横川~御代田 H.27.7.11~12
早朝家を出て、東海道線、東海道新幹線、上越新幹線、信越本線と乗り継いで、横川駅に着いた。前回は雨やら、ホームで催し物があったりして気が付かなかったが、アプト式線路の模型が飾られていた。1997年北陸新幹線の開業に伴い横川~軽井沢間は廃止になった。
ペンションのオーナー夫妻に送られて、2日目のウオークが始まる。昨日の道まで戻り、歩き始める。今日もいいお天気です。家々の庭や空き地には、高原に咲く花が咲いていて、ここが高原なんだということが実感できる。
旧軽井沢通りは一時、原宿と言われたようにモダンな店が建ち並び観光客がたくさん歩いている。
加賀藩前田家の休息所、皇女和宮もここで休息したという「赤門屋敷跡」の先に熊野神社があり、その前には「上信国境碑」が立っている。地面には境界を示す赤線が引いてある。遠州軍と信州軍が兵越峠で綱引きをするという行事があるが、ここでは安政遠足があり、神社の前がゴールになっていた。
さらに尾根道を進むと、AM.12:51 南向馬頭観音が尾根上の岩の上に建っている。(この切通を南に出た途端、南側が絶壁となる。この辺りは昔、山賊が出たといわれ、この険しいところを過ぎると「北向馬頭観音」が現れる。)と記されている。馬頭観音があるところは危険な場所であり、旅人の安全を守ってくれる。
今回は標高の高いところを歩いたので、外界は暑かったようだが、比較的快適に歩けた。碓氷峠は思っていたより手強く、大変だった。所々に説明看板があり、メリハリがついて何とか歩けた。後で気付いたことだが、足を三か所ヒルに血を吸われていた。キイチゴをとって食べたりしていたので、その汁が着いたのかと思っていたが、赤いのは私の血だった。道が枯葉で覆われぐじゅぐじゅしているところもあったので、ヒルがいたんだと思う。 また、峠の茶屋や追分の骨董屋さんで竹の籠を調達できた。 疲れすぎて夕食を食べられなかった。多分熱中症だったと思う。 時間が無かったら、軽井沢から新幹線に乗ろうと思っていたが、何とかバスに間に合い、バスで横川~軽井沢間を走ることができた。これからしばらく暑くなるので、街道歩きはお預けになりそうです。
東塚もあると書いてあったので、探したが大きな木が見つからなかった。あきらめて道を引き返した時、相棒が塚を取り巻く杭を見つけた。残念ながら塚木が枯れたのか植わっていなかった。
中北道標 小田井宿3.0km、追分宿2.2km」の道標を過ぎ、街道が左にカーブするところから入る「大久保沢旧道」は宅地造成で消滅してしまったので、左の道を下っていく。右側に「大山神社」がある。石段を登っていく参道脇には、道祖神や馬頭観音が祀られている。
「中部北陸自然歩道道標 小田井宿3.4km、塩名田宿13.5km 追分宿1.8km」の道標の所に「御代田観音」が建っている。
中山道は国道18号線を進む。その先で斜め左の旧道に入る。「中山道69次資料館」があり、その前には箱庭のように69次が造られていた。旧道は「笑い坂」を下ります。京方面から来た旅人が追分宿の明かりを見て笑みをこぼしたことから付いた名前だが、私たちは下ります。 大曲を過ぎると、「千ヶ滝湯川用水温水路」がある(。慶安三年(1650)柏木小石衛門が開削した農業用水路で、戦後に改修した。千ヶ滝湯川は浅間山の雪解け水や湧水を水源とし、稲作には水温が低いためこの施設で水温の上昇を図っている。)ここから御代田に入った。
宿のはずれに「枡形茶屋・つがるや」がある。往時はここに枡形があり、つがるやは枡形内に位置していた。建物の2階の漆喰壁に「枡形」と「つがるや」の文字が浮き出ている。 ここが追分宿の「京口」西口である。
その隣には、「泉洞寺」がある。境内の常夜燈は脇本陣油屋が奉納したもの。墓地入口には「歯痛地蔵」があるということだったが見つからず、「堀辰夫の愛した石像」があり、それが歯痛地蔵とも呼ばれていると書かれていた。また、「稲垣黄鶴句碑」と「筆塚」もあった。(貞明皇后に書を教えた稲垣は、追分宿三浦屋の子孫である。)と記されていた。
「浅間山道路第一指石」と刻まれた標柱があり「登山の注意」が書かれた看板が立っている。ここが浅間山登山口のひとつなのか。 その先には諏訪神社があり、参道の常夜燈は天保六年(1835)建立で、宿内の永楽屋が奉納したもの。境内には小林一茶の句碑がある。
精進川を精進橋で渡ると、その先の左側に「堀辰夫文学記念館」がある。記念館の門は本陣の裏門を移築したもので、晩年、労咳を患い、ここを安住の地と定めた。その向かいには「脇本陣油屋」があった。堀辰夫は「つげの間」で「風立たちぬ」を執筆した。 街道には、「夢の箱」と書かれた「青空文庫」があった。、
その先には「浅間神社」がある。境内では7月26日に行われる「信濃追分馬子唄道中」の舞台の設置をしていた。(この神社は、浅間山鳴動の際に、明治天皇の勅祭が行われた。流造りで、室町時代初期の様相をよく残している。境内には、芭蕉句碑や脇本陣油屋が奉納した常夜燈がある。)
神社に置いてあった「借宿ミニガイドマップ」によると神社の先にある向かい合った民家は「旧穀屋」と「旧造り酒屋」と言うことになる。昔の面影を残しており、酒屋さんの方は改修中であったが「杉玉」が下がっていた。
その先の「遠近(おちこち)宮」辺りが旧借宿村で、間の宿であった「古宿」と同様に中馬中牛で賑わった。 (遠近宮の社殿は、享保年間の建立で、御神体は浅間山である。神社名の「おちこち」は在原業平の「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 遠近人の見やはとがめん」に因んでいる。御祭神の磐長姫命は富士山の御祭神である「木の花咲耶姫」の御姉神にあたる。
馬頭観音の石塔が旧道脇に連続して現れる。川魚料理ゆうすげの所で旧道は国道18号線に合流する。18号線の歩道を歩き、軽井沢バイパスのガードをくぐる。ガード先で国道18号線から左の旧道にシフトする。
その先の右側に「本陣・土屋」の表札の家がある。土屋本陣跡であるが、全く普通の民家である。問屋も兼ねていた。 その先の右側角に「草津道道標」がある。正面には「不動明王」が彫られ、側面には「右くさつ」と刻まれている。旧道は上田信金先を斜め左に入る。直ぐに石塔群があり、双体道祖神や二十三夜供養塔がある。
神社の裏手には、長谷川伸の戯曲「沓掛時次郎」の歌碑が建っている。「千両万両まげない意地も、情がからめば弱くなる。浅間三筋のけむりの下で男沓掛時次郎」時次郎は架空の人物である。
沓掛宿は、安永二年(1773)の大火で壊滅的な被害を受け、現在地に移転した。小宿であったが、草津温泉を控えて、湯治客で賑わった。本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒であった。皇女和宮は追分の名を嫌いここ沓掛宿の土屋本陣に宿泊している。
残された旧道
軽井沢中学校交差点を左折し、しなの鉄道中学校前踏切を越え、先を右折する。振り向くと、しなの鉄道敷設で分断された旧道が残っている。風情のある一本道を進むと、視界が開け、湯川に架かる前沢橋を渡ると、浅間山が遠望できます。一筋の噴煙がうっすらとたなびいています。湯川は、浅間山に源を発し、白糸の滝、千ヶ滝、碓氷峠の河川を吸収して千曲川に落ち合う。
雨宮敬二郎は、明治時代に一代で財を築いた人物で、軽井沢の開発に尽力した。軽井沢のカラマツ林は雨宮が植林したものである。奥にある洋館は、総理大臣を勤めた近衛文麿公の別荘跡で市村今朝蔵に譲った屋敷である。今は、市村記念館になっている。今朝蔵は敬二郎の妻の弟の子供で、軽井沢の不動産を雨宮から相続し、学者村開発の拠点とした。 新座敷では、追分出身の「稲垣黄鶴 書の世界」が企画されていた。
離山交差点で旧道は国道18号線に吸収される。その先には、「市村記念館」がある。
イブキトラノオ
ソバナ
旧軽井沢を抜けるとY字路になり、中山道は右の離山通りに入る。大型バス駐車場の所に「馬頭観音」が建っている。「六本辻」に出る。ロータリー交差点になっている。進場川を野沢橋で渡り、軽井沢高校の手前に「離山登山口」の標識があった。皇女和宮通行の際は離の字を嫌い「子持山」と改称したそうです。 この辺りに今日の宿ペンション「ジャックと豆の木」があるはずだが、道がわからない。電話で聞くと「、高校の正面にある歩道橋で新幹線の線路を渡ってくれ。」と言われた。ペンションにたどり着き長い一日が終わった。PM.6:30だった。
ウバユリ(蕾)
聖パウロ教会通りに入り、「大禅」の所に「明治天皇軽井沢御昼行在所」碑がある。ここが佐藤織衛本陣跡である。(明治天皇は碓氷峠を下り軽井沢宿に入った。本陣敷地内に新設された御昼行在所で昼食を摂り、車で軽井沢宿を立たれた。)と記されていた。皇女和宮も本陣で昼食を摂っている。
その先の右側には「つるや旅館」がある。(往時は茶店で、強飯、ざるそば、煮しめを商った。茶店の前は枡形。明治以降は旅館となり芥川龍之介、堀辰夫等の文人が多く宿泊した。堀辰夫は「村はづれの宿や」と書いている。)
ショーハウスの先に芭蕉句碑がある。ショーは英国聖公会宣教師で胸像が建っていた。句碑は天保十四年(1842)に建てられたもの。「馬をさえ ながむる雪の あした哉」
PM.4:43「 旧中山道碓氷峠峠道跡」のところから軽井沢に向かう。途中で会った人に聞いていた通りすごい道で少し前まで通れなかったようです。急な土道を下りると、舗装道路に突き当たる。その先のガードレールの切れ目から左土道を下りる。途中の道標に「かもん坂」の標識があったようだが、それにも気が付かないほど急な坂道を駆け下りた。少し緩やかな砂利道にでると旧軽井沢聖沢別荘地になる。そのあと、道をたどれなくて、遊歩道入口に出てしまった。
あづまやの斜め向かいの駐車場の奥に「みくにふみの碑」がある。「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十 」(よしやよし 何はなくとも み国書 よくぞ読ままし 書読まむ人)の意味で、峠の社家に伝えられていたものを、消失を恐れて昭和39年に建てられた。)と記されていた。
日本武尊「あずまはや」詠嘆の地・景行天皇40年、日本武尊は東国を平定し、武蔵・上野をへて碓氷峠にさしかかったが、濃霧で道に迷った。ヤタガラスが紀州熊野山のなぎの葉をくわえ来て、道案内をして無事に頂上に着いた。たなびく雲海から海を連想し、旅の途中で相模灘で入水された弟橘姫を偲び「あづまはや」と嘆かれた。以後、ここより東国を「あずま」と呼ぶこととなった。日本武尊は熊野神社の創建者である。
見晴亭で「力餅」をいただいて人心地がついた。今でも数軒の茶屋があり、力餅などが食べられる。見晴亭の手前に茶店「あずまや」があり、そこで古文書が発見されて「安政遠足」が復活したそうです。
最後の長坂道を上り詰めると、T字路に突き当たり、右折する。ここには、「松井田坂本宿」や「子持山」方面を示す標識がある。旧道は、和宮道のT字路につきあたり、左折する。
PM..2:48 「人馬施行所跡」がある。(笹沢のほとりに、文政十一年江戸呉服町の豪商かせや与兵衛が金両を幕府に寄付し、運用益の利息百両を二分し、和田峠とここに施行所を設けた。11月から3月まで旅人には粥とたき火、牛馬には桶一杯の煮麦を施した。)施行所の先は沢になっていて、徒歩渡する。向こう側に着くと、熊笹が生い茂る狭い坂道になる。
「安政遠足」の標識と「あと3km」の標識があった。まだ3kmもあると思うと急にお腹がすいてきた。
PM.1:54 「山中茶屋跡」に出る。(山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で、慶安年間に峠町の人たちが川の水をくみ上げるところに茶屋を開いた。寛文二年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶本陣には、上段の間が二か所あった。明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡などが残っている。)とあった。山中小学校跡の案内板には(明治11年の明治天皇御巡幸の時、児童が25人いたので、25円の奨学金の下附があった。)と記されていた。
「安政遠足」の標識を過ぎると「栗が原」の案内板がある。平坦で開けた場所で、明治天皇御巡幸道と中山道の分岐点で明治8年に群馬県で最初の「見回り方屯所」が設置され、「交番」の発祥となった。その前には、道標があり、標柱には「水源かん養保安林」と記されている。
その先に「刎石の一里塚跡」の案内板がある。(座頭ころがしの坂を下ったところに慶長以前の旧道・東山道があり、ここから昔は登って行った。その途中に小山を切り開き一里塚が造られた。)と記されていた。江戸日本橋より35番目の一里塚であった。PM.1.07 「座頭ころがし(釜場・かんば)」の案内板が立っている。(急な坂道となり岩や石がごろごろしている。それから赤土になり、湿っているので滑り易いところである。)と書いてあった。こちらからは下り道になる。座頭さんは、先導の者がカーブを回り切ってしまったため、鈴音の方に進み谷底に落ちてしまったという話があるそうです。
AM.12:21 坂を上り平らになったところに「刎石茶屋跡」がある。(ここに4軒の茶屋があった。現在でも墓や石垣が残っている。)もう一つの案内板には(四軒茶屋跡、刎石山の頂上で、ここに4軒の茶屋があった。力餅、わらび餅が名物であった。)と記されていた。刎石山は標高が909mで、峠ののぼり口が480mなので、429m上ったことになる。皇女和宮もここで休憩したそうです。
AM.12:02 坂を上りつめると「上がり地蔵下がり地蔵」が迎えてくれるというが、どこにも見つからなかった。板碑の地蔵と言うので下に転がっている石がそうかもしれないと思った。その先には「覗」がある。下を覗くと坂本宿が良く見えた。(坂本宿を見下ろせる場所で、山梨の老木がある。一茶は「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んだ。)
その先には、大きな石塔が三基ある。「南無阿弥陀仏」と刻まれた題目碑、極楽往生信仰の大日尊、馬頭観音がある。坂本宿の上木戸にあった芭蕉句碑はここにあったと記されていた。ここは、刎石坂と言われ、碓氷峠一番の難所とも言われているようだ。猿の鳴き声のような「きーきー」という音がして、上からマウンテンバイクを押したおじさんが現れ、ブレーキを掛けながら下って行った。
宿はずれから見た刎石山
御代田駅舎
民家の奥にある「御代田の一里塚」が見つからなくてうろうろし、戻ったところ、道の脇に「標識」が建っていた。その脇を通り奥に行くと一里塚が残っていた。「西塚で、径13m、周囲40m、高さ5mで、塚木はシダレ桜で、日本橋より41番目である。)(中山道は幕府の置かれる前年に整備され、その後改修され、取り残されてしまった。)
「そば処ささくら」で「山菜そば」をいただく。東海道を一人で歩いていた時は、お店に入って昼食をとるということはなかったが、相棒と歩くようになって名物も食べられるのでうれしい。おいしいお蕎麦でした。
合流地点の右側に「草津道分去れ道標」があり、「従是左上州くさ津道」と刻まれている。18号の歩道を歩いていくと、「標高1003m」の標識と「追分宿」の標識がある。
左側に「脇本陣増寿屋清兵衛」があり、門柱には」「旅館 岳南荘 枡屋本店」と書かれていた。
2日目
軽井沢観光協会のあたりに脇本陣江戸屋があった。
軽井沢写真館
神木・シナノキ 樹齢800年
文和三年()1354)建立の多重塔・碓氷峠で南北朝時代に起こった「武蔵野の戦い」で亡くなった人の二世を願って建てられた。元は七重であったが、浅間山の噴火の際に倒れ一重が不明になった。
那智宮(信州)
新宮(上州)
本宮(国境上)
群馬県と長野県の県境
安政遠足決勝点
PM.2:25 峠道はY字路の「陣馬が原」に出る。右の道筋は皇女和宮降嫁の際に開削された和宮道で「(安政遠足」のコースになっている。(笹沢から子持山の間は菅野原で、竹田勢と上杉勢が戦った「うすい峠合戦」跡と言われている。)子持山は標高1107mの山であり、万葉集でも歌われている。
山中坂を上がっていくとPM.2:17 「一つ家跡」の案内板がある。(ここには、老婆がいて旅人を苦しめた。)と記されていた。一つ家跡を過ぎると、子持山の急坂になる。
その先には、きれいな東屋があり、休憩した。中には、おぎのやの釜飯の釜が2個転がっていた。旅人がここで食べたのだろうが、かたずけなければいけません。この辺りは林の中の尾根道で、勾配もゆるくなり少しホッとします。
木立の間を歩いていくとAM.12:25 昌泰二年(899)に設置された「碓氷坂の関所跡」がある。その先に道標があり「熊野神社6.4km、坂本宿2.5km」と書かれていた。
更に山道を進むと、AM.12:13 「弘法の井戸」がある。弘法大師が掘り当てた井戸である。(諸国をまわっていた弘法大師が、刎石茶屋に水が無いので、ここに井戸を掘ればよいと教えたと伝えられる霊水である。)と記されてる。傍に柄杓があったので中に入れると水があった。
旧坂を登っていくとAM.11:48峠道に面して「柱状節理」がある。(火成岩が冷却する際に角柱状に亀裂を生じたもの。)と記されている。
その先には、八幡宮がある。(創立年代は不詳だが、碓氷郷の鎮守産土神として古来篤く崇敬せらる。)と記されている。ユニークな形をした狛犬が鎮座している。
栄泉の描いた坂本宿は、背景に刎石山(はねいし)と宿並を鳥瞰している。実際は宿並の延長線上に刎石山が位置している。宿並の中央には用水が通され、これを渡るために細かく石橋が架けられていた。
宿の京口(西)にも上木戸が復元されている。柵の反対側には「常夜燈」と刻まれた石塔がある。
酒屋脇本陣(坂本公民館)
旅籠たかさごやは、小林一茶の定宿。一茶が泊まると、近郷近在の同好者が集まって賑わった。
旅籠かぎやは先祖が高崎藩検番であった。
脇本陣永井
脇本陣みよがや
佐藤本陣・代々佐藤甚左衛門が勤め、金井本陣と共に問屋を兼ね「上の本陣」と呼ばれた。 金井本陣は、代々金井三郎左衛門が勤め、「下の本陣」と呼ばれた。皇女和宮は、11月9日に宿泊している。
左側に案内板の出ている家がある。説明板によると(ここは「中村碓嶺の生誕地であり、1780年、代々旅籠を営む中村屋に生まれた。坂本宿は街道文芸として、俳諧や短歌が発達し、地元に多くの俳人が傑出した。碓嶺は幼少期よりこれらの影響を受け、本庄に住む長庵に師事し、遠路通った。)
文久元年の絵図によると、八間一尺(約14.1m)の道路に、川幅4尺(約1.3m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣、旅籠、商家が屋号看板を掲げ、その賑わいぶりが馬子唄にうたわれている。「雨が降りゃこそ松井田泊、降らにゃ越します坂本に」今はすっかり整備され、用水路にはきれいな水が流れていた。
左側には、木戸を模した柵があり「中山道坂本宿」と記されている。ここは下木戸跡で、坂本宿の江戸(東)口である。(碓氷峠東麓斜面に、幕命による計画的宿として誕生する。直線街路と直角に、短冊形に整然と地割した上で、住民を呼び寄せた。 碓氷峠の麓にあることから「坂本」となった。上州路最後の宿で江戸から5泊目にあたり、東に碓氷の関所、西に碓氷峠を控え、大いに賑わった。飯盛も多く「碓氷峠で坂本みれば女郎が化粧して客を待つ」とうたわれた。)本陣2軒、脇本陣2軒,旅籠40軒であった。
前回、時間があったので、白髭神社まで歩いた。その間は左右の花を見ながら歩く。午前9時56分白髭神社に着いた。ここから今日の歩きが始まります。
ヤナギラン
吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉
秋葉神社のあたりが旧古宿村である。中馬中牛の宿で賑わった立場があったところです。信州の農民が駄賃稼ぎに荷を中継せずに直送したため「岡船」といわれ荷崩れが無く安価であったので評判であったそうです。秋葉神社は境内に「阿夫梨大神」碑がある。雨乞いの神で、阿夫梨は雨降りが転訛したもの。
その先の八十二銀行駐車場奥には、「脇本陣蔦屋跡」碑がある。
現在地が分からず、散歩をしていた親子連れに道を聞いた。どうやらこの道に出てきてよかったようだ。舗装路を下り、矢ケ崎川に架かる二手橋を渡る。朝立ちの旅人が飯盛女に送られ、ここで東西二手に分かれたのを由来としている橋である。PM.5:00
軽井沢宿は、難所碓氷峠を控え大いに賑わった。天明七年(1787)の浅間山の大噴火による降灰で宿は壊滅的な被害を蒙った。本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒だった。明治以後、外国人宣教師の紹介により、別荘地に変貌した。
化粧水跡(旅人がこの水で形を直したという水場))
この辺りに堀切があるというが、どんなものだろうと歩いていくと、尾根道が細くなっている地形が現れ、案内板が建っていた。(天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を松井田城主大道寺駿河守が防戦しようとしたところで、道が狭く、両側が掘り切られている。)と記されていた。防戦むなしく、突破されたため、補陀寺にあった大道寺政繁の墓は、前田公の参勤通行の際に、悔しい汗をかくと言われた。AM.12:48
更に進むと大きな「馬頭観世音」石塔がある。その先には「風穴」があり、手を入れると少し涼しいかなと言うくらいの風を感じます。(刎石溶岩の裂け目から水蒸気で湿った風が噴き出してくる穴が数か所ある。)と記されていた。
AM.11:17 石垣を残す堂峯番所がある。(堂峯の見晴らしの良い場所の石垣上に番所を設け、中山道を挟んで定附同心の住宅が2軒あった。)碓氷関所の出先機関で山抜けを見張った。その先に「安政遠足ゴールまで8.0km」の標識がある。
上木戸を出ると、寛政年間建立の芭蕉句碑がある。 坂本宿の俳人達が、春秋白雄先生に頼み、選句して書いてもらった句である。刎石山頂にあったものを現地に移転した。内容は木曽路下りの句である。「ひとつ脱て うしろに負いぬ 衣かえ」と刻まれているらしいが風化していて一つも読めなかった。
頬に手をやっている
旧雨宮邸・東の家
旧雨宮邸・蔵跡
旧雨宮邸・新座敷
峠の登り口には、「旧中山道」の標識があり、その先には、「安政遠足」の標識もある。安政侍遠足は5月の第2日曜日に開催されます。
佐藤本陣跡には、明治8年に坂本小学校が開校された。その後佐藤家は移住し、現在の家屋はその跡地に明治34年小竹屋の分家がが「小竹屋」として建てたものである。上州櫓造りの旧旅籠小竹屋。
脇本陣八郎兵衛
上信越自動車道高架を過ぎると原駐在所があり、右側に文化9年建立の「巡礼供養塔」がある。
横川駅
追分宿交差点で旧道は国道18号線に合流する。すぐ先のY字路の「分去れの碑」がある。「右従是北国街道 左従是中山道」と刻まれている。奥の方に石仏が安置されている。寛政元年建立の常夜燈には、「従是右伊勢」と刻まれている。
旧道に入ると、「馬頭観音」があり、その横の筋が「女街道」の入り口である。上州下仁田に通じる間道である。碓氷関所を避ける女人が通行した。上州姫街道ともいわれた。
街道に戻るとすぐに「脇本陣 江戸屋」の看板がある。江戸屋の子孫が「カフェ&ワイン」のお店をやっているのかもしれない。
「仁王門跡」や「思婦石」がある。(仁王門は元の神宮寺の入口にあり、元禄年間に再現されたが、明治維新の時に廃棄された。仁王さまは熊野神社の神楽殿に保存されている。)とあった。思婦石は日本武尊の故事をうたったもの。また「碓氷川水源地」の立札もあり、(明治天皇の御巡幸の際の御膳水となった名水である。)と記されていた。やがて土道は舗装路に変わりPM.3:30碓氷峠頂上に着いた。碓氷峠は標高1188mなので、今日は、約700m上がったことになる。
街道に戻り、しなの鉄道をくぐる地下道に突き当たる。地下道をくぐり右折して「御代田駅」に向かう。PM.2.41に到着する。
しなの鉄道に乗り、軽井沢駅に向かう。横川駅行きのバスに乗り横川に戻る。信越本線、上越新幹線、東海道新幹線、東海道線と乗り継ぎ、遅くなってしまったが藤枝駅に着いた、
「旧本陣」と書かれた表札の家が「土屋本陣」跡で、敷地内に「明治天皇追分行在所跡」碑がある。土屋市左衛門が代々勤め、問屋も兼ねた。その先には復元された「高札場」がある。
村はずれには大きな「馬頭観音」が祀られている。旧道は「追分そば」の所で国道18号線に合流する。蕎麦屋さんは古そうな構えで時間も11時35分だったので、昼食をと思って中に入ったが、待っている人が多く、あきらめてまた歩き出した。
しなの鉄道を湯の川橋梁でくぐり、国道18号線に突き当たると、左側に「沓掛宿碑」がある。
熊野神社の古鐘・鎌倉時代のもので、群馬県最古の鐘である。上信の国境であった熊野神社の鐘楼から時を告げていた。
駅前には大きな車輪が展示されている。(全国でも最大の難所と言われた信越本線 横川~軽井沢間のシェルパとして平成9年9月まで活躍した機関車の動輪である。)と書かれていた。所有者が「おぎのや」となっていた。
青松寺を過ぎると、国道18号線は右に大きく曲がるが、「これより碓氷峠」の標識から林道赤松沢線に入る。旧道は円柱タンクに沿う狭い舗装路を直進し、排水溝の蓋の上を歩く。突き当りを左折して草道を進む。しばらく歩くと「中山道」の標識があり、丸太階段を上がる。ガードレールの切れ目から国道18号線を横断して旧バス停「碓氷小屋」に出る。
PM.2:02 山中坂の案内板がある。(山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる旧坂を「山中坂」といい、「飯食い坂」ともいわれた。坂本宿から登って来た旅人は、手前の山中茶屋で飯を食って登った。山中茶屋の繁栄はこの坂にあった。)
道標の少し先の左側に「原村水神宮」がある。(昔は現在より東の原村にあった。坂本宿が整備される前は、原村には40戸余りの集落があり、生活用水として使っていた。この用水路の起点に清浄と安全と豊富を願って水神を祀った)と書かれていた。
「文久元年()1861和宮御降嫁に伴う調控より」と書かれた屋号一覧。
マムシソウ
廃止された線路跡
北国街道と中山道の追分に当たり宿名が生まれた。中山道の中で最も標高が高く、宿の雰囲気を色濃く残す。堀辰夫、立原道造など多くの文人の心のふるさととして愛されてきた。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒であった。
軽井沢西小学校の先に「追分の一里塚」がある。両塚を残しているが、南塚は復元したもの。江戸日本橋より39里目である。こぶしの木が植わっていた。
向かい側には、「長倉神社」がある。長倉の鎮守で、今日は、「祇園祭り」で、境内にはこれから担ぐであろう神輿が飾られ、相撲場では、子供相撲が行われていた。
前沢橋を渡り、しなの鉄道手前を左折した先に「宮ノ前一里塚」跡がある。沓掛宿が大火に見舞われ移転に伴い取り残されてしまった。江戸日本橋より38番目の一里塚である。
ヤブカンゾウ
旅籠つたや・明治11年に若山牧水はさびれた坂本に一軒だけ残るこの宿に泊まり「秋風や 碓氷の麓 荒れ寂し 坂本の宿の糸繰りの唄」と詠んだ。
武家門
東塚
西塚
西の家
AM.10時3分 「坂本宿0.5km、松井田宿7.8km」道標