明石海人の歌集『白描』の歌と歌意
これからも一首でも多く紹介していくつもりでおります。歌意の後にその作られた時の周辺など説明を付けて行きたいと思っています。
医師の眼の穏(おだ)しきを趁(お)ふ窓の空消え光りつつ花の散り交ふ
歌意: 診断の日、私に「レプラ(癩)」を宣告した医師の目の穏やかさ。その医師の向こうの窓の外には、桜の花びらが光りとなり、陰となり、はらはらと散交わっている。
昭和元年(大正15年)桜満開のころ東京帝国大学医学部付属病院にて、ハンセン病の診断を受けた時の歌で、後に振りかえって、その時の衝撃は筆舌に尽くせないものだったろうが、医師の穏やかな目をみて、動揺しながらも一瞬の放心状態のような気持で、医師の向こうの窓の外の桜の花びらの散ってゆくのをこれから自分はどうなってゆくのだろうとぼんやり見ていたな。の意いが伝わる。
鉄橋へかかる車室のとどろきに憚(はば)からず呼ぶ妻子がその名は
歌意: 鉄橋へさしかかった時の一際高い音響に、周囲の人に気兼ねせずに、別れのせつなさに耐えきれず思いきり妻と子の名前を呼び叫んだのだった。
この歌は、昭和2年6月5日に明石に向かう車中で、その日の父母との別れや、妻が目にいっぱい涙を浮かべた淋しげな姿や、それとは分からずにはしゃぐ長女の無邪気な「さようなら」の言葉などが思い出され、父は、病のためもう戻れないかもしれない旅に1人旅立つのだ、故郷に全てをのこして、との思いかこみ上げてきたのでしょう。
上の歌意と説明は顕彰会の資料や
紹介をしています)などを参考にし
年年譜を参考にしていますので、 


◆「瀬戸の潮鳴り」
から歌と歌意抜粋

         (第一章 生いたち)
「瀬戸の潮鳴り」(文芸社・松田範祐著・書籍の所で
ていますが、日時については岡野久代さんの数え
作品の日時などは若干の相違があります。

 (以下の歌意と歌意後の説明書きは、著者の
              文をそのまま抜粋しています)
(え)も弟(おと)もひねもす呆(ほ)けし潮あそび日焦童(ひやけわらは)の頃の恋ほしき
歌意: 私は兄、弟と一緒に一日中、海で遊んだものだ。真っ黒に日焼した、そうした子供時代がなつかしくてならない。
出生地、片浜村は、背後に富士山をのぞむ半農半漁ののどかな村だった。家のすぐ近くには、駿河湾に沿った美しい千本浜が広がっていた。その浜は幼少時代のかっこうの遊び場であった。兄ふたり、弟ひとりと、よく海で遊んだ。
遠泳にめぐり疲れしかの島に光りくだくる白波が見ゆ              
歌意: 遠泳でぐるりと一回りした島に、光ながら砕け散る白波が、今、疲れた視線の先に遠く見えていることよ。
石の面に彫れば冷たき弟が名やわが世の翳(かげ)ぞかくも兆しし              
歌意: 石の面に彫った弟の名前の冷たさよ。私の人生の翳りの部分はこのようにして始ったのだ。
弟が、野田家の墓に収められたときの歌。弟の名前を記す墓石はしらしらと冷たくい。皮肉のも、彼の未来を蝕むことになるライ菌が、ひっそりと彼の体内に侵入していたのも、思い返せばこの頃であったのである。

(第ニ章 発病)
そむけたる医師の眼(まなこ)をにくみつつ(うべな)ひがたきこころ昂ぶる 
歌意: 私と目を合わそうとしない医師のその目を憎みながら、診断の結果を信じたくない気持ちが昂ぶるばかりだ。
診断を今うたがはず春まひる癩(かたゐ)に堕(お)ちし見の影をぞ踏む 
歌意: 診断の結果はもはや疑う余地もない。この春の真っ昼間、癩という身に落ち込んだ私の影を踏みながら歩いて行く。
その時の衝撃は、筆舌に尽くせるものではないが、のちに海人は、その時の心境を次のように歌っている。【と、この2首の歌と、上の”医師の眼の穏しきを・・”の歌を載せ・・】医師と看護婦に励まされ、やっとの思いで病院をでたものの、鉛でもひきずるように足取りは重かった。夫を迎えた妻、浅子は、その顔がはっとするほどやつれているのに驚いた。
【その日の始終は、長く僚友として苦楽を分かった松村好之氏が、その著書「慟哭の歌人」で詳しく書いている。と・・・松村好之氏の文をそのまま載せ、その日の海人の様子を引用しています】
(第三章 明石へ)
さらばとてむずかる吾子をあやしつつつくる笑顔に妻をかなしむ   
歌意: むずかる我が子を、さようならと言いつつあやしながら、作る笑顔で妻を泣かせてしまった。
列車に乗り込むと、瑞穂は母親に教えられたとおり、「おとうちゃん。さようなら」をくりかえし、しきりに帽子をふる。今まで、三日と別れて暮らしたことの瑞穂にとって、今日の別れの何であるかを知るはずもない。彼女の無邪気な心は、ともすれば、父親よりも、むしろ黒い、長い列車に向けられていた。海人は窓から体を乗り出し、妻の背中の和子をあやそうと笑顔を作った。しかし、その笑顔も、かたく歪むのをどうすることもできなかった。
【この歌と、上記の ”鉄橋へかかる車室の・・” を歌を載せています】


海人の書いた
妻の肖像スケッチ
◆美しい自然になごみ、かつ勉強に励みながら、かれが見つめていたもの − 
  その根底に何よりあったものは、やはり妻子の面影であった。
      (と、「この第三章」では、海人の日記を紹介しています。)
妻よ。お前の純情は忘れない。こんな事情になっても、まだ愛情を失わないお前に対して、ただ涙の感謝があるばかりだ。異性の肉体の美しさに魅せられた感情には、貴さがない。しかし、その心の美しさには、魂の底からふるい動かされる。妻よ、お前を有する限り私は幸福である。まことに、お前は私にとって総てである。                     6月9日の日記
この夕、吾子たちは何をしているのか。父は夕日さす室に、故郷を思い、吾子たちを思い、沢庵をかみつつ泣いている。                            6月10日の日記
今頃は朝めしでも食べているだろう。和子を中心にしてさぞ大騒ぎだろう。そう言えば、和子はどんな顔をしているかな。よく寝かせて泣かせておいたが、今思うとたまらなくかわいそうになる。まだ立ち上がるようにならないかな。まだ座らないかな。あやすとにっこり笑い、時には声をたてて笑う。その顔が、ちらりと映っては消え、消えてはまた映る。今頃は、何をしているだろう。

                                       6月26日の日記

 (第四章 次女の死)
語るべき人もあらなく霞たつれんげ花野を一日(ひとひ)さまよふ  
歌意: 話しかける人は誰一人なく、霧がたちこめ、れんげ咲く花野を一日さまようことよ。
【次女の死を知り、葬式に出れぬ経緯や次女の思い出や最後の別れを思い出している文の後に】
 あたりの総てが、春の光につつまれていた。しかし彼には、彼自身の春の感覚をいろどる余裕はなかった。道ばたの石ころを一つ一つ溝川に蹴落としながら、あてもなくさまよい歩くのだった。
すでにして葬(はふ)りのことも済めりとか父なる我にかかはりもなく
歌意: すてに葬式も終ってしまったとか。父である自分には何のかかわりもなく。
和子が生まれたのは、大正15年の暮であった。自分の背中の赤い斑紋に気づいてからのち、東大病院で、癩の宣告を受けるまでの間に生まれた子供である。その子も、春、夏、秋、冬、季節を一通り見終ったあと、こちらに何の心の準備もさせぬまま、あわただしく逝ってしまった。自分の運命の暗転とともに生まれた子供が、今さらにして哀れでならなかった。
(左は海人の書いた「和子」さんのスケッチです)
(第六章 再び明石へ)
いつの日かわが臨終は見給はむ母とたのみつつこの人に頼る。    
歌意: いつの日か私の臨終を見守ってくださる母ともして、この人によりかかって生きている。
(第七章 ふるさと)
母父(おもちち)に手をとられつつ興じやまぬこの幼きを別れゆかむとす      
歌意: 右と左から両親に手をとられ、はしゃぎやまないこの幼子とも、これから別れて行こうとしているのだ。
(第十章 雷鳴のあと)
人ごみに遠ざかり行く襟足の繊(ほそ)きがなにか眼には沁みつつ  
歌意: 人ごみの中に遠ざかって行く妻よ。その細い襟足が、なぜか無性に我が目に沁みながら。
(第十一章 鴉)
あらぬ世に生まれあはせてをみな子の一生(ひとよ)の命をくたし棄てしむ  
歌意: 不都合な世に生まれ合わせて、一人の女性の一回限りの命、一生を台なしにさせてしまった。
地獄にも堕ちなば堕ちね我がために弧(ひとり)をまもるをみな子は愛(を)し
歌意: 私など地獄に堕ちるものならは堕ちればいいのだ。こんな私のために、孤独を守り通す女性がいとおしいばかりだ。
一首目の「くたし」は腐らせての意。実はこの二首は、一般的な見解として、妻を詠んだものとされている。そして、事実、そのように読めるべく並べられているのだが、一首目の歌は、泉陽子に対する壮絶な懺悔以外の何ものでもない。その激しい罪悪感が二首目「地獄へも堕ちなば堕ちね」という自己への断罪となって、妻に向けられている。妻は自分を許したが、自分は決して自分を許してはならないのだ、と 
     (泉陽子は明石病院で海人の隣々室だった女性で、海人と一時期同棲をした人)
(第十ニ章 愛生園へ)
思い出の苦しき時は声に出でて子らが名を呼ぶ我がつけし名を  
歌意: 思い出をたどる時、せつなく苦しい。そうした時、思わず声に出して我が子の名前を呼んでしまう。ああ、その名はこの私がつけた名前なのだ。
(第十三章 曙光)
父母のえらび給ひし名をすててこの島の院に棲むべくは来ぬ   
歌意: 両親がつけて下さった本名を捨てて(自分の身元を秘すために)別の名前を名乗り、この島の病院に住むためにやって来た。
海人が、担架にかつがれて長島に来たのは昭和7年11月24日。後に彼は(この歌・父母の・・)とその日のことを歌っている。が、実情はそうした雰囲気ではなかった。この歌を読む限り、人々は小荷物一つ持って、桟橋にたたずむ彼の姿を想像するのではないだろうか。
(第十四章 深海の魚族のように)
はかなくも病み病む我や水らへて今日ふるさとの父逝くときく   
歌意: はかないことに、病気のまま生き永らえて、今日、ふるさとの父が亡くなったということを聞いた。
(終章 生くる日の限り)
拭へどもへども去らぬ眼のくもり物言ひさして声を呑みたり    
歌意: 拭いても拭いても去らない目のくもりよ。事の深刻さにはっと気づいて、言葉の途中にして声を呑んだ。
かたゐ我三十七年をながらへぬ三十七年久しくもありし
歌意: 癩者である私も三十七年を生き長らえた。その三十七年も結構長かったとも思う。
彼の歌への執念の底には、こうした自負と使命感があったのである。それは同時に、癩病で苦しむ仲間たちとの熱い連帯感であり、愛する母、妻、娘へのメッセージであったはずである。しかし、視力なく、体の自由がなく、果ては声帯まで失った海人にとって、その志がいかに高かろうが、彼に寄り添い、彼の意のするところを懸命に筆記した仲間たちがなかったならば、いっさいはなかったと言っても過言ではない。

海人は歌集『白描』のあとがきの中で、「目の見えない上に声の出ない私を助けて、煩瑣の草稿の整理にあたってくれた病友、小田武夫、春日英郎(著者注―伊郷芳紀)、山口義朗、三君の労苦にも深くお礼申し上げる」と書いている。  昭和十四年六月九日、午後九時四十五分、三十七年十一ヶ月の生涯を閉じる。
【と、この歌を載せ、この「瀬戸の潮鳴り」は結んでいます。】

◆「瀬戸の潮鳴り」著者プロフィール
松田 範祐 (まつだ のりよし)
昭和15年8月2日、サイパン島にて生まれる。慶応義塾大学卒業。
現在、母校の関西高等学校教諭。日本児童文学者協会会員・龍和歌会同人
児童文学会「松ぼっくり」同人。ファンタジー小説・童話の出版5作品

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