御代田~望月
H.27.12.5~6
この辺りで、反対方向から来る30人位の集団に会った。どこかの旅行社のツアーらしくガイドさんが旗を持ち、説明をしていた。こういうのも楽でいいが、自分で探しながら、間違えながら歩くのも楽しい。
早朝、家を出て、東海道線、東海道新幹線、北陸新幹線を乗り継ぎ、軽井沢の駅に着いた。ここからしなの鉄道に乗り換え御代田に着いた。途中、雪をかぶった浅間山が窓から見えた。
その隣には「下の問屋跡」がある。代々尾台家が勤めた。現存の建物は明和9年(1772)の大火以降の建築。上問屋と半月交代で勤めた。切妻造り、屋根は元板葺石置、荷置き場と問屋場には、門の左右の建物を使用した。.
その隣に「問屋跡・安川家住宅」がある。上の問屋跡で、安川家が代々勤めた。天保2年(1831)築。
釣瓶沢の「水割り場石」と「木樋」(蓼科山の水源から水を引いた用水に設置されていた。全水量の九分を望月、布施に一分を五郎兵衛新田村に分けた。本桶は昭和18年に畳石用堰として布施村によって設置された。天然赤松を剥りぬいた見事な樋で、これによりはるか村まで水が運ばれた。 寄らなかったが、「五郎兵衛新田を潤す用水と掘貫」が今でも残っているそうです。
祝言道祖神(安曇地方で発生した道祖神で、宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である。安曇系は主尊が日本神話の神々で、着衣も神々の装束で造像されるのが通例であるが、この道祖神は宮廷貴族風精緻な造像である。安曇地方でも例が無く貴重な遺産である。)傍らに馬頭観音がある。
八幡入口バス停先を斜め右の旧道に入る。馬頭観音、石祠、地蔵尊などを見ながら歩くと、八幡西交差点で142号線に出る。
千曲川を中津橋歩道橋で渡る。石碑に塩名田節が刻まれている。(塩名田名所は千曲川、次に名所は滝の水、駒形様の厄落とし、涼味豊かな中津橋)全部見ました。
川沿いに「川魚料理・竹廻家」がある。川原宿は河畔の休茶屋として賑わった。佐久の名物鯉料理の店が今も数軒あり、その一軒である。ハヤの天丼が美味しいそうです。食べて見たかった。
塚原老人ホームの脇の路地を入っていくと右手に「妙楽寺」がある。(貞観8年(866)創建、信州五山の一寺で若い修行僧の学問寺であった。) その先に旧中山道道標(塩名田1.0km、岩村田3.4km)があり、斜め左の道に入る。
寺用水の升石(寺用水引き込みのために敷設された水量を定める升石である。開けられた穴の大きさが一合升の大きさでした。)
9:47に駅に着いて、歩きだした。前回の御代田の一里塚を過ぎてしなの鉄道を地下道でくぐったところに向かったが、どこだか分からなくなって、駅まで引き返した。駅前のお店で聞くと、「駅前の道を行くと中山道だよ。」と言うので歩いていくと突き当りに道標があり(左 追分4.0km、右塩名田11.3km)とあった。たぶん間違った道を歩いたと思う。
橋を渡り、坂を登っていくと右側に古い標識があり、斜め右の道に入る。開けた場所に「大日如来像」と「芭蕉句碑」がある。里人のやさしさが滲む御馬寄の石仏。御馬寄村は官牧望月の貢馬を寄せ集めた所を地名由来としている。塩名田の加宿として千曲川の渡しを勤めた。「涼しさや すぐに野松の枝のなり」芭蕉句碑 その先に「御馬寄の一里塚」跡がある。江戸より44里目である。
岩村田宿は内藤藩1万5千石の城下町なので、宿泊する諸大名はなく、本陣、脇本陣はない。旅籠は8軒と小宿であった。佐久甲州街道、下仁田街道、善光寺街道が交差するところから商人町として賑わった。宿長は九町三十間(約1036m)であった。
浅間山と御代田の駅
「駒つなぎ石」(望月宿は道幅が五間でその中央を川が流れていて、旅人や荷継の馬などに利用されていた。この石は馬や牛を止めるためのもので、馬には動かせないが、人が持てる重さになっている。)
八幡宿は、宿内の八幡神社に由来する。千曲川対岸の塩名田宿からの宿間は27町と中山道の中で一番短い。千曲川の川止めに備えて脇本陣が4軒あった。本陣1軒、旅籠3軒で、宿長は七町二十五間(約809m)であった。
「千曲川舟橋」(明治初年の水害で千曲川橋が落ちた。千曲川に9艘の舟を浮かべ、舟の上に板を敷いて人馬を渡した。その舟を繋いだ石が残っている。
駒形坂を下るが、小さな道標から斜め右の土道(駒形坂)に入る所が分からず、そのまま県道を歩いた。
昨日通った道を歩き、小海線中山道踏切までくる。踏切を渡ると、郷社若宮八幡大神社標がある。下仁田街道分去れ常夜燈が移設されている。その向こうに、たくさんの石塔が並んだ御嶽神社がある
宿を出て、小田井下宿バス停を過ぎると、「白山比咩神社(しらやまひめ)」がある。境内には、道祖神や石仏、石祠などが集められ、鳥居には、「国威宣揚」「武運長久」などど刻まれている。
その先に、「宝珠院」がある。永世年間(1504~21)の創建。茅葺屋根の鐘楼は安永8年(1779)、赤松は元禄3年(1690)の植樹。シダレ桜は樹齢300年である。
左側に「おはる地蔵」が祀られている。説明板によると(明治36年に生まれ、農民のために肥料造りなど多くの功績を残した安川はるを顕彰して建てられた。その前には、道路が不自然に広がっているところがあり、東枡形跡である。
「中山道長坂石仏群」「石塔・石仏群」「弁財天」など道祖神や馬頭観音が祀られている。
「中山道小田井宿跡標柱」がある。この辺りが西枡形跡で、小田井宿の京口(西口)であった。
石仏
舟繋ぎ石
野沢菜
小田井宿には、飯盛りがなく、婦女子の宿泊が多いところから「姫の宿」と呼ばれた。文化二年刊行の「木曽路名所図会」には「駅内弐町ばかり、多く農家にして、旅舎少なし、宿悪し。」と著わされ、ひなびた宿であった。本陣、1軒、脇本陣、1軒、旅籠、5軒で宿長は八町四十間(約945m)であった。江戸から数えて22番目の宿である。
その向こうに「重要文化財・真山家」がある。大和屋跡で、江戸中期、明和年間の真山(さなやま)家住宅。旅籠と問屋を兼ねていた。木戸が開いていたので、「見学できますか?」と声をかけると「できません。」と言う答えが帰って来た。住んでいるようです。2階が1階より突き出た出桁造りは再建以来(1532年再建)手が加えられていない。
祝言道祖神(レプリカ?)
八幡神社バス停のところが、八幡宿の江戸口(東口)で八幡寺宿標柱がある。
その先の左側には、「生井大神」と「馬頭観音が祀られている。生井(いくい)大神は井戸の守護神。馬頭観音は文政11年(1828)の建立。
丸山新左エ門本陣跡。(宝暦6年(1756)の再建。本棟造切妻で、鬼瓦には丸山の文字があしらわれている。問屋を兼ねていた。)丸山家には、宿場関係の資料が多数保存されている。
現大井屋、丸山信善兵衛本陣跡。延宝年間(1673~81)本陣を勤めた。
坂を下っていくと、塩名田交差点に出る。中北道標、道祖神があり、塩名田宿の江戸口(東口)である。
浅間山の前にあるのは、流れ山で2万4千年前に黒斑山で水蒸気爆発がおき岩屑が流れ下って誕生した。街道脇にはその塚原岩屑(がんせつ)の上に、水準点と御嶽碑、庚申塔がある。)
中部横断自動車道ガードをくぐり歩いていくと「百万遍供養塔」がある。並びの段上にはたくさんの石仏石塔が集められている。
その先の奥まったところに「荘山(かがりやま)稲荷社」がある。芭蕉句碑や道祖神がある。神社の前に紙が貼ってあり(当時の平塚は農業と養蚕が盛んであったので、その守護守神として祀られた。本殿が西を向いているのは珍しい。本殿には、「五穀養蚕豊穣」の棟札が納められている。)とあった。
左側に道祖神が2体あり、その向こうに曲口(しゃぐち)神社碑がある。ここから塩の道があったという。
相生町交差点で右折する。道標があり、「この先佐久甲州街道」と書かれていたが、見つけられなかった。信玄は佐久甲州街道分去れから信州に入ったという。 交差点の右側に「西宮神社」がある。福の神えびすを祀っている。鳥居のまえに3体の道祖神が祀られている。
その先に「日本一小さな酒造」と書かれた戸塚酒造がある。創業承応2年(1653)。銘酒「寒竹」の蔵元で、岩村田藩御用達であった。その先に「下仁田街道分去れ」があるはずだが、分からなかった。往時はここに常夜燈があったそうです。
今日の宿はこの近くだが、まだ早いので、街道を先に進むことにした。商店街を進むと、大きな提灯と数珠が下がっている。入っていくと「西念寺」がある。(永禄3年(1560)の創建で小諸藩初代藩主・仙石久秀の菩提寺である。後に岩村田藩内藤家の菩提寺となった。)
すぐ先の右側に「善光寺道道標」がある。小諸道分去れ「従是善光寺道」と書かれている。小諸で善光寺道に合流する。復元である。
中北道標(塩名田11.3km、追分4.0km)の所に6体の馬頭観音が祀られている。
芦田宿へ
時間通りに来たバスで、佐久平駅に着いた。大きな駅で驚きました。新幹線を乗り継いで、家に帰りました。 今回は相棒もいず、1人旅でしたが、何事もなく、きままに歩きを楽しめました。ところどころ、見逃して戻ったり、道が探せなかったりしたが、楽しい旅でした。4つの宿場を見ることができました。こじんまりした宿場が多く、街並みが残っているところ、亡くなってしまっているところもありましたが、ひなびた信濃路を歩くができました。次は和田峠が控えていますが。埼玉組が言っていたように、ここを飛ばして次に進み、春になったら和田峠を歩く予定です。
道なりに進み、御桐谷西交差点で左の坂に入る。中山道→に従って坂を上る。国道142号線のガードをくぐり、142号線に合流する。坂を上り石仏を過ぎると坂の頂上あたりになる。
大伴神社の道祖神
その向かいには「脇御本陣と書かれた「鷹野脇本陣」跡がある。問屋を兼ねた。平入り切妻造りで木鼻彫刻が施されている。木鼻とは、水平材が柱から付きだした部分をいい、彫刻を施したものを木鼻彫刻と言う。
資料館隣に「大森小児科医院」があり、大森本陣跡である。大森九左衛門が勤め名主・問屋を兼ねた。
その向かいには、「井出野屋旅館」がある。大正5年築の木造三階建。(犬上家一族の映画で使われた。)
落花生を行李に入れて売っているお店がある。話し好きのおばさんにつかまって次のお客さんが来るまで話し込んだ。千葉産の落花生を家で行っているということだった。
長坂橋を渡り、島田屋旅館を過ぎると中北道標があり、寛政4年建立の馬頭観音が祀られている。枡形を進むと望月宿に入る。
峠の先で、左側の急な坂道を下る。路傍に馬頭観音が2体祀られている。細い道を下っていくと広い道に出る。そこに「瓜生坂→」の道標がある。しばらく歩き、道標に従ってまた狭い坂道を下る。
坂の頂上には「中山道瓜生坂碑」が立っている。その傍らに、「百万遍念佛塔」もある。念佛塔は元文元年(1736)、石塔は享保2年(1717)の建立。瓜生坂は古代の東山道にあたり、遺跡も発見されている。
東の瓜生坂峠は、その先で甲州動が分かれており、北へ行くと、北国街道の田中宿があり、上田城下や祢津町陣屋に繋がっている。
「望月宿」と「望月城跡」の標識がある。矢印に従って金山坂を上る。「馬頭観音」の先に「瓜生坂の一里塚」がある。道路改修で一部削られているが、両塚を残している。江戸より45里目の一里塚である。
暫く142号線を歩くと中北道標(茂田井宿5.5km、笠取峠11.2km、塩名田4.1km)がある。百沢交差点を渡り、右側の旧道に入る。
八幡宿本陣跡(文化元年の建築の本陣門を残し、代々佐々木家が勤めた。幕末皇女和宮が宿泊し、下賜された品や貴重な資料が残されている。)
高良社(重要文化財)
八幡神社は、貞観8年(866)御牧の管理をしていた滋野貞秀の創建と言われる。旧本殿・高良社は延徳3年(1491)望月城主滋野光重により建立され渡来人を祀り、高麗社と言われる。
りっぱな彫刻
本殿
瑞垣門
随身門
八幡神社
佐久市役所浅科支所を過ぎると「観世音菩薩」の石塔がある頭部に梵字が刻まれている。文化5年(1808)の建立。
その先の左側に、「御井大神」の石碑がある。御井大神は井戸湧水の守護神。傍らに、道祖神が二基祀られている。 その先の右側には、「伊勢宮」があ.り、安政5年(1858)建立の御神燈、参道口には道祖神が祀られている。
舟橋
佐越・佐藤半左衛門住宅(天保2年(1831)の建築で、宿内最古の町屋。旧屋号は佐越九郎右衛門。古式の町屋の様式を伝えている。
「釜鳴屋 てっぱ茶屋}の看板
枡形跡
中北道標(塩名田2.2km、追分13.1km)の先の右側に諏訪神社がある。参道口に男女双体道祖神、境内に御嶽神社がある。
朝食をとり、もう一回温泉に浸かって、ホテルを出発した。交差点手前に昨日は気づかなかったが、「創業嘉永8年信州味噌 和泉蔵」がある。大きな味噌樽がいくつも並んでいた。
「佐久鯉発祥之宿、鯉料理宮中献上」の看板があった。
仙石久秀公の墓所
信玄公霊廟
その先にある住吉神社は岩村田宿の江戸口(東口)に位置している。境内のケヤキは樹齢400年で、裏は火災で焼け空洞になっている。また、境内には仏塔・石社などが並んで祀られている。
しばらく歩くと、石仏・石塔群があり、馬頭観音等が5体祀られている。その向こうに「岩村田を経て塩名田8.7km、追分6.6km」と書かれた中北道標があり、小田井南の交差点で県道9号線に入る。
その向かいには、「あめこばやし」の看板の出た小林製菓があったはずだが、もう店は閉めていて、看板も外されていた。
右側に「本陣跡・安川家住宅」がある。(現在その客室部を良好に残している。客室部は切妻造りで、宝暦6年に改築された。湯殿と厠は幕末の和宮降嫁の際に。修築された。厠は大用、小用とも二畳の畳敷きになっている。)
枡形の前の路地を入っていくと、「諏訪長倉神社」がある。境内のケヤキは御神木で樹齢200年。神馬舎の「藁馬」は毎年2月8日に子供たちが町内を曳きまわし無病息災を祈る「道祖神祭り」に使われる。2頭の大きな馬と仔馬も並んでいた。
坂を下っていくと、右側に「観音寺入口バス停」がある。14時35分のバスがあるのでこのバスで帰ることにした。坂の下を見ると、「にごり池」が見えた。今日は昼食を食べられなかったなーと思いながら、持っていたミカンやパンを食べてバスを待った。
その先の左側に「大伴神社」がある。急な石段を登っていくと、社殿があった。(本殿は景行天皇40年・古墳時代の鎮座と伝えられ、現本殿延宝5年(1677)の春日造りである。)この地を領した望月氏の庇護を受けた。御牧七郷の総社である。毎年八月十五日には勇壮な火祭り「榊祭り」が行われる。
佐久市立望月歴史民俗資料館は本陣跡に開館している。歴史的景観を損なわないように配慮された外観と内部は、江戸時代の解体民家の梁を使い、趣のある造りとなっている。
千曲バスのターミナルで前を歩いていた3人組と情報交換をする。埼玉から来た方で「、今日は芦田まで行くつもり。」と出かけて行った。私はバスの時刻表を眺め2時台のバスで帰りたいので、行けるところまで行ってバスに乗る予定で歩き始めた。
奈良・平安時代、この地には御牧(御料牧場)が置かれ、毎年旧歴8月15日の満月の日(望月)に朝廷に馬が献上されたのが地名になっている。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で宿長は六町余り(約655m)であった。
布施温泉入口交差点を渡り、県道150号に入る。中山道牧布施道標があり、中山道→がある。このあたりで、今日の朝から見え隠れしていた先行する3人組に追いついた。草付きの細い道を行くとまた、142号に出る。融雪基地を過ぎて、国道を渡る。
「中山道案内」の→で、右の坂を降りると、突き当りに「角屋」がある。木造三階建の元休茶屋である。明治30年代、塩名田は花街として活気を帯びていた。 (奥には、大ケヤキの根元の段丘崖から滝となって流れる湧水があり、瀧大明神の境内であった。十九夜塔や道祖神があり、明治40年頃の幕に「川原町道祖神」の文字と「芸妓屋7軒」の文字が染め抜かれている。)
塩名田宿は加宿御馬寄村と千曲川往還を確保し、継立を支障なく行うため、慶長2年(1602)の新設された。川止めに備え本陣は2軒あった。脇本陣2軒、旅籠7軒のひなびた宿であった。
細い道を歩いていくと、先ほど別れた県道に出る。道の反対側の小高いところに「駒形神社}がある。急な石段を登ると、重要文化財駒形神社の本殿がある。(本殿は文明18年(1486)の再建で、祭神は男女二神像で、「望月の牧の守護神」と言われる。源頼朝が騎乗のまま当社前を素通りしたところ落馬した。)本殿は室町後期の一間社流造になっている。
中北道標(塩名田3.6km、追分11.7km)のあたりにはリンコ畑が広がる。盆地の内陸性気候がリンコ栽培に適している。まさに浅間山の麓の風景が広がる。濁川を砂田橋で渡ったあたりに「平塚の一里塚」があったようだが、位置は不明。江戸から43里目である。
国道141号線を横切りしばらく行くと、砂田用水改修記念碑の奥に水神大神がある。その先の民家の所に天保9年(1838)建立の道祖神がある。
県道154号塩名田佐久線を歩いていくと、岩村田高校の向こうに大きな浅間山が見える。浅間総合病院を過ぎると、相生松と中北道標(塩名田4.3km、追分11.0km)がある。松は3代目で、男松女松の株が結びついためでたい松。ここで皇女和宮は野点を行った。ここを右折する。
2日目
3時過ぎに「佐久ホテル」に入る。いつもはビジネスホテルに泊まるが、この辺りには適当な宿が無くこのホテルになった。由緒のあるホテルの様で、泊まったことのある著名人の行灯が部屋の前にある。「藤村」「一茶」「牧水」等。お風呂も温泉で、夕食は豪華で「佐久鯉」の旨煮、南蛮漬けもでた。「中山道を歩いている。」と言うと、栄泉画の「岩村田宿」の道中図をいただいた。
交差点に戻り、直進すると、「王城公園」がある。この地で覇を唱えた大井氏宗家の居城。文明16年(1484)村上氏の攻撃により焼失し大井氏は滅亡した。 奥の方に大きなケヤキがそびえている(「王城のケヤキ」と呼ばれ、樹下に、氏神、道祖神、石尊山、不動尊、金毘羅の諸神を祀り、城跡は王城公園として市民に親しまれている。)
街道はここまでにして、岩村田交差点まで戻り、左折し、2本目の道を右折すると、佐久酒造協会の前庭に若山牧水の歌碑がある。「白珠の歯にしみとほる秋の夜の 酒はしずかに飲むべかりけり」牧水は酒が好きだったようです。
左側に少し入っていくと「龍雲寺」がある。武田信玄が永禄3年(1560)に中興の開祖・北高全祝禅師を迎えて興隆をはかった。伊那駒場で亡くなった信玄の遺骨を禅師が持ち帰り納めた霊廟がある。
その先の諏訪神社バス停裏の段の上に「千手観音、馬頭観音」などの石仏・石塔群がある。
県道9号線佐久軽井沢線を歩く。左側に「馬頭観音」が祀られ、更に行くと横根入口バス停の奥に「鵜縄沢端の一里塚」がある。(中山道開設当時に設置された一里塚。寛永12年(1635)に中山道の大改修が行われ、その際に街道の東に取り残されてしまった。東塚のみ現存している。江戸より42里目の一里塚である。)看板はあるが塚が見当たらないので、ちょうどラーメン屋さんから出てきた店員さんに聞くと店の裏の崖の上を指さした。草の生えた道を登って行くと一里塚の標柱が立っていた。
県道を行くと、右側に名残松と咬月原がある。(用明天皇の官女咬月が勅勘を受け佐久に流された。官女は小田井の原に白馬を引き出して、乗りまわしていた。天の竜馬だった白馬は、空へ駆け上がり、平尾山の山頂に立ち止まった。官女は「我は唯人ではない。白山大権現だ。」と言って光を放ち岩の中に入ってしまった。時々小田井の原に来て馬を乗りまわした。、跡には草が生えないところから「咬月の輪」と言われた。)名残松は虫に食われて茶色に枯れていた。
左側には、「脇本陣跡」の標柱がある。すはま屋又左衛門が勤めた。今は現存していないが、文久元年(1861)当時の屋敷図面を今に残し、間取りを窺い知ることができる。
筆塚、中北道標(塩名田10km 、追分5.3km)の所に「小田井宿跡入口」道標が立っている。ここが小田井宿の東口(江戸口」である。
高札場跡