咲月は震える指先を握り締めた。 何も悩む事はないと思う。山本は咲月の心を温かく包み込んでくれるだろう。 今も昔も直哉が咲月を女性として見てくれた事はないし、これから先だって望みはない。 "幼馴染み"それは特別な関係だったけれど、たったそれだけの関係でもあったのだ。 平行線の2人。未来永劫、咲月と直哉の関係が交わる事はない。 それなのに、自分は一体何を守ろうとしていたのか・・・。 自嘲気味にそう問いかけると、咲月は意を決して山本の言葉に頷こうとした。 その瞬間。 「悪りぃけど、そのケーキ、売約済みなんだ」 突然、咲月と山本の間に割って入った無遠慮な声に、咲月の心は震えた。 「なっ、直哉・・・?」 いつの間に現れたのか、山本のすぐ後ろに直哉が立っていた。 直哉は驚きのあまり目を見開く咲月を一瞥すると、すぐ前にいる山本の肩をトントンと叩いた。 「悪いね、兄さん。今日のケーキは完売です。またのご来店をお待ちしていますよ」 「ちょっ、ちょっと、なに勝手な事言ってんのよっ!」 慌てる咲月を直哉は真っ直ぐに見つめてきた。 「咲月」 真剣な瞳、咲月の名を呼ぶちょっと低めの声。 たったそれだけで、咲月の心に愛しさが溢れた。 「咲月、オレ、彼女とは別れたから」 思いがけない直哉の言葉に、咲月の動揺は大きくなる。 ――― 別れた? 突然何を言い出すの? 今更そんな事言ったって遅いんだから。あたしはもう・・・。 揺れる心のまま山本の姿を追う。 もう一度、朝の海のような彼の空気に包まれる事ができれば・・・・・・。 そうすれば、直哉に惹き寄せられそうになる咲月の心を止(とど)める事だってできるだろう。 縋るような気持ちで見つめたのに、山本は何かを諦めたようなかすかな笑みを浮かべただけだった。 「井川さん、ケーキは売ってもらえないようだね」 「・・・山本君」 否定、しなければ。 首を振って、すぐそこにある彼の手を取ればいい・・・。 「山本君、ごめんなさい・・・・・・」 だけど、そうできない事は、咲月が一番良く分かっていた。 直哉から解き放たれるための翼を、自分から捨ててしまうとしても。 「いいんだ。良いクリスマスを」 山本はそう言って笑ったけれど、その瞳に一瞬淋しげな影がよぎったのを咲月は見逃さなかった。 ズキンと小さく胸が痛む。 咲月の重荷にならないように自ら身を引いてくれた山本の優しさが胸に迫って、咲月は開きかけた唇をきつく噛みしめた。 そんな咲月に頷いてみせると、山本は直哉の方に向き直る。 「ケーキを無駄にするような事があれば、いつでも僕がもらい受けに行くよ?」 そう小声で囁くと、早足に駅へ向かって去って行った。 遠ざかる山本の後ろ姿を、咲月は声もなく見送る事しかできなかった。 残された咲月と直哉の間には沈黙が降り積もる。 ほんの短い間に起こった怒涛のような出来事に、咲月は未だ呆然としていた。 だから、先に沈黙を破ったのは直哉の方だった。 「うわっ、怖えェ・・・オレ、アイツに睨みつけられたぜ?」 そう言って無邪気に笑う直哉の姿に、咲月は心底脱力してしまう。 「なに言ってんのよ!突然現れて、あんたが失礼な事を言ったからでしょ!!大体、なんで直哉がここにいるのよ!?」 「失礼な事って・・・ああ、ケーキは売り切れだって言った事かよ?」 うっと言葉に詰まった咲月の顔を、直哉は正面から覗き込んだ。 「それに、オレは、朝から咲月を探してたんだよ。携帯は繋がらないし、オマエん家に電話しても出ないしさ。 夕方になってからもう一度電話したらやっとオバさんが出てくれて、咲月がケーキ屋でバイトしてるってあっさり教えてくれたんだ。ったく、携帯の電源くらい入れとけよな?」 拗ねたようにそう言ったけれど、直哉の目は怒ってはいないようだった。 いつもと違う直哉の様子に、咲月の戸惑いの方が大きくなって、焦りのあまり見当違いな愚痴をこぼしてしまう。 「・・・このケーキ、朝からずっと売れなくて、やっと買ってもらえるところだったのに・・・」 本心を誤魔化すように、更に早口でまくし立てる。 「直哉が邪魔をしなければ、売れてたのに・・・。どうしてくれるのよ、このケーキが売れないとあたしのバイト終わらないのよ。直哉のせいなんだからっ!」 嘘だった。ケーキが売れなくても時間が来ればバイトは終わる。それでも胸の中の戸惑いを隠すように、咲月は直哉を罵った。 そんな咲月の様子に、直哉は呆れたような笑みを浮かべる。 「あれ、聞いてなかったのか?そのケーキは売約済みだって言っただろ?」 「だって・・・あんなの口から出まかせだったんじゃないの・・・?」 「そんな訳ないだろ。安心しろよ、そのケーキはオレが買い取るから。それより・・・・・」 それまでの明るい調子を一転させて、直哉は口をつぐんだ。 そして、酷く真面目な顔をして咲月の瞳を覗き込む。 「オマエが言ってた、クリスマスを一緒に過ごす恋人の当てってアイツの事?」 一瞬何を言われたのか分からなくて、咲月は黙って直哉を見つめ返した。そして、以前、売り言葉に買い言葉のようにそんな事を言ったかもしれないと思い当たる。 睨みつけるように注がれる直哉の真剣な視線に耐えられなくて、咲月は思わずうつむいた。 「そんなの直哉には関係ないもん。・・・大体、自分の方こそ彼女と別れたって、どういう事よ?」 下を向いたままの咲月の耳に、直哉のかすかな溜め息が届いた。 「・・・オマエのせいだよ。オレが女と別れるのは、昔からいつだってオマエのせいなんだ」 「・・・え?」 顔を上げた咲月の視界に、思いがけず優しい表情をした直哉の姿が映って、ドクン、とひときわ大きく鼓動が跳ねる。今、目の前にいるのは、本当に、直哉? 「この間さ、駅で彼女に会っただろ?アイツ、オマエの前では知らん顔してたくせに、後からあの子は誰ってうるさくてよ・・・ただの幼馴染みだって説明したら、そんな訳ない、そういう空気じゃなかったって、怒鳴られた。 その場は何とかなだめたんだけど、昨日・・・・」 「咲月ちゃん?」 呆けたように直哉の言葉に聞き入っていた咲月は、不意に名前を呼ばれ、飛び上がって驚いた。 「み、美夜子さん・・・」 美夜子は店の前にたたずむ直哉に目をやると、ちょっとすまなそうな顔をして咲月に囁く。 「そろそろ閉店時間なんだけど・・・ここ片付けるの手伝ってくれるかしら?」 「あ、ハイ。もちろんです」 そのまま直哉にもにこやかな笑みを向ける。 「咲月ちゃんのお友達?ごめんなさいね、ここを片付けたら彼女の仕事も終わるから、良かったらお店の中で待っててくれるかしら?」 「あ、いや、オレは・・・」 「あら、遠慮しなくても良いのよ?」 困ったように曖昧な笑みを浮かべる直哉と半ば呆然とした感じの咲月の姿を見比べて、美夜子は不思議そうに頭をかしげた。それから、唐突にパチンと両手を合わせる。 「まあ、凄いじゃない咲月ちゃん!ほとんど完売なんて嬉しいわ。・・・だけどやっぱりこのケーキは売れ残っちゃったのね・・・・・」 机の上には1つだけポツンと取り残されたケーキの箱があった。 「あ、そのケーキなら、今オレが買ったところです。えっと、お幾らですか?」 「五千円」 妙に焦った仕草でコートのポケットをまさぐる直哉を尻目に、咲月は冷たく言い放つ。 ピタリと動作を止めた直哉がサアッと青褪めるのが見て取れた。 「げっ、そんなにするの?」 「そうよ。男に二言はないでしょう?せっかく売れそうだったところを直哉がぶち壊したんだから、ちゃんと責任取って買い取ってよね」 「うっ・・・」 2人のやり取りを眺めていた美夜子がクスリと笑みをこぼした。 「うふふ、そんな売れ残りのケーキで良かったら、2人に差し上げるわ。今日は咲月ちゃんのおかげで助かっちゃったし、ささやかなボーナスって事で」 「えっ、ホントですか!?」 「ダメですよっ、直哉に払わせますから!!」 対照的な台詞が同時に2人の口から飛び出すと、美夜子はさも可笑しそうにころころと笑った。そんな彼女につられるように、咲月と直哉もお互いを見交わして苦笑する。 「本当に構わないから、もって帰ってちょうだいね」 そう言いながら、美夜子は大きなケーキの箱を手早くビニール袋に入れて、にっこりと直哉に差し出した。 「あ、ありがとうございます・・・」 「楽しいクリスマスを」 直哉はホッとしたような顔をして、神妙にケーキを受け取った。 それから美夜子に向かってぺこりと頭を下げる。 「それじゃ、オレ、そろそろ失礼します」 「あら、お店の中で待っていても構わないのよ?」 「いえ、邪魔になりますから・・・」 そのままあっさり帰ってしまいそうな雰囲気の直哉に、咲月の胸はきゅっと締めつけられた。 一抹の淋しさが胸に込み上げる。 いつでも直哉は咲月の手をすり抜けて行ってしまう。 ――― 結局、直哉は何をしに来たんだろう? ケーキを買いに? そんな事を考えながらぼんやりと2人のやり取りを見つめていると、美夜子から咲月に視線を移した直哉がわずかに目を細めた。 ――― えっ? 直哉の意図が掴めずその場に固まったように立ち尽くしていると、テーブル越しに直哉が身を乗り出してきて、咲月の耳元で小さく囁いた。 唖然とする咲月に直哉は口の端を歪めて笑って見せる。 「わかった?」 咲月はただコクリと頷いた。頷くだけで、精一杯だったのだ。 直哉はもう一度美夜子にケーキの礼を述べると、咲月にひらひらと手を振って、駅へ向かって歩いていってしまった。 信じられない思いで、咲月はその後ろ姿を見送った。 「さて、急いで片付けなくっちゃね」 茶化すように言う美夜子の言葉に頷いて、咲月は機械的にテーブルの周りを片付け始めた。 ――― 直哉はなんて言った? まるで意味の解らない外国語のように、直哉の台詞を何度も何度も頭の中で反芻してみる。 胸がどきどきする。まるで雲の上を歩いているように足元がふわふわする。 気持ちが急いて、指先が震えた。 早く、早く、早くしなくっちゃ・・・・・・ それからどうやってケーキ売り場を片付けたのかも、どうやって帰り支度を済ませたのかも、咲月は良く覚えていない。 笑顔でバイト代を渡してくれた美夜子に頭を下げて、咲月は店から飛び出した。 駅に向かって駆け出した咲月の背中を美夜子の声が追いかけてくる。 「咲月ちゃん!」 足を止めて振り返った咲月の目に、ショーウインドウの光を受けて、柔らかな微笑みを浮かべる美夜子の姿が飛び込んできた。 「咲月ちゃん、メリークリスマス!!」 朗らかな声がアーケードにこだまして、咲月は全開の笑顔で美夜子に応えた。 大きく手を振り返すと、今度こそ一目散に駅を目指す。 鳴り響くクリスマスソングが、早く早くと急かすから。 咲月の心は翼が生えたように、大空高く舞い上がる。 手に取る前に捨ててしまったと思った翼は、最初から咲月の中にあったのだ。 『約束のクリスマスツリーの前で待ってる』 直哉の言葉が咲月の胸を温かさで満たした。 |