第三夜 ─藤九郎兄上っ。無理です、私にはできませんよっ。 ─私には兄上のような才はございませんから……。 ─兄上は凄いですね……剣術も学問も、何をやっても人より優れていらっしゃる。 ─私も、どうせ生まれたのならば兄上のようになりたかった。 (なぜだったんだ……) 教えてほしい。俺の何がいけなかったんだ。 俺がおまえに成したこと一つ一つ、そのすべてが、おまえをそんなにも追いつめていたのか。 (おまえは……、俺を憎んでいたのだな……?) おまえが「そうしたい」と、みずからの意志で。 俺さえいなくなればと、そう望んでいたのか。 なぁ、あの時おまえは、母の成すことをただ言われるままに受け入れていたのだと、そう信じては駄目なのか? なぁ、答えてはくれないのか。 もうこの先、二度とおまえに会うこともないのだろうか……。 与六─。 * 夜が明けて翌日、直江は再び葉雪付きの侍女のもとへと行った。 己の持てる限りの誠実な態度をとって、侍女をほだす事に全力を尽くした。 もともと直江の容姿に恍惚としていた侍女は、直江に世辞の一つや二つ言われた程度ですっかり舞い上がってしまい、来たる日になんとか葉雪と二人になれる機会を作ってくれないか、という直江の頼みを快く受け入れてくれた。 ついでに、直江のことを葉雪に宜しく伝えてくれるようにとも。 これで膳立ては整った。後は葉雪を無事、高耶のもとへ連れて行くことが出来るかどうかだけである。 直江は宿に戻って夕餉を取っていた。食べ終えると、部屋に老婆が膳を下げに入ってくる。 膝をついて膳を手に取ろうとしたとき、不意に目線を上げた老婆と眼が合った。 と、その瞬間老婆が突然仰天したように眼を丸くしたのである。 なにか……、と声を掛けようとした時。 「お侍様には、桜の香が致しますな」 そう老婆がしゃがれた声で話しかけてきた。 「もしや、お侍様は神櫻様のもとへお行きになられたのでございますか」 直江は思わずギョッとした。 「なぜ、そのことを……」 もしや山へ行く所を誰ぞかに見られでもしたのだろうか。 老婆は直江の問いには答えない。代わりに、 「それではあのお方にお逢いしたのですね」 そんな問いを直江に投げかけてきた。 (あのお方……?) それは、もしかせずとも高耶のことであろうか。 当惑する直江に構わず、老婆は両手を握り締めてぶるぶると震え始めた。 「あのお方は本当に不憫なお方でございます。他の者より少しばかり人外の力に秀でていらっしゃったばかりに……常人のように死ぬことも適わず、あのようにして悠久の時を孤独のまま生き延びていらっしゃる。本当においたわしいことです……おいたわしい……」 そう言って老婆はひれ伏してしまった。 直江には何を言っているのか分からない。あのお方というのは一体誰のことなのか。高耶のことを言っているのではないのか? 「御老婆……」 「全てはあの男のせいなのです。あんな男が禁忌を侵したばっかりに……。あの男さえ、この村に現れなければ……!」 老婆は話しているうちに錯乱してしまったようだった。騒ぎを聞きつけて夫人が老婆を引き取りに来た。直江は何も出来ずに泣き喚く老婆の姿を見守るのみであった。 (あの男とは……なんのことだ) その後夫人に老婆のことを尋ねてみると、老婆はその道では名の知れた呪い師(まじないし)であることを教えてくれた。 若い時は死者の魂と自在に交感することが出来たのだというが、最近では老いのせいか、すっかり霊力も消え失せてしまい、こうやって宿の手伝いをして生活を賄っているのだという。 時々あんな風に訳の分からないことを口走ることもあるのだそうだが、村の者はみな相手にせずに聞き流しているらしい。 けれど直江は、老婆の口から迸った言葉の数々が、胸に引っかかって離れなかった。 気になることを言っていた。年寄りの戯言だなどと言って、聞き流すことなど出来ない。 高耶に、あの美しき神木の主に何か関係があるのだろうか……。 * 今宵も神櫻は息が詰まるほど白い花を咲き乱れさせていた。 これだけ花弁を散らせても、茶色く枯れ朽ちた花弁が地面に積もる事は無く、後から後から花を満開に咲かせては風に吹かれて撒き散らしているのだから不思議だ。 直江は神木の根元まで歩み寄り、その直江の両腕などではとても一周出来ない太い幹に手の平を置く。 「高耶さん……。出てきていただけませんか」 小さな声で呟く。とすると次の瞬間には、花吹雪の壁の向こうから、全身に淡い光の粒子を纏う高耶が姿を現した。 直江はその美しさに暫し見とれていた。 自分を見つめたまま立ち尽くして動かない直江を不審に思い、高耶は怪訝そうに眉を顰める。 「なんだ、今夜も来たのか」 高耶の音楽の調べのような声に、直江は振り返る。 白い顔はやはり美しかった。直江が見惚れてしまうのも無理は無い。 「何か不都合でも……?」 「いや、別に構いはしないが、このようなところに度々訪れて、何が楽しいのかと思ってな」 高耶は本当に興味がなさそうな様子で呟いた。何だかんだ言いつつも、高耶には直江のことなどどうでも良いのだろう。 一瞬、直江の胸にジリリという鈍い痛みが走ったのは、何故だろうか。 「……。あなたの傍にいると、何やら心が安らぐような心地が致しますので……」 自然に口をついて出た言葉であった。言葉にした後で、自分自身でも驚いてしまう。 (心が安らぐ……?) そうだろうか。このような異形の者と関わり合うことに、自分は恐れを抱いていたはずであるのに。 高耶の方はと言うと、こちらはこちらで直江の思いがけぬ発言に心底驚いて眼を丸くしていた。 「おかしな奴だな……」 高耶は不思議そうに首を傾げて、神木の根元に腰を下ろした。 「おかしいですか?」 「ああ……。おまえのような者は初めて見る。会話をしていても調子が狂う」 もっとも、人自体に滅多に会うことなど無いのだから、当たり前かも知れぬが……と、独り言のように呟いた。 直江は高耶の隣に腰を下ろす。そして高耶の美しい横顔を、透明な瞳で見つめた。 (ああ、まただ……) 高耶の無表情な横顔が、たまらなく寂しそうな影を帯びているように見えるのだ。 直江はそう思うと、すぐさまこの者を抱きしめてやりたい衝動に駆られた。思わず腕を持ち上げかけた所で、やはり思いとどまり、手の平は虚しく宙を掴んだ。 (何を考えているのだ、俺は……) どうかしている。この者は神なのだ。そこらの女子供とは全く異なる存在なのだ。そんな相手にこのような感情を抱くなど、馬鹿げている。 動揺している直江の様子を、高耶が不審そうに眺めてくる。 「本当に、おかしな奴だな」 そう言って、クスクスと素直な表情を浮かべて笑った。 「だいたい、このような辺境の村に、一体どんな用事で来たというのだ。なりからすれば、戦で名を上げようなどと果てしなく無謀でご大層な夢を抱いて、主を求め日本国を彷徨い歩く田舎出の武芸者と言った風情だが」 毒舌を吐きながらじろじろと直江の全身を見回してくる。 「どこぞの武将のもとにでも、志願に行く途中といったところか?」 黒曜石の瞳は、直江の心中を全て見透かしてしまいそうなほどに澄み切っていた。 この者に、嘘はつけないと思った。 「……いえ、そういう訳ではありません」 数瞬の間押し黙った後、はっきりとした口調で答えた。 「追手の者から逃れているのです」 「追手?それはまた、穏やかでないな」 高耶が予想外の答えに目を見開いている。 「盗みでも働いたのか?」 「……そのように、見えますか」 いや、と首を振り、 「おまえなら、どこぞで仕えた武家の新造がおまえに骨抜きになって、主人が逆上して暗殺を命じた……と言ったところかな」 「違います……」 「それでは何なのだ」 ざっくらばんに付き返す高耶に、直江は苦笑した。 「いわゆる、お家騒動というヤツです」 顔を仰のかせ、神木の白い花を見つめた。風に舞って花弁が二人の顔や肩に降りかかってくる。 「私の生家は、近隣でもそこそこに名の知れた名家でして、……私は脇腹の子で、しかも長男でした」 なるほど、と高耶が頷いた。 「それで、嫡出の愚鈍な弟がいたという訳だな」 頭の回転が速い高耶には、すぐにどういった事情か推測できた。 よくある話である。正妻が自分の子を跡継ぎにせんとし、邪魔な側室の子を亡き者にしようとする。 「弟は生まれた頃より身体が弱かったのです。気性から言っても、跡継ぎとなれる器ではありませんでした」 英邁な父の血を濃く引いたのは嫡子の弟ではなく、庶子の兄であった。 幼い頃から聡明で、武芸の才にも優れていた直江と、身体が弱く多少軟弱な気質の弟。血筋の点で難はあるが、家の跡継ぎにどちらが相応しいかは、誰の目から見ても明らかであった。 「そして私が十二の時、元服を終えて間もない頃でした。正妻の謀略により放たれた刺客に私は殺されかけ、屋敷に身代わりの死体を置いて、信頼ある侍女と共に母の実家の縁者の地へと逃げ延びました」 そこに暫くの間隠遁していたものの、正妻の手の者は直江が未だ存命であると気付き、執拗な探索により居場所をつきとめてきた。それと共に直江も、転々と各国を移り住んでいったのである。 弟が家督を継いだ後も追手は消えない。ずっと共に直江を守ってきた侍女も年老いて死に、直江は旅の武芸者として各地を放浪するようになって、今に至るというわけだ。 「随分と執念深い女だな。それだけおまえに自分の息子が取って代わられるのを恐れているという訳か」 「そのようなつもりなど……」 「無いのか?奴らはおまえを殺そうとしたのだぞ?家を乗っ取って正妻に復讐してやろうとは思わぬのか?」 いつでも飄々としていた高耶が、やけに熱心に詰め寄って来た。 「おまえをそんな目に合わせた正妻を憎いとは思わぬのか。本来おまえが継ぐはずであったのに、汚い手を使ってその地位を奪い取った弟を許せるのか……!」 次第に声を荒げる高耶に対し、直江は無表情であった。 だがその瞳の奥には、押さえ切れない暗い感情が渦巻いていた。 「憎くないわけなど……、ありません……」 「ならば何ゆえ……!」 「私は……先程も言ったように、いや、それ以前の年端もいかぬ頃から正妻の手の者によって命を脅かされ続け、幾度も殺されかけてきました。それゆえに、自ら望んで人の命を奪うことが、出来ないのです」 高耶はハッと双眸を見開いて、直江の横顔を凝視した。 確かに、正妻と弟のことを直江は、言葉には表し難いほどの思いで激しく憎悪してきた。 なぜ自分がこのような目に遭わねばならないのか。自分の方が能力も、何もかも弟よりも勝っている。それ以前に、自分は兄であるのだ。跡継ぎとして生まれた長男であるはずなのだ。どうして血筋が劣るというだけで、こんなにも疎んじられねばならぬのか。 直江がまだ三つばかりの頃、母が若くして死んだのも、正妻からの迫害に耐えかねて精神を病んだ故だということを、侍女から教えられて知っていた。 美しく、優しかった母。 ─藤九郎……。 かすかに覚えている。自分の幼名を愛しげに呼んでくれた。卑しい生まれながらも、気高かった母。 あの女と弟さえいなければ、母が死ぬことは無かったのに。自分が後を継いで、父の期待に応えることが出来たのに。あんな弟よりも自分の方が、何倍もこの国の役に立つことが出来るのに。 幼い頃は夜毎昼毎そう思っては、いつかあの正妻と弟に復讐することを誓っていた。いつかはあの家を乗っ取って我が物にしてやるのだと。 そう思い、追手から逃れ隠れ住む間も、直江は学業と武芸の鍛錬を怠ることは無かった。 そうして少年期を過ごし、青年となった頃、父の死により弟が家督を継いだ。 その時がチャンスであったのだ。 正妻を恐れて直江を助けようとはしなかった家臣たちも、成長した直江には説得して仲間に引き入れられる自信があった。 実際、風の噂に聞く弟の像は、けして家を継げる器に成長したものではなかった。 十年近く前に死んだものと思われていた優秀な長男が、実は生きていたのだと知れば、愚鈍な弟を見限って直江を跡継ぎに推す者も多く現れるはずだ。直江がその気になりさえすれば家督強奪も、決して無理な話ではなかったであろう。 だが、出来なかった。 理由は簡単だ。直江には、自分のせいで多くの者の血が流れることに、耐えられなかったからだ。 直江の存命が公となれば、直江の擁立派が立ち起こり、正妻の一派と家督争いの乱が起こることは必至である。 それによっておびただしい数の血が流れることとなるだろう。それだけのことをしなければ家督を奪うことは出来ない。 直江には、そこまでして家を継ぐほどの意志は無かった。 幼い頃は、ただ正妻と弟のみに復讐できれば良いと思っていた。だから、家督を継ぐためには乱を勃発させ、関係の無い者たちまで巻き込まなければならないなどと、想像もつかなかったのだ。 直江は人を無闇に殺めることを、良しとはしなかった。 無論、家を継げばそのような綺麗事などは通用しない。そういった点において、直江もまた家督を相続する器ではなかったのだ。 「それでも、従者や母の手に踊らされるような愚弟よりは、おまえが継いだ方がましであろう?」 高耶の問いに、直江は少し俯いて拳を強く握ると、首を横に振った。 「私には、家を継ぐことによって多くの者の命がこの手に委ねられる責任が、受けとめられないのです」 それは当主となる者が必ず持たねばならぬ責務。にもかかわらず、直江はそれを恐れている。 「どんなに憎しみを抱いた相手でも、自らの私怨だけで多くの命を奪うことが、私には出来ません……」 脳裏に、懐かしい面影が蘇った。 ─兄上。 ─私は駄目です。兄上。 (与六……) 直江は、自嘲するように笑って、瞳を閉じた。 高耶は、なおも直江のことを見つめ続けている。 辺りは桜の花弁が止むことなく降り続けている。こうしていると、不思議に、まるで時が止まっているかのように感じられた。 ややして高耶が結ばれていた美しい唇を開いて独り言のように呟いた。 「その気持ちは……、私にも分かる……」 直江は驚いて、高耶の美しい瞳に見入った。二人の視線が暫しの間交錯しあう。 唐突に、今日の夕刻、老婆が呟いていた言葉の内容が頭をよぎった。 この者の過去に、一体何があったのか。 直江は口を開きかけて、やはり、言葉に出来ずに噤んだ。 それは、覗き込んだ高耶の双眸が、あまりにも深く、暗く、……そして淋しい色をしていたからだ。 触れてはいけないような、領域を感じた。 「もう、夜も遅い……。そろそろ帰ったらどうだ」 ややして、高耶が何事も無かったかのように呟いた。 「ええ……。そうですね……」 立ち上がり、肩に付いた花弁を払う。 立ち去り際高耶の方を振り返り、真摯な瞳で見つめながら直江は告げた。 「また、明日も来ます」 高耶は返事をしなかった。そうして、直江は霞がかった林の中へと消えていった。 「本当に……、おかしな、奴だ……」 そう呟いた声音は、何故か、いつもの様子とは異なるように感じる。 明日も来る。そう思うと、胸の中が温かくなるような、そんな不思議な感覚だった。 白き桜の神木が、何かを訴えかけるかのように、忙しなくざわめいていた。 |