10.
少しして晴家と景虎が中に入ってきた。
外には藤の嗚咽は聞こえなかったのだろうか。泣き止んで落ち着いた藤は、何事も無かったように夕食の用意を始めたが、目を赤くしたその顔を見て、晴家は心配そうに尋ねた。
「藤……どうかしたのか?」
藤は少し間を置いて、
「いえ、何もございませんよ、晴家様」
と微笑を浮かべたが、それが作り笑いであることが晴家には分かった。
それに心なしか声も低い。
彼は藤が先程まで直江と二人でいたことを思い出し、即座に直江に原因があることを悟ったが、彼女の前で問い詰めるわけにも行かず、直江を探るようににらみつけた。
直江は晴家の視線に当然気づいていたが、ここで何か反応でも返そうものなら晴家の頭に血が上るのは眼に見えているので、気づかぬふりをした。
晴家という人間は、素直で実直で男気のある、家臣としては信頼の置ける良い部下なのだが、悪く言えば単純で行動パターンが読みやすく、扱いの分かりやすい人物なのだ。
思えばその実直さが、景虎の兄である氏照と少し似通ったところがあるかもしれない。
生前の景虎と最も親しい臣下が晴家であったのは、こんなところにも理由があったのか。
何にしても彼は友人としては本当に良い人物だと思う。……もっとも、今は友人として付き合うわけにはいかないので、少し距離を置いたほうが無難と言うものだろう。
実際、初日にも痛い目を見ている。(晴家≠フ名で呼んだ件だ。あれは「つい」とかいう問題ではなく、晴家≠ニ呼ぶことに何も疑問を持たなかったのだ)
かといって、習慣というものは恐ろしいものだ。晴家にはともかく、景虎に対しては、本当に無意識に何らかのアクションを行ってしまう。
四百年かけて築き上げてきた習慣は、いくら注意してもそうそう消えるものではないようだ。
赤鯨衆においても、互いに赤の他人を装ってきた自分たちだが、おそらく一部の人間には、二人が長年連れ合ってきた旧知の仲だということを察することができたのではないだろうか。(兵頭などはその口だろう)
しかしその場合とただ一つ違うのは、高耶も無意識だったということだ。無意識だから、自分とのやりとりも当たり前のことと思って気づかない。しかし他人から見れば知り合って日が浅いもの同士にしてはあまりにも意思の疎通がスムーズすぎて、違和感を感じるものだろう。
だから今の景虎は、直江の不自然な行動・態度にいちいち違和感を覚えて戸惑い、撥ね付ける。
それにしても、当たり前のことだが四百年前も景虎は景虎だった。
あの口から吐かれた毒は、何十回、何百回と味わった今の自分でも心臓を鷲掴みにされた心地がする。ふさがった傷口を刃物でえぐられ、当時の感覚を無理矢理引きずり出されて、まるで自分が本当にあの頃に戻ってしまったかのような錯覚に囚われる。(実際戻っているのだが…)
喰らう痛みは何も変わらない。変わったのはポーカーフェイスが上手くなったことぐらいか……。
だが最近の景虎は、最初の頃のようには自分にあまり悪態をつかなくなった。
自分の態度の違いに戸惑っているのだろうか。この当時の彼には、何かあれば条件反射のように罵られていたので、何も言わない景虎に逆にこっちが違和感を覚えたりした。
そんな考えに耽っているうちに、食事の仕度は済み、おのおのは囲炉裏を囲んで夕食を食べ始めた。
しばらくは直江以外の三人で今日調伏した怨霊について語り合う。
「それにしても、いくら調伏していっても後から後からわんさかと出てくる……。越後だけでもこの数では、日本中となるとどれほどとなるのでしょう、景虎ぎみ」
「ああ……想像もつかないな。だがここら辺の怨霊はもう、あらかた調伏し終えたはずだ。そろそろ場所を変えねばならぬな。……勝長殿がもうじき帰ってきても良い頃なのだが」
勝長……という言葉に直江は反応した。
色部は今、琵琶島の方へ単独で調査に赴いている。情報交換に送られた書状には、今日明日中にはこちらに着くと記してあったのだ。
「色部さん……か」
直江は思わず呟いた。
最後に色部と会って、もう一年以上経つのか……。一刻も早く現代に帰りたいのは確かなのだが、その前に一度……この時代の色部に会いたかった。
それは長秀にも言えることだが、長秀が夜叉衆に入るのはおそらくもう少し後だ。それまで待っているわけにはいかない。
呟きを漏らした直江を、晴家は再度怪訝そうに見た。
直江も毎度のことながら気づかぬふりをしたが、今度こそ晴家は直江に問いをぶつけてきた。
「直江、前から思っていたのだが……おぬし少し口調が変わらぬか?」
突然振られた話題に、直江は多少苦い思いがした。
直江は勿論、この時代の武士の言葉を心掛けて喋っていたのだが、やはりそうそう誤魔化せるものではないらしい。
確かにこの時代において言葉遣いという物は、現代とは違った意味でまた重要なものだった。
言葉の訛りの判別は間者探索の基本的な手段であり、訛りの調子でどこの国の者かも推測できてしまう。
この時代の武家の子息は、言葉や筆跡に殊更に注意を払い常に人を観察することを教えこまれながら育つ。無論直江もそうだ。言わずもがな、景虎も、晴家もだ。
(小太郎のようにはなかなかいかないな……)
何か多少悔しいものがあったが、表情には出さなかった。
「そうか?あまり気にしたことは無いが」
「いや、やはり変わったな。おぬし実は別人が扮しているのではあるまいな」
と、冗談にもならない挑発を返してきたが、直江は相手にしない。二年前のことを思えば、本当に冗談にもなっていない。
「そんなことはない」
「そうか?だがこの頃のおぬしが変わったということには違いないだろう。偽者で無いとすれば、何かに憑かれているのではないか?」
直江は溜息がつきたくなった。
晴家に何と言われてもまるで他人のことを言われているようでなんとも思わないのだが、いい加減鬱陶しいものだ。
景虎の悪言が条件反射なら、晴家の挑発は趣味だろうか。
直江は疲れたように呟いた。
「それもない。心配しないでいい。……そのうち元に戻るだろうから」
「えっ……」
その瞬間、晴家だけでなく藤も、興味なさ気にしていた景虎も、揃って直江を凝視していた。
「今のはどういう意味だ」
景虎が両眼にめいっぱいの不信感を乗せて、直江に向かい問い詰める。
それに対し、直江は殊更に感情を込めずに言う、
「深い意味はありません」
しかしそんな言葉で納得するわけはなく、景虎が更に尋問しようとした時。
ゴンゴンッ。
不意に外から戸を叩く音が上がった。
すぐには誰も反応できず、再び音があがって慌てて藤が立ち上がった。
「どちら様でしょう」
藤が戸の閂に手をかけながら、外の人間に誰何の声をかけると、その人物は親しげな声で返事をした。
「藤か、私だ。色部だ」
「勝長様!?」
藤は急いで閂を外し、戸を開けて色部を中へ通した。
「少し遅うございましたわね、勝長様」
「ああ。途中の山道で不埒な輩どもに出くわしてな」
と、荷を降ろしながら色部が言ったところ、それまでの険悪だった雰囲気は何処かへ飛んで、景虎が微笑を浮かべながら色部を迎えた。
「そうか、あの辺りは賊が出るというからな。……他に大事は?」
帰ってきた色部に、三人で労わりの声を掛けているところを、直江は一人無言で見守っていた。
(色部さん……)
二年ぶりだ。色部の顔を見るのは……。
だけど本当に久しぶりに感じる。
あれから本当に色々なことがあったのだ。そして色部にはたくさんの迷惑をかけた。
今も色部は新上杉の総大将として上杉を率いているのだろう。
そして自分を待っているのだろう。
今目の前にいる人物は、その色部ではないけれど、何故か無性に頭を下げたくなる。……もちろん謝ってどうこうなるとは思っていない。罪滅ぼしをしたいのでもない。
理由なんてどうでもいい。ただ、……礼を言いたい……。
あの時の気持ちが甦る。高耶の行方を、必死に探し続けた日々を……。
──直江信綱は、上杉景虎に殉ずる人間です。
「直江?」
ふいに色部に呼ばれた。しばらく景虎達と視察の様子を語っていた色部であったが、何も言わない直江を怪訝に思ったのだろう。
「どうかしたのか、直江」
直江は視線を動かし、色部を真向かい見た。
そして視線が合って数秒後、色部の顔が途端に怪訝から驚きへと変わった。
「直江……そなた、随分と雰囲気が変わらぬか……?」
色部にも異変が分かったようだ。
それにしても……瞬時に分かるほどに自分は変わったのだろうか。
それは……まぁ変わったのだろう。何しろ四百年だ。
それでも景虎のこと以外に関しては自分は根本的には変わっていないと思う。社交的なふりをするのが上手くなったとか、少しは物の分別が分かるようになったとか、そんなものではなく。
景虎も晴家も色部も、やはり何百年経ってもその者であることに変わりなどないのだから。
「そうです勝長殿。この者、ここ二週間ほど前からずっとこのような感じで、何を思ったか景虎ぎみにやたらと馴れ馴れしく振る舞っているのです」
と晴家が横から色部に言った。
晴家は、直江が景虎に必要以上近づくことが、自分に近づかれるより嫌らしい。
まるで嫉妬でもしているかのようで、直江は何とも言えない気持ちになる。
「そうなのか?」
色部は更に驚いた顔で直江に問うた。まぁ、この前までの二人を見ていれば至極当然の反応だ。
「いえ、特に意識してはいませんが」
その言葉に晴家は憤慨した。
「ほう?あれが意識なくやっていると言うのか。あれほど馴れ馴れしく景虎ぎみにひっついておいて」
「やめないか柿崎」
「いえ、勝長殿は最近のこの者を見てはおられないから分からないのです。この者、まるで自分が何十年も景虎ぎみに仕えた家臣のような顔で、何を思い上がっているのか、この所わけの分からぬ行動ばかりをとる。半年や一年共にいた程度で、何もかも帳消しになったとでも思っているのか……!」
ようするに、直江が当然のように景虎の参謀役を振る舞っているのが頭に来るらしい。
だが、そう振る舞うなと言われても、やはり無理なのだ。
景虎と言葉も交わさず、姿も見ずにいるのならいい。だがそれはなおのこと問題だろう。そんなことをしたら何を言われるか分かったもんじゃない。もちろんつっけんどんな対応などできるわけもない。
どんな対応をしても駄目ならどちらを選択しても変わらないのかもしれないが、仮にそういった景虎を無視するような態度をとってみたとしよう。
当然景虎の不興をなおも買う。そして自分はじきに現代に戻る。(もちろんどんな手を使おうと戻る)が、その後が大変だ。
元に戻ったこの時代の自分がどうなるか?……考えただけでいたたまれない。下手をすれば歴史が変わる。そんな事態に陥るくらいならまだ、晴家曰く「馴れ馴れしい態度」をとった方が、元の自分に戻った時に「やっと戻ったか」と喜んでくれるかもしれない。(自分のことながら何か情けない……)
そんな思いを巡らせていて何も返事をしない直江に、晴家は更に頭にきたらしい。
今にも飛び掛りそうな勢いで直江を睨みつけていたが、そこで唐突に止めが入った。
「やめろ晴家」
止めに入ったのは景虎だった。
「景虎ぎみ……」
「せっかく勝長殿が戻ってきたのだ。勝長殿も疲れているだろう。今は諍い事はやめろ……」
直江は景虎を見た。だが景虎は直江を見ない。見ようとはしない。
「酒でも飲もう。……藤」
「え、……あ、かしこまりました」
藤は立ち上がって、勝長の膳と酒の用意をしに行った。
それから酒宴は遅くまで続いたが、先ほどのこともあって皆一様に心から楽しむことはできなかった。
直江もいくら呑んでも味覚が鈍り、水を呑んでいるようにしか感じなかった。
酒に酔うこともできない……。
視線は知らず、己の魂の片割れと定めた人を、知らず追っていた。
夜が更ける……。
for your and my eternal happiness.
Someday, I will pray to the meteor