あの時の彼女の勝ち誇ったような表情が目の前に浮かんで、咲月は握り締めたベルを力任せに振り回した。 ――― 何なのよ、あの女! 感じ悪いったら。・・・猫目の・・・・猫女めっ!! カランカランカラン・・・と澄んだ音色がめっきり人通りの少なくなったアーケードにこだまする。 今頃、直哉はあの女と・・・・と考えかけて、咲月はブンブンと頭を振った。 朝から思い出さないようにしてきたのにうっかり思考がそっちへ行ってしまったのは、売れ残った5,000円のケーキのせいかもしれない。 売れないケーキのせいで、咲月の心まで弱ってしまったのだ。きっとそうに違いない。 クリスマスなのに買い手のないケーキも、クリスマスなのに独りぼっちの咲月も同じだから。 「あんたが売れないと、あたしお家へ帰れないのよ・・・?」 思わず"マッチ売りの少女"気分を思い出してそう呟くと、思いがけない近さで「クスッ」と笑う声がした。 「それは大変だね」 驚いて顔を上げると、目の前に見覚えのある青年が立っていた。 「あ、えっと・・・?」 「こんばんは」 戸惑う咲月に、眼鏡をかけたその青年は穏やかな笑顔を向ける。 「えっと・・・山本君、だったっけ?」 「だったっけ、は酷いな。井川咲月さん」 柔和な笑みに咲月の緊張がほぐれる。 山本とは、以前友人に無理矢理連れて行かれた合コンで知り合った。 やけにハイテンションなメンバーの中で山本だけが静謐な空気をまとっていた。そして、場の雰囲気にうんざりしていた咲月に穏やかに話しかけてくれたのが彼だったのだ。 「あ、ごめん。久しぶりだね。山本君、この辺に住んでるの?」 「違うけど、ここ、うちの大学の最寄り駅だから。そういう井川さんこそ、この辺?」 美夜子の店があるアーケードは普段咲月が来る事のない駅の前にあった。 バイトを頼まれなければ、一生降り立つ事もなかったかもしれない。 「ううん。あたしはバイトを頼まれちゃって。ここの店のオーナー、うちの母の知り合いだから・・・」 「あはは、それでイブなのに勤労少女をやってたんだ」 「き、勤労少女って・・・」 穏やかに笑う山本につられて、咲月も自然に笑っていた。 山本のこういう大人っぽい雰囲気はいいな、と思う。癒される感じ? 妙に子供っぽい誰かさんとは大違い・・・・・・。 また浮かんできた直哉の顔を振り払うように、咲月は意識してはしゃいだ声を上げる。 「そういう自分こそ、休みの日に大学へ行ってる勤勉少年くんじゃない?」 「それもそうだね」 照れたように頭を掻く山本の姿が可笑しくて、咲月はまた心の底から笑った。 こんな風に笑うのは一体何日振りだろう、と思う。 直哉の前から走り去った日から、ううん、直哉に新しい彼女ができたと聞いたあの日から、本気で笑った事などなかったのかもしれない。笑えば笑うほど、心が軽くなっていくのを感じる。 それで初めて、咲月は自分の心が直哉の件でがんじがらめになっていた事に気が付いた。 ――― 山本君って、ほっとする・・・ 会うのは2回目だけれど、ずっと昔からの友人のような気安さが彼にはあった。 朝の海のような穏やかさ、咲月が求めていたのはそういう関係だったのかもしれない。 その考えは、咲月にちょっぴり後ろめたさを与えたけれど。 「井川さん」 不意に名前を呼ばれて我に返った咲月は、自分を見つめる山本の目の真剣さに息を呑んだ。 惹き込まれるように、見つめ返す。 「・・・はい?」 「実はさ、僕、今日ここを通るのこれで3回目なんだ」 山本が何を言いたいのか掴みかねて、咲月は小首をかしげた。 「1回目は昼過ぎ、大学へ向かう時。すごく元気なベルの音が聞こえて、そっちを見たらキミがいたんだ。 2回目は夕方、大学からの帰り道。やっぱりキミはベルを振っていた」 何と答えたら良いのか分からなくて、曖昧に頷く。 「この間の合コンの時さ、井川さん、あんまり乗り気じゃなかっただろう?だからてっきり彼氏持ちなんだと思ったんだ。僕には到底チャンスはないだろうと。なのにクリスマス・イブ当日に、キミはケーキを売っている」 「彼氏なんて・・・」 なぜか胸の鼓動が早くなる。頬が火照ってくるのもわかった。 「だけど、ひょっとしたら、恋人とは夜から会う約束なのかもしれないと思った・・・・・・だから、3回目の今は、夜になってもキミがまだいるのかを確かめに来たんだ」 熱をおびた山本の視線に全身を絡め取られてしまったようで。 早鐘のように打つ心臓が、とても自分のものとは思えない。 何か言わなければ・・・・・・そう思ったけれど、のどがせり上がったように苦しくて、言葉を発する事ができそうもない。 「夜になってもまだキミがいたら・・・」 ふと言い淀んだ山本に、咲月の心が激しく警鐘を鳴らす。 言わないで。 弱った心は簡単に押し流されてしまうから。 ――― 今頃、直哉は、あの猫女と・・・。 さも自分のモノだと言いたげに直哉に腕を絡めた彼女の顔が蘇えって、咲月の心は揺れ動く。 そんな自分が許せなくて、咲月は山本にぎこちない笑顔を向けた。 「・・・ケーキを、買って行こうと、思った?」 張り詰めたような雰囲気を壊したくてわざと冗談めかしてそう言ったけれど、咲月の声は明らかに震えていた。 山本はハッとしたように咲月を見つめ返した。暫し沈黙し、ふっと笑う。 「・・・そうだね。他にそのケーキを買う予定の人がいないのなら・・・・・」 そう言って懐から財布を取り出した。 「そのケーキ、僕が買うよ」 決意を秘めたような山本の口調に、咲月の動揺が大きくなる。 冗談で流そうとした咲月の試みは失敗したのだ。 山本が欲しているのはケーキではない。その事は彼の眼差しから痛いほど感じられた。 いっそこの人に縋ってしまえたら・・・・・。 その考えは、暗闇に灯った蝋燭の炎のように、咲月の心にほのかな光を与える。 急激に山本の方へと流れ出しそうになる心に、咲月自信が戸惑っていた。 流されてしまえばいい、そんな投げやりな気持ちさえ湧いてくる。 記憶の中の直哉が、恋人と腕を組んで遠ざかっていく。 「・・・でっ、でもこのケーキ、5,000円もするのよ?すごく大きいし・・・10人分くらいはあるんだから・・・・・・」 それでも、山本の意図には気付かない振りをして咲月は最後の抵抗を試みた。 咲月自身、山本にあきらめて欲しいのか、あきらめて欲しくないのか、自分の心が解らなくて・・・。 泣き出したいような気持ちで山本を見上げる。 けれども山本は、咲月を逃がしてはくれなかった。 「いいんだ。そのケーキ1つでキミが僕のモノになるのなら・・・」 「・・・・・・山本君」 山本の真剣な眼差しに、咲月は言葉を失った。 逃げる事も、誤魔化す事も許さない。そう語る彼の瞳に、咲月への想いが溢れていた。 もう拒否できそうにもない、と思う。 「そのケーキ、僕に売ってくれないか?」 ただ一度、頷けばいい。 それで直哉の呪縛から、解放されるなら。 |