歌集「白描」の歌
◆蘇る歌集「白描」   (岡野先生の拙文より抜粋)
『白描』は第一部「白描」として、短歌502首、長歌7首を、第二部「翳えい」として、短歌154首の二部構成の作品です。各部に著書のモチーフを語る序文が掲げられ、第一部には必要に応じて短歌に詞書ことばがきを寄せていますが、第二部には詞書はありません。第一部「白描」はハンセン病を診断された日から終局までの闘病生活を自伝風に綴っているのが特徴です。第一部は全般に時代を追って構成されていますが、第四章<幾山河>は回想をとりいれています。第二部「翳」は、第一部「白描」とは章のたて方も歌の性質も異なっています。歌の発表順位なども無視され抽象的な歌が多く集録されました。現実離れした超越的な歌に対して批判をする歌人もおりましたが、「翳」には闇夜に生彩を放つ星のように秀歌が数多くきらめいております。

◆第一部 白 描    ( 続き )
◆失明
◇夜盲症 (各項に何首かあるのですが勝手一首〜三種をに選んでいます)
遠からぬ路べりの灯の見えわかず鳥目といふも身の衰へか
◇角膜炎
近づきてその人ならずおろそかに向けしゑまひの冷えゆく暫し
◇暗室
ふかぶかととざす眼科の暗室に朝は炭火のにほひ籠らふ
◇眼神経痛
夜すがらの眼のいたみをまもりきて曉はやき囀りを聞く
まじまじとこの眼に吾子を見たりけり薬に眠る朝のひととき
◇失明
眼も鼻も潰(つひ)え失(う)せたる身の果にしみつきて鳴くはなにの蟲ぞも
◇また
幾人の友すでに盲ひいまは我おなじ運命(さだめ)を堪えゆかむとす
◆おもかげ
◇鳶の輪
首あげて盲の我のうちまもるおん顔と思ふ聲聲のあたりを
◇消息
をりをりを思ひいでつつ見えぬ眼に母への便りを今日も怠る
音信(おとづれ)の今日はありたり老(おい)らくの母が言葉はながからねども
◇おもいで
秋雨の晝をこもりて柚斗(ひきだし)にふるき象棋(しょうぎ)のこまも見いでぬ
その翌(あけ)の弟(いろと)が頬のはからざる冷たみを吾がひとり畏れぬ (弟急死す)
◇俤  (その一)
病む我に逢ひたき吾子(あこ)を詮ながる母が便りは老い給ひけり
思ひ出の苦しきときは聲にいでて子等が名を呼ぶえわがつげし名を
◇歌がるた
夕はやき臥床(ふしど)にをれば 松の内今宵かぎりと 隣間に遊ぶ歌がるた 「久方の光のどけき春の日に」 讀む聲も拾ふ声も ほれぼれと興じざわめく ・・ (長歌) ・・・ ・・・
◇會遊
ひとしきり跳ぶや海豚(いるか)のひかりつつ朝は凪ぎたるまんまるの海
富士が根の萱生高原うちわたす空の涯より風つぎわたる
河はらに白き傘干す冬日ざし堰の網代(あじろ)は曝(さ)れ乾きつつ
◇俤  (その二)
別れ來て十年にあまるこの頃を妻がたよりはかたじけなしも
人づてにものす便りは吾妻(あづま)にもただ健かにゐよとのみこそ
◆不自由者寮
◇轉居
手さぐれば壁にのこれる掛鏡この室にして我盲(めし)ひけり
◇慰問品
不自由者となりはてぬれば己が名に慰問の餅も届けられたり
◇立春
日あたりの暖かからし雀一羽窓さきに居ていつまでも鳴く
◇晩春
熱に臥す面(おも)にまつはる蠅ありて夕餉ののちの明りひさしも
◇五月雨
今をある運命(さだめ)は知らず努めしをあだなりしとはつひに思はず
◇粽
剥くからに柏の餅の香に匂ふ頬赤(まあか)童のこの日かの日は
◇彼
わが病あるいは彼に受けたらむ童(わらはべ)の日のしかも親しさ
◇清書
送り來し吾子が清書は見えわかね相逢ふがにも涙のにじむ
◇小春日
歸省する人を見送る砂丘に晝を鳴きつぐこほろぎのひとつ
◇大掃除
おほ掃除すみてひろらにわが室の畳の上を風の吹きぬく
◇畳替
畳がへすみてはめこむ紙襖友ははげしき夕映えを言ふ
◆杖
◇潮音
時ありて言(こと)にもたがひ癩者我れ癩を忘れて君にしたしむ
◇菊
この島の醫官が君の少女なす語りごとこそ親しかりしを
◇南京陥落
世は今し力を措きて事は莫しますらを君を往けと言祝ぐ
◇秋逝く
秋ふかき晝のひそけさ膝にくる猫にむかひて物言ひかけぬ
◇暦
足袋のまま眠るならひをこの夜は寝返る度に思ひかかはる
◇霜
親しきが一人一人に失(う)せゆきて今はこの身の待たるるごとし
◇灯
今朝は我に箸も添へしを君が往きし重病室に灯ともる頃か
病室に君危篤なり午前二時人みな往きてあとのひそけさ
◇杖
杖さきにかかぐりあゆむ我姿見すまじきかも母にも妻にも
◇夢
人なかに行きあひし父を夢ながらなほざりに見て思ひにのこる
◇草餅
春なればよもぎの餅も食(た)うべよと添へて賜はる言(こと)のよろしさ
◆音
◇聲 (ヘレン・ケラァ女子の放送を聴く)
放送のこの人の聲を島の院に盲(も)ひつつ聴けばなみだし流る
◇前裁
偶々(たまたま)を訪ひ來し聲は前裁のトマトの伸びのよろしきを言ふ
◇音
讀書きに借らむ人手をおもひつつ縁に夕づく物音を聴く
◇歌
夜すがらを案じあぐめる歌ひとつ思ひにはあり朝粥の間も
◆白粥
◇かや  (字がないので:虫へんに厨)
夏立つや夕べをはやき麻がや(虫へんに厨)の去年(こぞ)のにほひにしみて轉臥(ころぶ)す
◇路樹
立ち出でて路樹四五本のそぞろゆき暑しと言ひつつ我の息づく
◇乙鳥
おほらかに羽根鳴らしつつ乙鳥(つばくらめ)梅雨ぐもる朝の窓を出で入る
◇水鶏
おのが身の悼まるるがに亡き父が母なる人の挨拶を受けぬ
◇白粥
哀へし腸のいたみに ひさしくも頂く白粥 醫局よりの許可傳票 炊事場に届けば この島の飯の器の 飯盒の蓋に盛れるを舎の人の交るがはるに 運び下さる幾年の ・・・(長歌)・・・
◇跫音
跫音は外(と)の面(も)をゆき過ぎ 附添の友は歸らず 五時の鳴りやがて六時の ラヂオなる 唱歌は歌えど 盲ひ我夕餉のすまぬ ひもじさに思ふともなき 遠き日の・・・(長歌)・・・
◇送別
まづ一つと我が手にとらす饅頭のささやかにして君を送るか
◇乳臭
あやされて笑ふ聲音(こわね)も乳の香もこの島にして兒(ちご)のめでたさ
◇歸雁
わが骨の歸るべき日を歎くらむ妻子等をおもふ夕風ひととき
◆気管切開
◇異状注射
胃袋の疼みのやめば胸の頭(づ)の諸々のいたみなべて収まる
◇麻痺
指(および)より肘にひろがる火ぶくれの己がこの手ぞゆゆしかりける
◇鼻
鼻ありて鼻より呼吸のかよふこそこよなき幸の一つなるらし
◇喉
幾たりのかたゐを悶え死なしめし喉の塞(つま)りの今ぞ我を襲ふ
辛くして吸ふなる息を咳きに咳くこのひとときぞ命がけなる
◇朝
朝六つの鐘は鳴りいで から風の一夜は明けぬ 起出でて何とはなけれ 息づまる喉のただれに 
咳き喘ぎ寝ずて明せば 健かに人のとよもす 朝音(と)は宜(よ)しも       (長歌)
◇入室
載せられて擔架に出で來ねわが室をめぐるけはいは聞きのこしつつ
◇気管切開
切割くや気管に肺に吹入りて大気の冷えは香料のごとし
まともなる息はかよはぬ明暮を命は悲し死にたくもなし
◇父なる我は
子も妻も家に置きすて 天刑の疫(えやみ)に暮るる幾とせを くづれゆく身體髪膚に 聲あげて笑ふ日もなく いつはなき熱のみだれに 疼きては眼をもぬき棄て 穿てども喉のただれの 募りては呼吸(いき)も絶えつつ 死しはあへぬ業苦(ごふく)の明暮 幾人はありて狂へり 誰れ彼は縊れもはてぬ ながらへて人ともあらず 死に失せて惜まるるなき うつそみの果に・・・・(長歌)・・・
◇朔
おほかたは命のはての歌ぶみの稿を了へたり霜月の朔
第二部 「翳」は次ページです

◆この「白描」については「明石海人顕彰会」にお問い合わせ下さい。 明石海人顕彰会活動紹介HPへ 活動紹介のHPへ
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