時刻は午後7時を回った。 このアーケードに連なる商店街の閉店時刻は意外と早い。 ほとんどの店が8時過ぎにはシャッターを下ろす。美夜子の店も多分に漏れず8時が閉店時刻だった。 今日のバイトの残り時間はあと約1時間。 売れ残っているケーキは1,600円、2,500円、5,000円とも1つずつ。 先ほど美夜子が姿を現してから、1,600円と2,500円のケーキはいくつか売れた。けれども、5,000円のケーキだけは売れる気配さえなかった。実は、朝から1つも売れていないのだ。いつまで経っても売れないケーキに、美夜子さえ、「やっぱり飛び込みのお客さんにはこの大きさの需要はなかったかしら?」と苦笑いをこぼしていた。 電車が停まる度に、家路をたどる人々が咲月の目の前を足早やに通り過ぎて行く。相変わらず八つ当たりのようにベルを振り回す咲月には、一瞥もくれない。 きっと大切な誰かが ―― 家族や恋人が ―― 帰りを待ちわびているのだろう。 虚しく響き渡るベルの音に、咲月はまるで自分が"マッチ売りの少女"になったような気分になる。 悲劇のヒロインになったつもりでベルを振っていたけれど、30分も経たないうちに1,600円と2,500円のケーキは呆気なく売れてしまった。残りはあと1つ。問題の、5,000円のケーキだけだ。 さすがにこのケーキだけは売れそうもない、と思う。 美夜子も諦めていたし、売れ残っても仕方がないだろう。 それでも咲月は電車が停まる度に律儀にベルを鳴らし続けた。 ※ ※ ※ その日の直哉は会った時からどこか様子が変だった。 掃除機をかける咲月をチラチラと盗み見ては、一人ニヤニヤ笑いを浮かべる。 狭いアパートの一室の事、さっさと掃除を済ませた咲月は直哉の含みのある視線に耐えられなくなって、思わず問い質していた。 「直哉!さっきから一体何なのよ?言いたい事があるならハッキリ言えばいいでしょう!!」 「おわっ、咲月、気付いてたのかよっ!?」 「当たり前でしょ、何年幼馴染みやってると思ってるの!」 咲月の剣幕に思わず怯んだ直哉だったが、すぐに気を取り直したように正面から咲月と向き合った。 「あのさ、オマエこの前言ってたじゃん。その、クリスマス相手がいなかったら付き合ってやるって」 「えっ、ああ、うん、まあね・・・・」 思いがけない事を言われて、今度は咲月の方がドギマギしてしまう。 直哉の部屋に来るのは1週間ぶりで、その間、あの話は保留になっていたのだ。 動揺する咲月の様子を面白そうに眺めながら、直哉はニヤリと口元を歪めた。 「咲月!俺さ、彼女できちゃった!これでお前に哀れまれる事なく、楽しいクリスマスが過ごせそうだぜ」 "彼女"、その台詞に一瞬頭の中が真っ白になった。 突然の衝撃に言葉も出ない咲月に、直哉はビシッと指を突き付けた。 「へっへ〜ん、参ったか!直哉様をなめるなよ!!」 その、あまりにも幼稚な仕打ちに、またもやくらりと眩暈を感じる。 ご機嫌な様子の直哉が遠く感じられた。 けれども悲しい事に、咲月の生来の負けん気の強さの方が打ち勝ってしまって・・・。 「あっそう、良かったわ。これであたしも直哉のおもりをせずに済むもん!」 「おっ、言ったなぁ・・・」 咲月の反撃に、直哉は拗ねた顔をして睨みつけてくる。 咲月も負けじと睨み返したのだが・・・・・。 睨み合っていた2人は同時にぷっと噴き出した。 そのままお腹を抱えて笑い出す。 昔から変わらない、いつものパターン。どんなに睨み合ったって、お互いの視線の中に甘さがある事を知っているから・・・。 けれども、咲月の心にはまた1本新しい針が突き刺さった。傷口からドクドクと真っ赤な血が溢れ出す。 だけど痛みは感じない。もうとっくの昔に痛みを感じる器官は麻痺してしまっている。 だから、瞳に浮かんだ涙は胸の痛みのせいじゃない。 笑いすぎてお腹が苦しくなったから。・・・・・きっとそのせい。 直哉と見つめ合って笑ったまま、咲月は滲んできた涙をそっとぬぐった。 ※ ※ ※ 直哉が彼女を作ったのは、咲月の台詞に意地になったせいだ。あの時もっと上手に立ち回っていたら・・・と思うけれど既に後の祭りだ。 彼女ができたというのに、直哉は咲月から合鍵を取り上げなかった。それを良い事に、咲月は直哉の部屋に通い続けた。せめて、"幼馴染み"という特別な席だけは誰にも渡したくはない。 今の咲月にはそれがすべてだったから。 彼女ができたという告白から数日後、いつものように部屋の掃除を終えた咲月は、これから彼女と会う約束があるという直哉と連れ立って、日が沈んですっかり暗くなった道を駅へ向かって歩いていた。 平気な振りをして一緒の時間を過ごしてきたが、外に出た途端、咲月はどっと疲れを感じた。 思っていた以上に緊張していたようだ。そろそろ限界かもしれない、と思う。 直哉を遠く感じる。 髪をかき上げる仕草も、悪戯っぽく微笑む瞳もいつもの直哉なのに、もう誰か別の女性のモノなのだ。 そう思うと胸に切なさが込み上げて、咲月はコートの胸元をぎゅっと握り締めた。 「どうした?変な顔して。腹でも減ったのか?」 心配そうに覗き込んで来る直哉の優しささえ、今の咲月には苦しさが増すだけで・・・。 駅前の広場に差しかかった所で、不意に立ち止まった直哉が咲月の腕を取った。 煉瓦敷きの広場には、花壇や街路樹を囲むようにいくつかのベンチが配置されていて、人々の憩いの場となっていた。 そして、12月に入ってからは大きなクリスマスツリーが飾られて、夕暮れ時になるとライトアップ目当てにたくさんの恋人たちが集まって来る。咲月がイブの日に待ち合わせようと言ったのもこの場所だった。 今の咲月にはきらびやかな光を放つこの光景はつら過ぎて、心配そうに覗き込んでくる直哉からわざと目を逸らした。 「さーつき、どうしたぁ?」 うつむいたまま答えない咲月の頭を直哉がくしゃくしゃっとかき回した時だった。 「ナオくん!」 不意に甘ったるい女性の声が響いた。 「ナオくんってば、遅いよぅ。ミク、待ちくたびれちゃったぁ」 鼻にかかる喋り方がいかにも媚びを含んでいて、咲月は反射的に眉根を寄せる。 「あ、ああ、悪りぃ・・・」 気のない返事をして、直哉が彼女へと視線を向けた。 咲月の頭をかき回していた手も、ゆっくりと下ろされる。 つられるように声のした方へ顔を向けると、猫のような瞳をした派手な雰囲気の女性が立っていた。 男性なら誰もが振り返りたくなるような美人だ。 彼女は一瞬咲月に冷たい視線を向けると、あとは直哉に向かって満面の笑みを浮かべる。 「ナオくん、行こうよ。ミクお腹すいちゃったぁ」 咲月の存在を完全に無視して、直哉にだけ向けられた言葉。 目が合った瞬間、睨み付けられたような気がして不愉快になったけれど、近寄ってきた彼女が直哉の腕に自分の腕を絡めるのを目にすると、急に惨めな気持ちが込み上げてきて、咲月は思わずうつむいた。 今の直哉は彼女のモノなのだ。 分かっていたはずの現実を突きつけられてショックを受ける自分の不甲斐なさに、唇を噛む。 「あ、ああ・・・・」 彼女に引っ張られてよろけながらも直哉がこちらを気にしているのを感じて、咲月は顔を上げると無理に笑って見せた。 「じゃあ、あたし行くから!」 そう言って駆け出すのが精一杯だった。 直哉に名を呼ばれたような気がしたけれど、咲月は決して足を止めなかった。 |