11.
──直江。
あの人の声がする。
──直江?
──何ですか?
──ああ、良かった。いくら呼んでも目を覚まさないから。
──心配してくださったんですか……?
──ああ、そうだな。少しな……。
ああ……。あなたはいつも、そうやって素直になれない。
──そうですか。すみませんでした。ご心配おかけして。
──いや……。
──大丈夫ですよ。私はあなたを置いてはいかないから。
──そうだな……。
──あなたも、私を置いていかないでください。
──……ああ。
──約束してくれませんか。
──……。
──高耶さん。
──……直江。
──景虎様……。
どうして、そうだな≠ニ、頷いてくれないのだろう……。
──高耶さん……。
──ごめん……直江。
──高、耶さ……?
──駄目なんだ……。
どうしてあなたは、こんなにも悲しく微笑むのだろう。
──もう遅いんだ。
──たか……。
──さよなら……直江。
──……ッ、高耶さん!
どうして……そんな、そんなまだ間に合うはずだ……!
──さよなら。
サヨナラ───。
高耶さんッ!─────
***
「はっ……!」
直江は掛け布団を跳ね除けて、物凄い勢いで身を起こした。
「はぁ……はぁ……はッ、くぅッ……」
直江は右手で顔を覆った。手の平も顔もビッショリと汗にまみれている。
息がひどく荒い……。
「くっッ……!」
── 直江。
「くっそぅ……!」
直江は荒々しく立ち上がり、夜着を着たまま丁寧とは言い難い手つきで家の襖を開けた。
そして徐に表に出て、素足のまま外に駈け出した。そのまま直江は何も考えずに走った。
特に目指すところもなく、無心に。ただただ無心に。
石で素足が切れても、駈け抜ける風が身を切り裂くほどに冷たくても、何も感じない、痛覚がない。何も感じない、何も考えられない、考えたくもない……!
直江は息を切らして、一本の桜の木の元で立ち止まり、荒く息をつきながら乾いた木肌に手を付いた。
そこは、昨日景虎と共に怨霊を調伏した土手だった。戦闘した場所とは少し離れているので、念による争いの形跡や、怨霊たちの残留思念は感じられない。
直江は必死で歯を食いしばった。奥歯がすり潰れるほどに。どうしよもない恐怖と苛立ちと、絶望感とに死に物狂いで戦っている。
だが高耶のあの悲しい表情が、あの別れの言葉がどんなに追い払っても離れていかないのだ!
直江はたまらなくなって、自分の拳を木の幹に殴りつけた。
痺れるような痛みを感じたが、構わずに何度も何度も、血が噴き出しても全身の力を込めて殴り続ける。
(くっそおぉぉぉっ!)
バキィッ、バリバリィ─ッ!
凄まじい轟音を立てて、桜の幹が真っ二つに千切れ飛んだ。
渾身の力を込めて放った直江の拳から、無意識のうちに《力》が爆発したのだ。
あたりは焼け焦げた枝の残骸がパラパラと降り、降り終わった後はただ、直江の荒い息遣いのみが聞こえてきた。
直江はその場に崩れ落ち、焼け残った木の根に背を預けて、空を仰ぎ見た。
空には零れ落ちそうなほどにまばゆい、満天の星空が広がっていた。
この世のものでは無いかと思うほど美しかった。
四国の空は常に厚い雲に覆われていて、この星空を見ることはできない。
高耶にも見せてあげたいと思った。
力なく投げ出した拳は、裂傷で血まみれになっている。
顔面にも拳の血が飛び散って、ところどころ赤い雫が伝っている。
それと交わって、透明な雫が頬を滑り落ちた。
直江は泣いていた。
声もなく涙を流していた。
あの日から一度も流れることのなかった涙が、いま、とどまることを知らず流れ出ている……。
ああいった夢を見るのはこれが初めてではない。
何度も何度も繰り返し見て、その度に彼を失う恐怖に駆られて、目覚めた途端すぐに彼の無事を確かめるために……声を聞くために彼の携帯に電話をかけるのだ。
高耶もそれが分かっているのだろう。そういう時は必ず、取り留めのない会話を交し合う。
その時だけは、どこにでもいる恋人同士の会話のようだった。
時には本当にそうであったならと、思うこともあった。
けれども、今は確かめることもできない。声が聞けない。もし本当だったなら、もし正夢だったなら。もし高耶が、彼が本当に、本当ニ死ンデシマッタノダトシタラ……!
(どうして俺はここにいる……)
(どうして彼のそばにいない……!)
いつしか涙は止まり、直江は固く瞳を閉じた。
(どうしてなんだ!)
あたりは静寂に包まれている。
この次に目を開けたときに、そこが現代であったならと、直江は願わずにはいられなかった。
これが悪い夢であればと……。
「どうしてだ……」
そう呻いた時だった。
気配があった。
忘れようもない、
忘れられるはずもない、
唯一つの気配。
目で確かめずとも、この気配だけはいつだって分かった。
ゆっくりとまぶたを開き、直江は呟くように言った。
「高耶さん……」
視線の先にはその人の、愛しい姿があった。
ゆるゆると右手を上げ、その人の頬に指先が触れようとした時。
「直江」
その瞬間、伸ばされた手がビクリと止まり、まるで催眠術が解けたかのように靄がかっていた視界が鮮明になった。
そして視界に捉えたその姿を認めて、直江は驚愕した。
「景虎……様……」
目の前に現れたのは景虎だった。
直江は衝撃のあまり微動だにできず、そのまま硬直してしまった。
景虎も直江の名を呼んだきり言葉を紡がず、目を見開いて直江を見つめたまま固まっている。
暫らくの間そのまま動かずにいたが、沈黙を先に破ったのは直江だった。
「どうしてここに……」
景虎は直江の発した言葉に、ハッと意識を取り戻して、慌てて直江から視線を外した。
「誰かが……オレを呼ぶ声がして、その声をたどってきたら、物凄い轟音がしたからここまで調べに来たのだ……」
直江はその言葉に再度驚いた。
「声……?」
「ああ……、今はもう聞こえてこないが、ちょうどこの辺りから……」
そう聞いて周りを見回してみたが、特に見当たるものはない。
だとすれば……。
「おまえか……?」
景虎が言った。
「おまえがオレを呼んだのか……?」
直江は即座に否と言いかけて、口をつぐんだ。
景虎に思念波を送った覚えはない。だが、無意識のうちに高耶に送った思念波が景虎のもとに届いたのかもしれない。
けれど……。
「……いえ、違います」
目を伏せるようにして直江は答えた。
「そう、か……」
そう言って、視線を再び直江の顔に移したが、その顔にこびり付いている物を見て、景虎は今更のように思い出した。
「それよりも直江、おまえこそ何があったんだ!手が血まみれだぞ!」
叫びながら直江の腕を掴んだ。拳は血こそ止まりかけていたが、拭いもせずに放置していたため、赤黒い液体に濡れたままだ。
「大したことはありません……」
「そんなわけがないだろう!」
景虎は直江の腕を放して荒々しく立ち上がると、直江を置いて土手を降り、小川の方へ駈けて行った。
直江も怪我の無い左手を地面について立ち上がり、急な斜面を降っていくと、景虎は折りよく持っていた手ぬぐいを二つに引き裂いて、一方を川の水で濡らしていた。
直江が傍らに膝を付くと、水気を絞った布を目の前に差し出し、
「これで顔を拭え」
とつっけんどんに言った。
直江はそれを受け取って顔に付いた血を拭っていたが、
「まだついているぞ」
と指摘され、なおも拭っていると仕舞いには、
「ほら、右のこめかみに……ああッ、いいもう貸せ!」
と景虎にひったくられて、ゴシゴシと痛いほどにこすられてしまった。
一応顔を拭き終わると、いったん布を川で濯ぎ、今度は血みどろの手を引き寄せられる。
さすがにこっちは丁寧に拭かれていって、次に懐から出した軟膏を直江の傷口に満遍なく塗っていった。……用意がいい。
最後に、引き裂かれたもう一方の布で傷口を巻いていった。なかなかの手際よさであったが、巻き方が多少不恰好だ。そういえば随分昔、景虎はさすが御曹司育ちと言うべきか、こういったこまごました事が苦手だった。
無論直江もそれほど得意というわけではなかったが、長い年月のうちにそれぞれ家事一般をこなせるようになっていったのだ。
「これでいい」
そう言って、景虎は直江の手を放した。
直江は布の巻かれた右手を見て、景虎に向き直り、
「ありがとうございます」
と礼を言った。だが直江は意外そうな顔をしていた。今の景虎は自分のことを毛嫌いしている。なのにこんな風に世話を焼いてもらえるなんて、意外なことこの上ない。
「おまえに礼を言われると、何か気分が悪いな」
と景虎は愛想も無く眉を顰め、すっくと立ち上がった。ニ、三歩歩いたところで再び立ち止まる。
景虎はそのまま微動だにせず、川の流れを見つめている。
直江もそんな彼を黙って見上げていた。
for your and my eternal happiness.
Someday, I will pray to the meteor