第二夜 夜が明ける前に、直江は山を下って宿に戻った。 そして早朝起きぬけの夫人に、暫くの間この村に留まる旨を伝えた。 「この村には、どれくらい若い者がいる?」 直江はなるべくさりげない口調で宿の夫人に尋ねた。 「まさか誰もいないなんてことは……」 「とんでもないですよ」 夫人は愛想の良い笑みを浮かべながら否定する。 「そりゃあたくさんとは言えませんけど、そこそこの数はいますよ。裏の倅の富太とか、甥の喜平とか、まぁパッと思い浮かぶだけでも三十人ほどは」 「女は」 「ええ、もちろん。……ああ、もしかしてお侍さま、急に何日か滞在する予定になったのは……」 言外に、好みの女でも見かけたのかと尋ねている。 「そういうわけではない」 と否定しようかとも思ったが、あえて沈黙して肯定の意を取らせた。 夫人はにやけた笑いを浮かべた。それなのにいやらしい表情にならないのが不思議だ。 「お侍さまみたいないい男の眼に止まるなんて、一体誰だろうね。ここいらは芋っ娘ばっかで、都にいるような楚々とした美女はいないけど……」 夫人が首をかしげる。そうか、と抑揚も無く相槌を打つ表とは裏腹に、直江は心の中で酷く狼狽していた。 なにしろ、この村の中に贄となれるほどの美しい女子が見つからなければ、該当するような人物がこの村を旅の途中にしろ訪れるまで、待ち続けなければならないのだ。 直江はこの村から外に出ることが出来ない。昨夜あの自らを神と名乗った者に、命令を破って逃げることが出来ぬように縛めの呪いを施されてしまったのだ。 だがそこで、直江の心を浮上させる救いの一声が上がる。 「ああ、でも一人だけいたね」 「……!それは誠かっ」 直江が食いつくように叫ぶ。あまりの勢いに流石の夫人も多少たじろいだ。 「え、ええ……。そりゃあ、都でもそうそういないような美人ですよ。こんな山奥に引きこもってるのは本当にもったいないぐらい」 その言葉に、直江は傍目にも分かるほどに顔を綻ばせた。これで上手くいきさえすればすぐにでもこの村を去ることが出来る。 「その者の名を教えてくれぬか」 「そりゃあ教えてもいいですけど……」 夫人はそう言うと、困ったような顔をした。 「それが、ここいらの領主様でいらっしゃる、上杉家の一人娘なんですよ。葉雪様っておっしゃってね。確かに美人だし、あんたの気持ちも分からないでもないですけど……」 「領主家の一人娘か……」 これは参ったな、と直江は形の良い眉を顰める。 「……しかし、何ゆえこのような僻村に領主の娘が?」 「ああ、それはですねぇ。上杉の一族には大昔っから上杉家の娘は婚姻を結ぶまで花哭村で暮らさねばならない≠チていうしきたりがあるんですよ。昔は毎年、神櫻様の巫女を村の娘から選んでいた関係からなんでしょうねぇ」 「巫女?」 「ええ、今はもう無くなっちまったんですけど、昔は弥生の初めに神櫻祭≠チていう祭りを行ってたんだそうで、村の娘から毎年一人選ばれた巫女に神櫻様をおろすっていう儀式をしていたって言い伝えなんですよ」 そうして神櫻からお告げを聞き、降りかかる災難を回避して、村人たちは永くの間不自由の無い豊かな生活を築いていたのだそうだ。 それが三百年ほど前に唐突に、祭りを行わなくなってしまったのだと言う。 それ以来花哭村は幾度とない凶作に苦しみ、かつての姿は今は無く、現在のようなうら寂れた僻村として世の人々に忘れ去られていった。 何故村人たちは突如として、永くの時に渡りこの村を護ってきた神木を祀ることを取り止めてしまったのだろうか。 昨夜のこともあり、直江は夫人から詳しい話を聞きだそうとしたが、夫人もそれ以上のことはよく知らないのだと申し訳無さそうに首を振った。 まぁ、三百年も昔の言い伝えならば仕方のないことだろう。気にはなったが、しかし今差し迫って問題とすべきは、村で最も美しいという話の上杉の娘についてであった。 「お侍さまの思い人は、葉雪様で間違いないんですかい?」 「……ああ、おそらくそうだろうな」 夫人は不憫そうに眉を下げた。確かに、領主の娘と自分のような田舎侍では、身分違いも甚だしい。夫人は報われぬ想いを寄せる直江を、哀れに思ったらしい。 「お侍さまのこと、応援してますよ」 直江は人の良い夫人の態度を見て、少し苦笑した。 「ありがとう。それより上杉家の屋敷の場所を教えてくれぬか。今から訪ねてみたいのだ」 そう言ってから、直江は厳しく眼を細めた。 夫人から領主家の場所を聞きだして、直江は驚いた。 そこは、あの「神櫻」のあった山に続く林の真正面であったのだ。 昨夜あの山に登った直江は、必ずこの領主家の屋敷の前を通ったはずなのだ。しかし、そのような記憶は全く無い。 これだけ広大で立派な屋敷なのだ。見落とすわけが無い。 不可思議に思いながらも、屋敷から少し離れた道端で直江は思案に暮れた。 (さて、これからどうするか) 相手は領主の娘だ。無理矢理押し入って拐すわけにもいくまい。 だがならばどうする。色仕掛けでもして深層の姫君を骨抜きにでもするか? そう埒も付かない考えを脳内に巡らせる。 チラリと横目に視線を巡らせると、上方に桜の青々とした緑葉が風に揺れていた。 道に沿って群生する桜の並木はいずれもなかなか雄大な姿ではあったが、昨夜の神木を見た後では、まるで樹木の赤子でも見ているかのような心地である。 葉同士がサヤサヤと擦れる音を、楽の音でも耳にするかのような心持ちで直江が聞き入っていた、その時だ。 視界に映る屋敷の門扉から、一人の女が姿を現したのは。 もしやっ……と思い期待に胸膨らませたが、次の瞬間肩を落とした。 女の顔立ちは決して、「二度は見れぬ」と顔背けたくなるようなたぐいのものではなく、むしろ良いほうであるとは思うが、かといって村の者に誉めそやされるほどとは言えない。 だとすると、この屋敷に仕える者か。小奇麗ななりから言って、葉雪に近しい侍女か何かかもしれない。 そう察した瞬間、直江の行動は早かった。足早にその女に近寄り、女がこちらを見咎めると、直江は渾身の微笑をその女に向ける。 「御免、侍女殿」 いきなり旅の兵法者などに話しかけられて女は驚いていたが、次の瞬間には白い頬を赤く染めていた。 何しろ出で立ちに難があるとは言え、直江はこのような山村では滅多にお目にかかることの無い、思わず溜息の一つでもつきたくなるような涼やかな容貌の持ち主だ。 武骨な田舎の男どもに日々囲まれ、洗練された都の男に飢えた山奥の女なら、直江のような男に声をかけられて舞い上がってしまうのも頷ける。 直江はこのような場でしか使い道の無い己の長所を、この際存分に発揮することにした。 「一つお尋ねしたいことがあるのだが、よろしいか?」 低く艶やかな声で囁かれて、女は声を出すことも出来ず、真っ赤な顔でコクコクと頷いた。 * 女を落とすのは簡単だった。 直江が「私は葉雪殿に恋焦がれている旅の者なのだが、近日この地から旅立たねばならなくなった。その前にせめてもう一度、葉雪殿の御姿を遠目からでも拝見したい」と、少し芝居がかった口調で説明すると、一も二も無く「それでは私が葉雪様を外にお連れ出し致しましょう」と快く受諾してくれた。 聞けば女は葉雪付きの侍女であるという。ただ、葉雪は最近体調を崩していて、病み上がりの身では 外には行けないから、あと二、三日ほど待ってほしい、と言われた。 「という手筈になっています」 直江は仰のき、神木の枝に腰をフワリと下ろす、黒髪の美しき者にそう伝えた。 直江は夜になると、山の頂に戻っていた。夜になるまで待ったのは、村の者に林に入る姿を見咎められるのを避けるためだ。 今日も桜の神木は裸となった一部の枝を除いては、初夏だというのに満開に花を咲かせていた。降り注ぐ雪のような花弁の緞帳を越えて、空には皓々と白い月が輝いている。 「なるほどな」 どちらかと言えば興味の希薄げなその声音は、やはり男とも女ともつかない。 「それで……どうする気だ、それから」 まさかその場で引き倒して既成事実でも作る気か?と、白い花の下で美しく笑う。 「……神聖な神の御言葉とも思えぬ口ですね、高耶さん」 直江の言葉に高耶……と呼ばれたその者は、フフンッと笑ったのみであった。 高耶というのは直江が勝手に付けた名だ。名を知らぬのは呼ぶ時に不便であるからと名を尋ねたのだが、「神に名など無い」と一蹴されたのである。 だからこちらも勝手に呼ばせてもらうことにした。 同じように性別についても尋ねたが、これには答えもせずに一笑に伏したのみであった。 「ところで、どうしてそのように遠くから話しかける。鬱陶しいぞ」 高耶は眉根を寄せながら神木から離れた位置にいる直江を見下ろした。 「……昨日のように神木が枯れてはコトかと思いまして」 「それなら案ずるな」 高耶はスッと、身軽なしぐさで神木の幹に寄りかかる。 「昨日のあれでおまえに対する抗体が出来ている。近寄ろうが触ろうが、もう実害は無い」 そう言われて、直江は神木に近寄り幹に手を恐る恐る近づけた。 中指の先が触れて、チリッと一瞬静電気のようなものが走った気がしたが、意を決して手の平までベタリと幹に押し付けてみる。 そのまま数秒待ったが、確かに今の所これといった反応は無い。 高耶がその様子を眺めながら背に流れる髪をかきあげて言った。 「……それにしても、なぜあのような反応が起きたのだろうか」 「私が男であったからではないのですか?」 「そうではない。《陽》の気がいくらこの木と拒否反応を起こすからといって、男が神木に触れた程度でそうそう枯れ朽ちてたまるものか」 高耶は真剣な表情になって続ける。 「《陰》に属するこの木と《陰》の気は、互いに共鳴しあい力を増幅させる。反対に《陽》の気は対極する力が反発しあい、抑制を促す」 「抑制?」 「そう、つまり女は神木の力を増強させる力、男には神力を操る力が潜在的に秘められている。故に、男が神木に触れたところで、昨夜のような反応が起こることは無い」 断言された言葉には、絶対の自信が漲っていた。 実際、三百年前まで神櫻に奉げられていた巫女は、確かに憑坐として神の意思をその身におろしていたのだが、実質的な儀式を行っていたのは巫女ではなく、男性の神官であったのだ。 その話を聞いて、直江は顔を強張らせた。 「私だけが特別であると…?」 「そうだな。何か理由があるのかも知れぬし、単にこの木の力がそれだけ衰えただけかも知れぬ」 なんにせよ贄が必要だ、と高耶は真剣な眼差しで呟いた。 そうだ。今は原因などよりも、いかにして葉雪を御咲のもとまで連れ出すかが重要なのである。 直江が思案に暮れていると、高耶がふと、あの妖しげな微笑を口もとに飾った。 「どうしても無理なようなら、贄は美しく若い女でなくとも良いぞ」 なんだと、と直江が双眸を見開く。 「醜いおなごでも、年老いたおなごでも良いと言っているのだ。…ただし、その場合贄は一人では駄目だ。四、五人は必要になる。美しさとはただそれだけで魔力となるものだからな」 「…そのようなわけには、いきません……」 自らが犯した科のために一人の女を犠牲にするのさえ忍びないというのに、複数などとはもってのほかだ。 そういった冷徹になりきれない所が、直江にはあった。 「心配は御無用。必ずや葉雪殿を贄としてここに連れて参りましょう」 直江は決意したように言い放った。 葉雪には悪いが、これも村の民を救うためなのだ。どのような手を使っても、神木が暴走する前に葉雪を贄として奉げなければならない。 そんな直江の様子を横目に見ながら、高耶は漆黒の瞳を細めてうつむいた。 (領主の、娘か……) 直江が不意に仰のいて、高耶を見つめてきた。 その瞬間、辺りに一陣の風が吹き荒んで、白い桜の花弁が吹き散った。 思わず眼を瞑った直江が次に眼を開けた時には、既に高耶の姿はそこに無い。 一瞬、高耶のうつむいた横顔が、ひどく寂しそうに歪められて見えたのは、直江の気のせいだろうか……。 |