長島の人
海人も「自分たち癩者は癩の身から逃れられぬとしても、彼らは進んでその場へ身を投じようとしているのだ。自分たちには選択肢はないが、彼らは多くの選択肢の中から、進んで、自分たちと運命を共有しているのだ。しかも、その多くは、家族や親族の猛烈な反対を押しての赴任と聞いている。自分や自分の周辺の事しか考えなかった海人が、改めて医師や看護婦の身に置いて考える時、その志に心をうたれずにはいられなかった」と「瀬戸の潮鳴り」で紹介されていますが、まさに大変な仕事です。
海人の歌を「瀬戸の潮鳴り」で拾っていたら、うっかり海人の歌として歌意に入れそうになったので、よく読むとこの説明書きがあり小川正子さんという医者の紹介がありました。歌碑にもなっているそうで、長島の人のご苦労の、またその思いがぴったりと感じたので、このページに紹介しておきます。

小川正子さんの歌碑
夫(つま)と妻(め)が親とその子が生き別る悲しき病世になからしめ (小川正子さんの歌)
歌意: 夫婦、あるいは親子が生き別れねばならないような悲しい病気
この世からなくなってしまいますように
山梨県春日居町に小川正子記念館があります。
「白描」復刻によせて
国立療養所 長島愛生園園長・医師  中 井 栄 一
 長島愛生園のほぼ中央から北西の方向に突出した丘の頂上に万霊山納骨堂があり、その南東麓に、現在では草の生い茂った平坦に土地が階段状にならんでいます。このうちの最も広い敷地に1号から4号までのめじろ舎があり、この4号に相当する部分が明石海人の居住跡です。即ち氏はめじろ舎の住人でした。周辺には今も椿の木が多く、目白がむれでやってきますので、めじろ舎とはまことにふさわしい名でした。
このあたりには多くの舎があり、それは明石の病院より移動された人々の為のものであったそうです。氏もその一人でした。

 氏の歌については、殆ど何も知らず「白描」というすぐれた歌集を残されたと聞きながら、それを勉強することもなくすごしてきましたが。今回縁をいただき原稿をたのまれましたので、急いで手もとにある「海人遺稿」などを拝見しています。

 それには散文の間に歌がほどよくちりばめられ、全体として緻密な構成となっている作品もみられます。氏の歌の傾向は万葉調だというのが一般的な意見のようですが、むしろ釈迢空(折口信夫)に極めて近いのではないかと、思います。惜譚などもそうですし、しらべにも迢空を思わせるところがあります。しかし迢空ほどには激越ではなく、抑制が効いていて快いところがあります。

 尤も迢空も万葉集や記紀の古謡に学んだということですから、たしかに傾向としては似ているわけでしょう。しかし氏の方がより一般性をおびているようです。氏の手書きの万葉集を愛生園の神谷書庫で拝見しましたが、その勉学熱のすばらしさに圧倒されました。迢空の歌も同様にして学んだとのことです。自らの境遇をつきぬけてその情念を一般化にし、更にそれを高度に完成させ得たところに、明石海人氏の不朽の歌業があったと思います。

       ― 歌集 白描より抜粋 ―
釈迢空(折口 信夫)
 (しゃくちょうくう)
1887年(明治20年)2月11日大阪市に生まれた。民俗・国文学者、歌人として知られる文学博士、釈迢空と称し、アララギ派の歌人として出発し北原白秋、木下利玄らと歌誌「日光」を創刊した。

長島愛生園歴史館


◆歴史館の玄関には綺麗な
 ステンドグラスがあり
 訪問者にその歴史を
 考えさせてくれます。
1階には常設展示室や 映像展示室、ギャラリー、陶芸展があり、 2階には企画展示室、図書室などがあります。常設展示室はハンセン病の説明、歴史年表、患者作業、医療の歩みなどや愛生園全景模型、恵の鐘、園内通用通用票などが展示されています。映像展示室には、愛生園の紹介DVD、 ハンセン病関連の映像が見られます。入館料は無料ですが事前予約が必要となっています。
(休館日は月曜・金曜で夏は8月10日〜20日、年末年始12月28日〜1月5日です)

国立療養所・栗生楽泉園の村越化石さん
長島愛生園と同じ国立療養所の栗生楽泉園に海人と同じ静岡県出身の俳人が居られます。 藤枝市岡部町のハンセン病の「魂の俳人」として知られる村越化石さんです。
いま、後世に化石さん語りを記録し化石さんの「生きるとは」の思いを後世に訴えると、藤枝市が集録に取り組んでいることを静岡新聞(H21.10)が伝えました。ハンセン病を患った村越化石さん(57)はハンセン病や国の施策にほんろうされ、海人と同じように「俳句」に光明をみいだした化石さん。俳句への思い、ふるさと岡部に対する望郷の念、母への愛を詠んだ作品などを、温かい人柄に触れながら紹介しているようです。草津の国立療養所、栗生楽泉園で生活する化石さん。
化石さんは1970年48歳で両目を失明し「美しい思い出ばかりのうちに失った」とハンセン病の俳人として生きてゆく決心をしたこの時の心境や「俳句」は自身の「記録」とし、情感や風景がふっと浮かんだ際にいつも詠んでいるとのことなどを語ったようです。つらいハンセン病のことは化石さんは多くを語ろうとはしなかったとのこと。海人が狩野川や沼津千本浜が心の中のふるさとへの思いでであったように、化石さんは岡部の山河は「心のともしび」といっています。岡部を思いながら今も「俳句」を作り続ける化石さん。いつまでもお元気で長生きをと思います。

     <国立療養所栗生楽泉園のホームページはこちらです>

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