第一夜 その村には、この世に大地が生まれ落ちたその瞬間からその地に在ったと言う、「神櫻(みさくら)」と呼ばれる桜の神木が山の頂に祀られていた。 村人は毎年、穢れ無き女子を巫女としてその神木に奉げ、その巫女に神櫻の<主>をおろし、託宣を賜ることにより、その村は永き年月の、災厄を逃れ、繁栄を築き上げてきた。 だがある年のこと、穢れ無き身でなければならぬはずの巫女が、神の妻の身でありながら、とある男と姦通の禁忌を犯す。 神櫻はこの罪を赦さず激しく怒り、この巫女を殺し、村に数々の天災をもたらした。 人々は苦しみ喘ぎ、禁忌を犯した巫女を、そして相手の男を憎んだ。男を贄として差し出そうとしたが、男は既に遠くの地へと旅立った後であったが故にそれも適わなかった。 どうにか神櫻の赦しを乞おうと人々は思案し、そして、その村で最も美しく聡明なある一人の若者を、神櫻の贄として奉げた。 贄を得た神櫻は、怒りを鎮め、それ以後は巫女を必要とはせず、元の村の神木に戻りこの地に安寧を与え続けた。 ─それが、いまから三百年前のこと。 その村に立ち寄ったのは、旅の途中で一晩の仮宿を取るためであった。 山の奥に位置するその村は、ともすれば不自然なまでに寂寥とした、民の数の少ない小さな農村である。 そのうら寂れた村の名は、花哭村(はななきむら)と言った。 村の周りを取り囲むように群生する山桜は、初夏の今では葉桜であるが、一月ほど前に来ていれば、目を見張るほど美しく咲きこぼれる様を目にできたのだろう。 「お侍さま、旅の途中ですか?」 宿の夫人が気さくに声を掛けてくる。 「ここらへんは本当に寂れていましてねぇ。ある物と言えばせいぜい桜ぐらいなもので、若い衆はどんどん城下へと出て行っちまう。戦で活躍して英名を轟かすんだって意気込む輩も多いけど、そうそう世の中上手くいったら誰も苦労しないですさねぇ」 夫人のカラカラとした口調に、直江は苦笑した。 「俺もそのうちの一人のようなものだが」 「おや、そんなことはないですよ。お侍さまにはそこらの田舎兵法者にはない、品≠ンたいなもんを感じますよ」 直江は少し目を見張った。 「それはおまえが町の者を見慣れていないからそう思うだけだろう」 「いんや、あたしは人を見る目はあるつもりですよ」 確かに、商売柄そういったことには長けているのだろう。 直江の着衣は長旅のせいでところどころ擦り切れていて、それこそ田舎兵法者といった風情なのだが、やはり見るものが見れば分かるということか。 (気を付けねばならぬな) 無言でいる直江を見て、夫人も何か思うところがあったらしい。 「まあ、なにか訳ありなら何も聞きませんよ」 そう言って、夫人はにこりと嫌味の無い笑みを浮かべた。 なんにせよ、いい男を久しぶりに見られて目の保養になって嬉しい、など、他愛も無い会話をいくつか交わすと、夫人は用を思い出したらしく直江の部屋から立ち去ろうとしたが、戸に手を掛けた所で思い出したように振り返った。 「そうそう、この村を見て回るのは構わないですけどね、奥山の林の中には入っちゃいけませんよ」 「何故?」 「あそこにはこの村のご神木があるんですよ。神櫻様のおわす神域に入ると、たちまち神櫻様の怒りに触れて命を落としちまうって、あたしらは小さい頃から言い聞かされて育ってきたんです。あたしも言い付け通り入ったことはないし、村のもんでも中に入った奴は一人もいないんですよ。一人ぐらいいても良さそうなもんなのに」 確かに、人というものは「駄目だ」と言われるとついその禁を破ってみたくなるどうしようもない生物だ。それが一人もいないのだとすると、即ち、その言い伝えがあながち迷信とばかりも言い切れないということかもしれない。 「命が惜しかったら入らないことをお薦めしますよ。林の外には注連縄が張ってあるから、それを目印にしてくださいね」 そう忠告すると、夫人は今度こそ直江の部屋から退室して行った。 「神櫻、か……」 呟いてはみたものの、その口ぶりに好奇心の影は伺えない。 夫人の話はこの時点では、直江にとって特に興味をそそられるような種の話題ではなかったのだ。 * 旅の疲れも出てその晩は早々と床に入り、ただ静かな闇が辺りを埋め尽くした夜半過ぎのことである。 ……何の音だ) 直江は妙な物音を聞きとがめ眠りから覚醒した。床から身を起こして辺りの気配を窺う。 《……ぃ》 (人の声か?) 傍らの大小を引き寄せ神経を鋭敏に研ぎ澄まし、素早い動作で障子を開けると、細心の注意を払って重い雨戸を開け放った。 だが、外に視線を素早く走らせたものの、辺りに人のいる気配は無く、白い月が皓々と庭の草木を照らすのみである。 (気のせいか) 《こちら……》 再び聞こえてきた声にとっさに身構える。だが依然として相手は姿を現さない。 《こちらへ……》 薄ぼやけていた声音が次第に明瞭となっていく。低いとも高いとも言えぬ声は、確かに、人ならぬ者のたぐいのそれであった。 「俺をいざなっているのか……?」 《こちらへ……》 (おもしろい) 直江は警戒を抱きつつも、己を誘う声の正体に興味をそそられ、辺りを窺いながら声の聞こえる方角へと歩を進ませて行った。 それからどれくらい歩いたのか、どこの道を来たのか。気付けば直江は、知らず知らずの間に暗い密林の中を歩いていた。 (ここは……?) 自分は確かにあの不可思議な声を追ってきたはずであった。だが、いつからかその途中の記憶が抜け落ちている。気付けばあの声も既に聞こえない。 「いったい……ここは……」 林の中で立ち止まり、途方に暮れて呟いた時であった。 ふわっ。 そこに一陣の風が駆け抜けた。驚いて顔を上げた直江の視界に、とある物体が風に舞う姿が映る。 (雪?) 白い小片を視線で追っていると、その瞬間、今度は先程よりもはるかに強い旋風が直江を襲った。 とっさに片腕を顔前にかざして身を庇い、風が過ぎ去った後、ゆっくりと瞑っていた瞼を開いていく。 次の瞬間視界に映った光景に、直江は思わず我が目を疑った。 そこに映ったものは、あたり一面に広がる、白。 白。白。白。 身に降り注ぐ白い小片を手のひらですくい上げ、直江はそれの正体を知った。 「これは……花弁?」 そうしている間にも次々と降り注ぐ花弁が、直江の髪に、肩に胸に足に降り積もっていく。 あまりに大量に降り注ぐ花弁が直江の視界を完全に覆い隠している。 息が苦しくなるほどの花弁の豪雨に放心し、暫く茫然として動けずにいたが、意識を取り戻すと意を決して、白 い花の雨を泳ぐようにして掻き分け掻き分け、前へ前へと進んでいった。 そうして花の雨に溺れそうになりながら、それでもなんとか数十歩ほど歩んだ時である。 突如として視界は晴れた。白い豪雨は姿を消し、……いや、まだチラホラと降ってはいるが、とにかく視界の開けた空間へと次元が移動したのである。 驚いて顔を上げた直江が、今度こそ目にしたものは……。 「……っ!」 直江の前に粛然として現れたもの、それは、一木の白い桜の大木であった。 天まで届くほどに伸びた一つ一つの枝に、零れんばかりに白い花々を咲かせ、引きちぎれた花びらが風に吹かれて踊っていた。上のほうは白い霞が掛かっていて、はっきりと視界に捉えることは出来ない。 途方も無く巨大な桜であった。 生まれてこの方、これほどまでに見事な桜の巨木を見たことが無い。いや、今まで見てきた桜など、この木とは比べようも無い。 思わず息をすることも忘れるほどに、それは厳かで、美しい光景であった。極楽浄土と言う場所は、もしや今目に映るこのような所ではないのか。 暫くの間、我を忘れて白い花に身を包む桜の大木に直江は見入っていた。 その時。 「誰だ」 幻想的な世界の中、一際はっきりと響き渡る凛とした声が聞こえた。 直江が声の方向……桜の幹の根元に視線を走らせると、そこに一つ、人影があった。 「この地の者ではないな。おまえは何者だ」 その者が再び声を発する。振り返った直江は、その容貌をしかと捉えた瞬間、思わず息を飲んだ。 艶やかに光る絹糸のような長い漆黒の髪が風に踊る。 宙を舞う花弁のように白い肌に、赤く色づいた唇。長い睫毛に縁取られた双眸は、黒曜石のような輝きを放ち、白装束に身を包んだその全身には、神々しい乳白色の光の衣を纏っていた。 この世の物ならざる美しさであった。この桜の巨木と同様、目の前に現れた人物は。 「どうやってここに立ち入った。周りには結界が張ってあったはずだ」 呆然として立ち竦む直江に構わず、その者が厳しい声音で問う。冷たいまでに整った面差しは中性的で、男とも女ともつかなかった。 「声に……声に呼ばれてきたのだ……」 「声?」 「あなたが俺を呼んだのではないのか」 今度は直江が問う。確かに、この者の低くも高くもない声は、先ほど聞こえてきた呼び声に似ていなくもない。 「私ではない」 その者は美しい柳眉をひそめて言った。 「この私がおまえのような下賎の輩を招くわけが無かろう」 「しかし……」 「まあ良い。それにしても人に会うのは随分と久しぶりだ。男ともなると、もう……三百年ぶりか」 その者は不遜に赤い唇を吊り上げて、妖しく微笑んだ。 (三百年だと……) 直江は驚愕に目を見開く。 「そなた……もしや妖のたぐいか」 直江の問いにその者はさらに艶然と微笑し、身を預けていた桜の大木を見上げた。 「私はこの木の<主>だ。言うなればこの地の守り神というやつか」 「守り神だと?」 確かに、目の前の者が持つ神々しい気配は、魔性や妖などというよりは神のそれに近いものであった。 直江は歩を進ませて桜の根元へと近寄っていった。 「それではこの木が、《神櫻》……」 「ほう、この木の名を知っているのか、よそ者」 その者が意外そうな目で直江に尋ねる。 「村の者に教えられたのだ。神櫻のおわす山の頂には、けして近寄ってはならぬ。もし禁を破らばその者は神の怒りに触れ、必ず命を落とすことになる、と」 そう呟いて神木の幹に手を触れようと、腕を伸ばした時であった。 それまで興味深そうに直江を眺めていたその者が、いきなり顔を蒼白にして両眼をカッと見開き、 「触れるなあぁっ!」 そう叫んで直江に念を撃ち放ったのだ! バシィィ! 「なっ!」 直江は見えない力に吹き飛ばされて花弁の敷き詰められた地面にもんどりうつ。素早く起き上がると思わず大刀の柄に手を掛け鯉口を切った。 「何をする!」 鋭く叫んでその者をねめつけたが、その者の双眸に射抜かれた瞬間、金縛りにあったように動けなくなった。 「何ということを……してくれたのだ、貴様ッ」 先程までの涼やかな声からは想像できないほどの、恐ろしく低い、死神のような声音であった。 わなわなと肩を震わせ、憎しみに滾った瞳でこちらを睨みつける様は、神などではなく地獄の夜叉そのものである。 こめかみに冷たいものがツッと流れた。 だが何故この者に、突如として憎しみをぶつけられねばならないのか分からない。 困惑する直江の様子に苛立ち、その者は右手の人差し指を天に向かって突き上げた。 「見よ!貴様の犯した罪をっ」 その指の先に視線を走らせ、直江は愕然と目を見開いた。 見上げた視線の先には、遥か高みで桜の神木が天に枝々を広げていた。だがそのうちの一枝。 その一枝に咲き誇っていた白き花々が、直江が視界に捉えた瞬間、次々としおれて枯れ朽ち果てていくではないか……! 「何……!」 瞬きをする間にも、枝は先端から根元へとどんどん枯れていき、茶色く朽ちた花弁を次々と地面へ落としていく。 それから幾秒ともしない間に、その枝の花は全て壊滅し、全体の十分の一ほどの長く太い枝が寒々しい裸体で遥か上空に広がっていた。 あまりの出来事に直江は声も出ない。 「どうしてくれる……!」 その者が憎々しげに吐き捨てる。 「貴様がその手で触れたせいだ。これほどの範囲を元に戻すには、何十年かかるか分からぬ!」 (なんだと) 確かに直江はこの神木の幹に手を触れてしまった。しかし、ただ触れた程度でこのように枝の一部が枯れ朽ちてしまうなどとは、誰が予想したであろうか。 だが目の前の相手に、そのような言い訳は微塵も通じそうに無い。その者は今にも射殺されてもおかしくないほどの勢いで、直江をギラギラと睨みつけている。 「俺を……殺すか?」 緊迫した声で搾り出すように直江は呟いた。いつ襲われても構わぬよう臨戦態勢だけは崩さずに。 だがその者から返ってきた答えは直江の予想に反して否定であった。 「貴様を殺してどうにかなるなら、とっくにその首が胴から離れているものと思えッ」 「ならば……どうすれば良い」 その言葉に、忌々しげにこちらを睨みすえていたその者が、不意に無表情になった。 訳が分からず直江が眉根を寄せると、その者は、何を思ったか急に小馬鹿にしたように声をあげて笑いながら直江に近寄ってきたのだ。 「償いのために私の命に従おうというのか」 にじり寄られて直江は無意識にじりじりと後退していた。 「俺に出来ることならば……」 直江の言葉に、その者は美しい唇を吊り上げた。 「ならば、おまえの代わりの贄を私に奉げよ」 「……贄だと?」 立ち竦んで驚愕に目を見開く直江の傍まで来て、その者は妖しく微笑みながら彼の頬を白い手で撫でた。 「そうだ。女子の贄が良い。若くて姿の美しい生気に満ち溢れた女だ」 「そのようなこと……」 「出来ないと言うか?」 「我が身を救うために他人を犠牲になど……」 「仕方がなかろう。本来なら私とて、憎らしい貴様を贄に据えたいところだが、生憎この木に《陽》の気は合わない」 歌うような口調で、その者は直江の耳元に囁きかける。 「《陽》の気?」 「そう、人の男は《陽》の気。女は《陰》の気。《陰》に属するこの神櫻を再生させるには、相反する《陽》の気ではなく《陰》の気を持つ女の贄が必要となる」 つまり男である直江を贄に据えたところで、逆に容態を悪化させるだけとなってしまうのだ。 「しかし……、木の属性は《陽》ではなかったのか」 直江には学があった。けして明るいと言うわけではないが、聞きかじった程度は五行説のことも知っている。 本来、陰陽五行の理では、「木火土金水」の順で《陽》から《陰》へと属性が移行していく。つまり「木」は最も強い《陽》の属性であり、反対に「水」が《陰》に最も強く属する種であるのだ。 「少しは学識があるようだな」 感心したようにその者が言った。 「ちゃかすな」 直江が厳しい眼光でその者を睨む。が、その者は意に返した風も無くこう続けた。 「しかし、それは後の世の人間が勝手に作り上げた規定にすぎぬ。…確かに、その規範を作り言霊に発されることによって、後の世で定まっていったものは大きい。だが神櫻は、そのような物も定まらぬ遥か昔……途方も無いいにしえの時代からここに存在しているのだ。他のものと一緒にされたとて、困ると言うもの」 その者の語った意味を、深くは理解することは出来なかったが、ようするにこの神木に限っては《陰》に属しているのだと言っているのだろう。 「嫌とは言わせぬぞ」 その者はゾッとするほど美しい微笑を口元にのぼらせながら、互いの吐息が触れ合うような近さで低く囁く。 「おまえは罪を犯した。故に私に償わねばらぬ」 「だが……」 「良いのか?このままこの木を再生させねば、腐敗が木の全体に広がり、神力が暴走してしまうだろう。そうすれば麓の民はただでは済まない。天災に見舞われて……おそらくは殲滅」 直江の握り締めた拳にじっとりと汗が滲んだ。 「自らは逃げおおせて村の者達を死に追いやるか。…それとも一人の犠牲で民を守るか。……まあ、どちらを取っても、おまえのせいで犠牲が出ることには変わりない」 そう嘲笑した後で、不意にその者が真摯な瞳でこちらを見た。 「犠牲は最小限に抑えるべきではないのか」 その者の言葉に、直江は声もなく押し黙った。顔をうつむかせ血が滲むほどに唇を噛み締める。 (やむをえまい) 直江は顔を上げ、その者の双眸を見つめ、意を決すると確かに一つ、了承の意味を込めて頷いた。 |