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全国に13施設の国立ハンセン病療養所がありますが、昭和5年(1930)に創立。今年で、開設70周年を迎える日本最初の国立の癩療養所です。瀬戸内の小豆島の北に位置し、岡山県南東部の穏やかで温暖な、岡山県邑久郡邑久町、瀬戸内海上の小島にあります。昭和63年5月に邑久長島大橋の開通により隔離の島ではなくなりました。(静岡県御殿場市には駿河療養所があります。)
明石海人はこの長島愛生園に、明石楽生園の閉鎖もあり、意識不明のまま運ばれて来ました。
周囲の看病もあり、少しづつ海人の病状は小安を得ますが、精神的には錯乱状態が続き、ここの光が丘という小高い丘で海人は、神の啓示を受けたかのように、立ち直ります。
そして、よき同僚、先生方の指導もあり、改めて短歌に取り組みます。
その介護にあたる人達への「こころ」にも気づく余裕をもてた海人は、「自分たち癩者は癩の身から逃れられぬとしても、彼らは進んでその場へ身を投じようとしているのだ。自分たちには選択肢はないが、彼らは多くの選択肢の中から、進んで、自分たちと運命を共有しているのだ。しかも、その多くは、家族や親族の猛烈な反対を押しての赴任と聞
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いている」と、「自分や自分の周辺の事しか考えなかった海人が、改めて医師や看護婦の身に置いて考える時、その志に心をうたれずにはいられなかった」と「瀬戸の潮鳴り」で紹介されています。
そして、海人はその終焉の時まで、この地で短歌を作り続けました。まさに当時にしてみれば、病気の原因や直すクスリも開発されていない時代です。大変な覚悟や献身的精神が必要だった仕事だと思います。勿論全国にある療養所に勤務した人達も、そうであったと思います。確かに、ハンセン氏によって、菌が発見され、特効薬も開発され、不治の病でなくなってから、世界的に日本の隔離政策は長きにわたり、その失政は反省すべきです。しかし、献身的にこの仕事に従事していた人達の功績も忘れてはいけないと思います。
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明石海人歌碑 (美(み) |
めぐみは言(い)はまくかしこ日の本の癩者に生(あ)れて我(われ)悔(く)ゆるなし) |
開園以来の70年間に亡くなられた入所者は(なくなっても遺骨を引き取りを家族が嫌がることもあったので)ここの納骨堂に眠る方が3千2百余名を越え、現在では(1年は365日、亡くなった方3千名以上で、毎日、どなたかの命日にあたる)毎日が命日となり、遺骨が納められた「万霊山 納骨堂」の前から、供花と線香、静かな祈りが絶えません。 癩予防法が廃止され、ハンセン病訴訟で国も控訴を見送り、過ちを認め、法的にはやっと社会復帰を認められた今も、まだ この愛生園にも570余名の方々が、入所なされています。
本当の社会復帰はこれからです。高齢の方も多く、親が生きていれば(経済力があれば)引き取ると言う方もいらっしゃるかもしれませんが、兄弟ではそれぞれ生活もあり、まして自立して、社会で働き収入をえて、普通の生活をするのは至難のことです。
それぞれ完治していても、知覚障害などの後遺症もあり、社会に復帰して生活をする場合、知覚障害による感染症になった場合の医療体制の完備なども必要です。
こういう問題をかかえて、本当の意味での社会復帰を願い、また、偏見や差別を無くすため、活動なされている、元患者の方達も多くいらっしゃいます。
現在の長島愛生園は職員約500名(医局16名・看護部305名など、また看護学校や保育所もあります)、入所者数(H12.5現在)576名。雑誌「愛生」と「点字愛生」を発行、創作、詩、俳句、短歌、川柳、随筆等を掲載しています。
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