浦和宿~鴻巣宿  H.27.3.21~22

浦和宿は、下宿(高砂)中宿(仲町)上宿(常盤)で構成され、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒でした。

浦和宿

その向こうには、「静岡茶」の看板も出ている「島村老沙茶舗」がある。嘉永七年(1854)創業の老舗で、前にいた店の方が「息子は静岡にお茶の修行に行ったことがある。」と言っていた。後ろに「お助け蔵」があるから見て行って。今日は開館日ではないが、人がいれば開けてくれる。」と言ってくれた。

早朝家を出て、東海道線、新幹線、高碕線と乗り継いで、浦和駅に午前8時45分に着いた。浦和駅西口交差点に出る。午前9時に中山道を歩き始める。

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠36軒。桶川宿は、大宮台地の中でも最も高い場所に位置する。

桶川宿

ガードを越えたあたりに、東大成の一里塚があったが、位置は不明です。日本橋より数えて八里目です。県道164号鴻巣桶川さいたま線を進むと、橋供養塔がある。

栄泉の描いた大宮宿は、この庚申塔を画面左に描いている。庚申塔には青面金剛と刻まれ、満開の桜の円形に富士山、その手前に秩父山地の武甲山を描いている。庚申塔の前には、農作業を終え、家路を急ぐ爺さんと孫娘を添えている。

この辺りには、栗原本陣、紀州鷹場本陣、高札場、山崎本陣、臼倉本陣などがあったはずだが、残っていないし、跡さえも判然としない。鷹場本陣の北沢稲荷が高島屋デパートの屋上に残っているそうです。

お助け蔵は、穀物問屋木嶋屋総本家島村家の天保七年(1836)築の木造三階建て土蔵。天保の大飢饉の救済のために建てたもの。

その先には、武村旅館がある。嘉永五年(1852)築、旅籠紙屋半次郎跡。明治になって武村家が板橋宿よりここに移り、旅籠を始めた。明治天皇巡幸の共をした山岡鉄舟が宿泊した。今も、ビジネス旅館として営業しているが、この建物は使っていないようです。

栄泉は桶川宿として、北に広がる広原の中の農家を描いている。農家の軒先には農婦が蓆の上で麦の穂を扱いでいる。

氷川鍬神社が左側にある。寛永九年(1632)創建の上尾宿の総鎮守、五穀豊穣を司る農耕の神として小さな鍬を祀っている。境内には二賢堂碑がある。菅原道真と朱子を祀る聚正義塾を山崎武平治が開いた。

さいたま市から上尾市栄町に入ると、馬喰新田バス停先の左側に青面金剛が刻まれた「不動尊道標」がある。寛政一二年(1800)建立。「是より秋葉へ壱里十二丁ひご方へ壱里八丁川越へ三里」と刻まれている。この先に川越道がある。

その先には、不動堂がある。堂の前には魂霊神があり、さいたまと上尾市の境である。中を覗くと「お不動様」が立っていた。

右側に、創業文政文化年間の吟醸造粕漬の老舗「河村屋」がある。店先には作りものの大根が干してある。お茶を御馳走になり、福神漬けを買い求めた。お茶請けは、お餅に福神漬けの汁にとろみをつけたものをかけたもので、美味しかった。最近店を新築したようで、右側には古い店が残っていた。そちらも風情のあるたたずまいだった。

小学校の先を左に入ると、川越道がある。宮原町から吉野町に入ると、「南方神社」がある。旧吉野村の鎮守で、五街道中細見独案内には、諏訪神社と記載され、地元では、「お諏訪さま」と呼ばれている。境内の手水鉢は文政一三年の建立。御柱祭にあわせて作ったものである。

その先の左側に、加茂神社がある。京の上加茂神社を勧進した神社で、加賀堀丹波守の妻女が産気づき、当社に祈願すると陣痛が始まり、国元で男子を出生したところから安産に御利益ありと言われる。  栄泉は上尾宿として加茂神社の幟旗加茂宮村の立場風景を描いている。賀茂神社は五穀豊穣の神である別雷神(わけいかずちのかみ)を祀っている。それを意識して画面手前に刈り取った稲の脱穀作業風景を描きこんでいる。

裏参道バス停の信号交差点右手に「官幣大社氷川神社」の社標が立っている。ここが氷川神社を経由した旧中山道口です。大宮の地名が生まれた氷川神社は、全国261社のうち9割近くが武蔵国にある。日本武尊が東征の際に戦勝を祈願した古社である。 参拝者が多く、お宮参りの親子の姿もあった。

矢部家の文庫蔵にある棟飾りは、「からす」と言われている。雷が多いところというので、避雷針か?と思っていたが、屋根の飾りだそうです。

道路元標の先に、玉蔵院がある。枝垂桜が1,2輪咲いていた。

金剛院

浅間神社

八幡神社

人形町に入ると雛人形点が軒を連ねる。「人形町」の説明板によると、(江戸時代は、上谷新田村と呼ばれた鴻巣宿の加宿で、旗本・藤堂家の知行地だった。農民は農閑期に雛人形・鴻巣雛を制作して売ることを生業としていた。雛人形の町として人形町となずけられた。)

その先の大雲寺には、本陣府川家歴代の墓がある。境内には、「女郎買い地蔵」がある。この地蔵さんは夜な夜な女郎を買いに出るため、背中に鎹を打ち込まれ鎖に繋がれたという。一番右の地蔵さんの背中にそのあとが残っていました。

次の桶川宿までは、三十四丁(約3.6km)で、県道164号鴻巣桶川さいたま線を真っ直ぐにひたすら歩きます。

神社の前に、「中山道上尾宿と本陣」のモニュメントがある。その説明によると、(鍬大神宮の前に本陣があり、その両脇に脇本陣が2軒ある。その右近くには問屋場があり、更に右に行くと両側に一里塚がある。鍬大神宮の右側には、もう一軒の脇本陣がある。本陣は林八郎右衛門、脇本陣は白石長左エ門、井上五郎衛門、細井弥一郎だった。)

愛宕から仲町に入ると上尾宿到着です。上尾は川越、岩槻の追分に当たり、二と七の日には市が立ち大変賑わった。 本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠41軒の宿並は安政七年(1860)の大火で焼失してしまった。 愛宕神社の先に、岩槻道、川越道の追分がある。そこに上尾の一里塚があったが今はない。江戸日本橋より9里目の一里塚だった。

上尾宿

宮原小学校の校庭には、樹齢120年のセンダンが聳えている。5~6月に淡紫色の五弁の花をつけ、10月には実を付ける。加茂学校開校当時、高知出身の先生が故郷から苗木を持ち帰り、移植したもので、樹高は15mある。

新大宮バイパス高架をくぐると右に「宮原村道路元標」があり、「ドイツ連邦共和国リュプケ大統領の宮原農協視察記念の植樹 昭和38年」と書かれていた。左には、馬頭観音と鍛冶屋の守護神が祀られている。

東北・上越新幹線・ニューシャトルのガード手前に東大成の庚申塔がある。赤鳥居の奥の猿田彦大神と書かれた祠の中に元禄十年(1697)建立の庚申塔がある。青面金剛・二鶏・三猿が陽刻されている。耳と眼の病に御利益があると記されている。

街道に戻り、保健センター入口交差点の先に供養塔と刻まれた地蔵尊があり、その先には、あらゆる生き物を供養する三界萬霊塔がある。両方ともお水とオハギが供えられていた。今日はお彼岸です。

この木も何の説明も書いてなかったが、立派な椎ノ木が2本あり、土手町の「椎木」と呼ばれ街道の目印だったようです。

吉敷交差点先、安田生命のところに、「塩地蔵尊・子育て地蔵尊」のモニュメントがある。(旅の途中病に倒れた父を救うため、二人の娘が地蔵のお告げに従い、塩絶ちをしたという伝説がある。) 路地を入ると、本物があった。明治のころまでは、線路の敷地内にあったが、大正10年ここに移転したそうです。

北浦和駅を左に見て先に進むと、廓信寺がある。参道入口には「紅赤の発祥地」の説明板がある。(江戸時代以来、サツマイモと言えば、「アカズル」「アオズル」という品種を持っていた。明治31年、山田いちは皮が薄紅色の八ツ房を作っていたが、突然変異で鮮やかな赤いイモができた。紅赤は関東一円に普及し、サツマイモの女王と言われた。最近はベニアズマにおされて振るわなくなった。)

その向かいには、皿に佃煮がきれいに盛られた漬物屋がある。奈良漬も美味しそうで、「刻み奈良漬」と「ごぼうの溜り漬」を買い求めた。 その先の右側に「中山道浦和宿」の碑が立っている。

左側の歩道に野口本陣跡碑がある。三木屋の向かいの路地を入ると「鴻巣御殿跡」があるというので、入って行ったが見つけることができず、鴻巣駅についてしまった。駅前には、「世界一四尺玉煙火筒」の碑が立っていた。

大火後、文化元年の記録によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠66軒。鴻巣宿は、慶長七年(1602)現在の北本市の本宿村の宿場をここに移したのが始まり。

鴻巣宿

会館を過ぎると、「是よりこうのす宿」の碑がある。ここは、鴻巣宿の東口(江戸)です。

御殿雛

鴻巣市産業観光館による。歴史的なお雛様がか飾られていた。京都伏見の人形師がここに住み着き、日光東照宮の造営に参加した彫刻師がここに定住したということです。

東和銀行の前に市神社跡の標柱がある。(毎月五と十の日に市が立ち、賑わった。稲荷神社に移され、八雲神社として祀られている。)と書かれていた。

中山道宿場館に立ち寄る。親切な館員がいろいろ説明をしてくれた。紅花の種をいただいたので、早速鉢に蒔いた。 その先には、「桶川宿碑」があった。

 

雛人形の広田屋さんにある長寿橋を渡る。(中国の天后寺にあるという長寿橋は、一度わたると一年寿命が延びるといわれている。)私たちも渡ったので、1年寿命が延びたでしょうか?

同じ敷地内に一級社天神社がある。岡野家が京の北野天満宮を勧進したもので、学問の神様を祀っている。

その先の右側に、多聞寺のムクロジが見えてくる。多聞寺は万治四年(1661)の創建で、本尊は毘沙門天。境内のムクロジは根回り7.5m、樹高27m、樹齢200年で、実の種は羽根つきの黒玉になる。境内の庚申塔は、文化十二年(1815)本宿の村人が建てたもの。

県道164号鴻巣桶川さいたま線の一本道をひたすら歩きます。桶川市北本市境を過ぎ、途中でガストにより昼食をとって休憩した。今日は気温が上がり、疲れやすい。

街道をそれて稲荷神社に行く。

この辺りには、笠武脇本陣、内田脇本陣、問屋場などが集まっていたが、今は残っていない。

花屋さんの横奥に府川本陣があり、再建された高麗門、冠木門がある。(この本陣は加賀前田家の宿舎とされたほか、水戸藩主徳川斉昭も利用した。皇女和宮が宿泊したことでも知られる。建坪207坪のうち、上段の間、次の間、湯殿などが現存している。)と書かれていた。個人の敷地になっていてほとんど公開はされていないそうです。門の脇には、明治天皇行在所の碑がある。 

小林家住宅主屋は、江戸時代末期に旅籠として建てられた。その後当主となった小林家は材木商を営み、それに伴い改築されたが、当時の旅籠のたたずまいを今に伝えている。

矢部家は、穀物問屋を営んでいた。また紅花も商っていて、桶川稲荷神社境内に残る、「紅花商人寄進の石灯籠」に刻まれた24人の紅花商人の中に名を連ねている。桶川宿に現存する土蔵造りの店蔵は、矢部家一軒となった。

向かいには、「べに花まんじゅう」の看板がある。昔、桶川宿で多く取引された中山道の小麦と桶川臙脂(えんじ)といわれた紅花を原料にしたおまんじゅう。店に入ると、5,6人の若くない女性が持ち寄りの朝食をとっていた。「朝早くからまんじゅうを作り、作業を終えて食事をしている」といっていた。昔懐かしい皮に包まれた漉し餡と粒餡のおまんじゅうだった。

浄念寺は天文十五年(1546)の創建、仁王鐘楼門は元禄十四年(1701)の再建、元禄元年鋳造の鐘は「時の鐘」だったが、戦時中供出されてしまった。

富士見通り先に、旧跡木戸址碑がある。皇女和宮の降嫁通行の際に設置された。自身番が詰め、半鐘があった。桶川宿の江戸口(南口)。桶川は紅花と藍の産地として栄えた。紅花は京に送られ、藍は武州藍と呼ばれ江戸に送られた。

今日の宿は「ルートイン・上尾」に予約してある。桶川駅から15分くらいと聞いていたので、街道に戻って駅に向かおうと思っていたが、さっきの女性が「ここから行った方が早いよ。」と教えてくれて、途中まで送ってくれた。ホテルについて、ほっとし、夕食を食べに出た。前に何軒かお店があり、その中のカフェに入ろうとしたら、もう閉店ということで、ほかのお店をのぞいていると。先ほどの店の方が来て、「簡単なものならできます。」ということで、美味しいパスタをいただいた。

その先の左に中山道標識があり、左折して路地に入る。散歩をしていた女性に諏訪雷電神社まで連れて行ってもらった。元禄十五年(1702)の勧進で、村の鎮守である。この辺りは落雷の多発地帯であるそうです。 お祭りのときには、桜がきれいだそうです。

北上尾駅を過ぎると、右側に須田家の黒い塀が見えてくる。須田家は武州紅花の栽培で財をなした旧家だったが、塀も傾いているし、中の屋敷も人が住んでいる気配がなかった。 せっかくの文化財がもったいないものです。

地下横断道交差点が上尾の京口である。解説板の瓦屋根には鐘馗様が載っているそうだが、見落とした。大火に見舞われた上尾宿の所々には鐘馗像が祀られているそうです。

聖徳太子像碑

上尾陸橋の手前に「中山道道標」が立っている。はじめて出てきた道標です。これからも何回かお目に掛ります。ここを過ぎると、火防の神を祀愛宕神社がある。参道口脇に、愛宕の庚申塔がある。享保7年(1722)の建立で、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。

しばらく古道を歩き、新道に出る。参道口の先に大宮の一里塚があったが、今は位置が不明です。鳥居の先に楢姫 稲荷がある。

鳥居の前に、「鯉平」という店があり、前に野菜が置いてある。「黄金かぶ」「菖蒲かぶ」などの珍しい野菜があり、「三神料理」の旗がひらめいている。中にはいって見た。中はレストランになっていて、「あなご天丼」を頼んだ。季節の野菜のサラダや漬物がバイキング形式で食べられるようになっている。アナゴは大きく、美味しかった。満腹です。

さいたま新都心駅を過ぎ、吉敷町にはいると、氷川神社の参道が現れる。武蔵国一宮です。参道口には、安政三年(1856)建立の常夜灯、一の鳥居がある。古くはこの参道が中山道だったが、現在は新道になっている。

大宮宿

与野駅東口交差点にはケヤキの古木があり、半里塚と言われていたそうだが、見つけられなかった。この辺りは、六国見と言われ、富士、浅間、甲斐、武蔵、日光、伊香保などが鮮やかに見えたそうです。その向こうに、松並木の跡に昭和42年に埼玉国体を祈念して植えられたケヤキ並木が続いている。

旧針かえ村(針ヶ谷)を越すと1714年建立の針ヶ谷の庚申堂があるはずだが、見つけることができなかった。 その先には、一本杉の碑がある。説明板によると(この地は、一本杉の仇討として語り継がれた事件のあった場所です。千葉周作の門弟・宮本佐内は同門の川西祐之介の腕を妬み、徒党を組んで勝負を挑んだが、討たれてしまった。佐内の息子・庫太郎はここで出家した佐内を仇討した。その際川西は微動だにせず、討つに任せたという。かっての杉は樹高約18m、周囲3mの大杉だった。)現在も杉は植えられている。

国道65号をさいたま幸手線を進み、国道463号線の高架をくぐった先で、京浜東北線を浦和橋で跨ぐと稲荷神社がある。この辺りに浦和の一里塚があったがはずだが、位置が不明です。

その先に成就院がある。真言宗豊山派の尼寺で、元禄年間の造立の六地蔵、延命地蔵、頭痛よけの観世音菩薩等がおられます。

その先には、慈恵稲荷神社があり、参道には、「二七の市場」碑がある。天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに際し、この地を占領した浅井長政が民心安定のため二と七の日に市を開かせたと云いう。この市は、月に6回開かれたところから六斎市と呼ばれ、賑わいは終戦まで続いたと記されていた。

市場通りを入っていくと、常磐公園がある。塀の案内板によると(慶長年間、徳川家康が民情視察を兼ねた鷹狩の際の休息、宿泊のために、この地に浦和御殿を建てた。明治26年には、浦和地方裁判所、検察庁が置かれた。昭和51年に常磐公園になった。常磐公園は、毎年「中山道浦和宿二七の市」の会場となっている。赤煉瓦の囲塀にその面影がしのばれる。)

先に進むと、市場通りの標識と歩道には、野菜を商う婦人の像がある。

仲町交差点を越すと「常盤」に入り、クリーニング屋さんを左折すると、仲町公園がある。ここが本陣跡である。説明板によると(当時の浦和宿には、本陣1、脇本陣3、旅籠15、商家200軒あまりあった。本陣は代々星野権兵衛家が勤めていた。加賀前田家や皇女和宮が浦和宿で休憩したと伝えられている。公園内にある、「明治天皇行在所」の石碑が面影を伝えている。本陣門は緑区大間木の大熊家に現存する。明治元年と三年の大宮氷川神社行幸に際してここが行在所になった。)

5分ほど行くと「鰻屋さん」がある。かって浦和一帯は沼地が多く、鰻が豊富で、名物だった。鰻のかば焼きは江戸時代からで、それまではぶつ切りだったそうです。

巣宿続きへ

享保雛

立派な枝垂桜

三菱マテリアルを過ぎると、歩道に「火の玉不動尊・お女郎地蔵」の二体が安置されている。右側が高台橋のお女郎地蔵で、悲恋の宿場女郎千鳥の伝承の地。(美しい旅籠の女郎が材木屋の若旦那と恋仲になったが、悪漢が横恋慕する。悪漢が旅籠に火をつけると脅したので、女郎は高台橋から身投げをしてしまう。数々の悪行を重ねた悪漢は、高台橋傍らの刑場の露と消えた。)左の火の玉不動は、ふわふわと飛び回り、人騒がせな火の玉を切ってみると、不動明王だったという話しが残っている。

総ケヤキの山門

地蔵菩薩を安置する地蔵堂

鴻巣駅前

真田小松姫の墓

仙石久秀の墓

真田重信、その室の墓(信之の三男)

人形塚

会館の隣に明治31年建造の蔵があり、「こうのす花火大会」の三尺玉が飾ってあった。

一里塚の先には、馬頭観音があります。そのまま線路沿いを進み、T字路に突き当たったら、右折し、第二中山道踏切で、高崎線を越え、旧道に合流する。北本市から鴻巣市に入ると、鴻巣宿加宿上谷新田碑がある。

しばらく歩くと、馬室原の一里塚(西塚)がある。江戸日本橋から数えて11里目である。塚の上には、小さな祠が祀られています。東塚は明治16年高崎線の敷設により消滅した。

八幡神社の奥に浅間神社が祀られている。その奥には金剛院がある。

この先直進する県道164号線は、旧中山道、左折し高崎線の左の筋は古中山道である。古中山道を歩くことにした。多聞寺交差点から3本目を左折する。次いで、その先の道を右折する。北本駅を通り埼玉りそな銀行の横を進み、JR高崎線の東間踏切を渡り、線路沿いを進みます。

その先に観音堂がある。ここの地蔵様にも体にお経のようなものを書いた紙が何枚も貼られている。後で聞いたところによると、「去年亡くなった人がいると、このようにする。」のだそうです。

大雲寺先に、一里塚碑があり、江戸より数えて十里目だが、見つけられなかった。桶川市役所交差点を渡ると、中山道桶川宿碑があり、ここが宿の上方(京)口で、往時は木戸があった。

稲荷神社は桶川郷の総鎮守で、拝殿前には、安政四年(1857)紅花商人24名の寄進による二基の石灯籠がある。

その先の観光トイレの前に、「お茶博士・辻村みちよ顕彰碑」がある。辻村は、緑茶の中にカテキンが含まれることを世界で初めて発見した研究者で、日本で初めての女性農学博士である。桶川で生まれ、学童期を過ごした。

不動堂の不動明王

2日目

梅の花が咲いている参道には「六地蔵」、その先には仁王門がある。境内には「小泉蘭斎の墓碑」と「板石塔婆」がある。

右・小泉蘭斎の墓、左・板塔婆

明治天皇行在所の碑

本町交差点を手前を左に入ると、勝願寺がある。浄土宗関東七大寺のひとつ。家康が深く帰依し、葵の紋瓦を許している。墓所には、関東郡代を勤めた伊那忠治親子、徳川四天王の1人、本多忠勝の娘で、家康の養女となり真田信之に嫁いだ小松姫、豊臣秀吉の家臣で後に家康に仕えた仙石久秀の墓がある。

今日は、朝から晴天でウオーキング日和です。ホテルを8時に出て、昨日の中山道道標まで戻り、8時30分に街道を歩き始めた。 しばらく歩くと、右側に明和六年(1769)建立の庚申供養塔がある。桶川市と上尾市の境を過ぎると、右側にお地蔵さんが祀られている。

栄泉は、遠景に噴煙をたなびかせる浅間山、街道の右手には名物の「焼米」を商った立場茶屋を描いている。

上尾駅を過ぎて、図書館西交差点角に、上尾の庚申塔がある。延享二年(1745)上尾上町講中の建立、青面金剛像、二鶏、三猿が陽刻されている。みかんが供えられていました。

武蔵国一宮鳥居前町として誕生。本陣1軒、脇本陣は五街道最多の9軒、旅籠25軒。鉄道の街として発展したため、街道の名残は少ない。古中山道は氷川神社の参道を通っていたが寛永5年(1628)道を西寄りに改め、新たに宿場が設けられた。

もう午後3時50分だったので、高崎線、新幹線、東海道線を乗り継いで、無事に藤枝に帰りました。今回も、たくさんの人に助けられ、楽しい旅でした。

午後1時、中山道北本宿の案内板に着いた。「中山道と本宿」には(鴻巣宿が成立するまで、ここが宿があった。本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋には、立場が置かれていた。)と書かれていた。

木のうろの中にお稲荷さんが祀られている。

境内にある「日本一の力石」この石は610kgある。岩槻の三ノ宮卯之助がこの石をもちあげた。

板石塔婆は主に緑泥片岩石製の塔婆で、死者の追善供養や、自らの極楽往生を願って造立された。

六地蔵の彫られた灯籠。