備えてシナリオの習作を書きちらかした。その中の一つに深海魚群というのがある。それは、私の高校時代を書いたものだった。その内容はともかく、その分量は仲間たちを圧倒した。
 そのシナリオは普通のものの3倍はあったからである。
 私の青春にはそれだけの分量があった。いつかそれを言わねばならない。深海に生きる魚族のように自ら燃え、自ら言わねばならない。私はそのように呪文をとなえて青春を生きていた。


<沼商百周年史、「明石海人」章より抜粋> 1932年、京都生まれ。
1954年、京都大学法学部卒業、松竹大船撮影所入社
1959年、第一回監督作品『愛と希望の街』発表、翌年『青春残酷物語』で日本映画監督協会新人賞を受賞、日本ヌーベルバーグの旗手とうたわれるが『日本の夜と霧』上映中止事件で松竹を退社。
1975年、大島渚プロダクションを創立、日仏合作映画『愛のコリーダ』を製作、翌年カンヌ映画祭で絶賛をあび、シカゴ映画祭特別賞、英国映画協会賞を受賞。
1978年、『愛の亡霊』でカンヌ映画祭最優秀監督賞を受賞。現在、最新作『御法度』(原作 司馬遼太郎)公開に向けて撮影中。妻は女優小山明子。
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