(陣屋とは、江戸時代に、城郭を構えない小大名や旗本などの領地内の居館、役所のことを言う。郡代や代官などの地方を管轄する役所も陣屋と言います。熊谷は当時忍藩に属していましたが、町方事務をとりしまるため、出張所をこの辺りに置いた。今でもここに通じる道を陣屋通りと言います。)
鴻巣~深谷
一里塚の向かい側には、「魔多利神石塔」がある。明治5年の建立で、天台宗の阿弥陀経及び念仏の守護神。
H.27.04.25~26
その先の右側には、氷川八幡神社がある。別名綱八幡とも呼ばれ、渡辺綱を祀る箕田郷27ヶ村の鎮守。境内には宝暦9年(1759)の箕田碑がある。江戸時代後期につくられた青石碑である。
「仲町会館建設記念碑」には、その名の由来や、会館のできた経緯などが書かれていた。傍らには、本陣に祀られていた猿田彦大神が祀られている。教えてくれた方は2人とも、この碑と混同したようです。
熊谷宿は、忍藩で、陣屋が置かれていた。秩父街道の追分や荒川の舟運を控え大いに賑わったが、飯盛りは近隣助郷の反対で置かれなかった。 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒。明治17年の大火、終戦の前日・昭和20年8月14日の空襲で宿並は灰塵に帰した。
雷電から加美に入ると、池本院があり、境内に、蘭渓堂碑がある。書道教育に尽力した蘭渓堂如水を讃えた碑である。鬼子母神堂もあった。
早朝、藤枝駅から東海道線、新幹線、高碕線を乗り継いで、午前8時52分に鴻巣駅に着いた。駅前には「中山道鴻巣宿」の道標があり、宿の案内板がある。(鴻巣宿は、1602年に本宿から移動して設置されたもので、江戸から12里8町(約48km)で8番目の宿として栄えた。本陣1軒、脇本陣2軒で、県内の9の宿の中で3番目の規模であった。)と書かれていた。
石原歩道橋で国道17号に合流する。少し先の石原一丁目歩道橋の右側の「かめのみち公園」に石碑が沢山立っている。「ちちぶ道」「観音巡礼道」「寶登山道」と書かれている。そばにあった「秩父道しるべ」によると(室町時代に始まった秩父札所の観音信仰は江戸時代になると盛んになり、最盛期には秩父盆地を訪れる人の数は数万人に達した。江戸からの順路のひとつとしてここ石原村で中山道から分かれる秩父道があった。分岐点を示す道しるべである。当時は東に50mのところにあったがここに移築された。)ここが分岐点というわけではないようです。
道はY字路になり右の方に進み、玉川堰幹線用水路(柿沼堀)を渡る。農業総合研究センターの先の旧道は国道17号で分断されているので、久保山歩道橋で国道を渡る。斜め右の県道264号線原郷熊谷線に入る。筋違橋バス停の所の流れは満水時、人足の川越が行われた玉川川越場跡である。(何の目印もない) すぐ右に「不動堂」があり、不動明王が安置されている。人間の持つ欲望や迷いを断ち切ってくれる仏様です。
その先の左側にある新照寺の山門前には文政12年(1829)建立の庚申塔、明和2年(1765)建立の青面金剛塔、享保6年(1721)造立の地蔵や馬頭観音、牛頭天王塔などの石仏石塔群がある。
その先の右側には、「大雷神社社標」が両側に立っている。その先の右側には「忍領石標」がある。案内板によると(「従是南忍領」と彫られた石標は、忍藩は他領との境を明らかにするため、藩内の16ヶ所に建てたものの一つ。明治維新で撤去されたが、昭和14年に発見され元の位置に戻され保存されることになった。)
熊谷警察署前交差点、石原北交差点を過ぎると、左側に「梅林堂」がある。熊谷名物「五家宝」や豆大福を買った。かわいらしい籠もあったので一閑張りに2個買い求めた。「五家宝」は五穀豊穣を祈願して名づけられた名前で、創業明和2年(1765)の老舗。・紅葉屋さんが有名。
熊谷寺を出ると、すぐ左手に「百貨店」がある。街道はこのデパートの中を通っていた。まだ9時前なので、開いていない。デパートの横を歩く東口と西口に「旧中山道」の碑があった。西口をでると「一番街商店街」が街道です。(熊谷宿は日本橋を出発して8番目の宿場となります。)と書かれていた。
(稲荷神を深く信仰していた直実公は、戦で数々の危機にあっても弥三左衛門という武士に助けられ武勲を挙げた。余りの不思議さにその素性を尋ねたところ「我は、汝が信ずるところの稲荷明神なり。」と言い忽然と姿を消した。帰陣後、熊谷寺境内に祠を設け、稲荷神を祀り、居城の鎮守とした。)
隣にある伊奈利神社(別名奴稲荷)を参拝していると、おじさんが「熊谷寺はもう何年も開門していない。」と教えてくれた「。昔は、善光寺のような仕掛けのある本堂があって入れたが、今は入れない。」といろいろなことを教えてくれた。
道の反対側の入ったところに「千形神社」があるというので行って見た。熊谷直実の父である直貞が熊退治をし、頭を埋め、血が流れたところに熊野権現を勧請したところから「血形神社」とも呼ばれた。境内の一部には「忍藩の陣屋跡」明治天皇の北陸東海巡行の際には、行在所になった。
武井本陣跡・敷地は1600坪あり、その奥行きは星川まで達していたが、建坪700坪の本陣は明治の大火と昭和の空襲で焼失してしまった。武井本陣最後の当主が建てた別邸・回遊式庭園があり、大黒柱は加藤清正の朝鮮土産という星渓園が残っている。皇女和宮が武井本陣に宿泊している。
熊谷市役所入口交差点を過ぎると「高城神社」の参道鳥居がある。熊谷直実の氏神様である。武蔵国大里郡の総鎮守。境内には天神社、紺屋が奉納した天保12年(1841)の建立の青銅製常夜灯や樹齢800年の大ケヤキがある。 星川沿いに江戸小紋で知られる染物屋が数十軒あった。今も数軒残っている。
小さな「久下権八公園」に熊谷堤碑と賽ノ神道標がある。その向こうに、また、「権八地蔵」があった。白井権八にちなむ地蔵で、元禄11年(1698)の造立。荊原の熊谷堤下と鴻巣宿の勝願寺に同種のものがある。 「賽ノ神道標」は、「右・熊谷道 左・松山道」と刻まれていて、公園より南に位置していた旧中山道と久下の渡しへの分岐に立てられていた。賽の神が奉じられており、基礎石には、猿が彫られている。
真っ直ぐに進むと、土手に出る。手前に「権八ものいひ地蔵」がある。(地蔵の前で白井権八は人を殺めて大金を奪う。権八は地蔵に「他言するな。」と言うと、地蔵は「わしは言わぬが、ぬしも言うな。」と答えた。権八はその後捕えられて、鈴ヶ森の刑場で、磔の刑に処せられた。)
前にある案内板によると(嵯峨天皇の流れを汲む源任(つこう)は、足立群箕田郷に土着し、箕田源氏の祖となった。任の孫である渡辺綱はこの地で生まれ、摂津の国・渡辺で養育されたことから渡辺を名乗った。武勇に優れ、源頼光の四天王の筆頭とよばれ、鬼や妖怪退治の様々な説話が伝えられる。箕田碑には、箕田源氏の伝承や渡辺綱の辞世、、この地が武蔵源氏発祥の地であることが記されている。)
本町に入ると、右側に飯島印刷所があり、飯島本陣跡である。宝暦2年(1753)~明治3年まで本陣を勤めた。上段の間、次の間、入側を残している。案内板によると(中山道筋の貴人の通行例は年間、泊り10件、休憩40件と少なく、本陣職の大半は、他に主たる職業を持っていた。飯島家は足掛け6代にわたってやむなく本陣職を続けざるを得なかった。)今日は日曜日ということで、閉まっていたが、平日に行けば見学できるのだろうか?和宮は、本陣で昼食を摂っている。
右側に、大谷邸がある。白壁の塀に門、シュロの木に洋館の邸宅がある。江戸時代からの豪商の家で、和洋折衷の建物。
深谷は、深谷城の城下町として栄えたが、江戸時代に入ると廃城になった。宿内には五と十の付く日に市が立ち、舟運の中瀬河岸を控え、商人町として発展し大いに賑わった。本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠80軒であった。 また、街道一の遊女の街と言われ、旅籠はそれぞれ2~3人の飯盛り女を抱えていて、天保14年の記録によると、宿内の人口が1928人で、男が896人、女が1033人だった。栄泉は深谷宿としてこれらの風俗を描いている。
原郷交差点には、見返りの松碑がある。松は植えられているが2代目で(平成18年2月に枯死のため伐採され、2代目の松を植えた。)と書かれていた。深谷の宿で一夜を共にした旅人が振り返り女との別れを惜しんだということです。
街道に戻り、原郷から常盤町に入ると、深谷市立幡羅中学校の前に名残の松を残している。ついで、銀杏並木になる。
街道からは外れるが、左奥にある国済寺に行って見る。寺の裏手には上杉謙英が築いた庁鼻和(こばなわ)城跡がある。
右側に愛宕神社がある。火防の神で、境内には芭蕉の句碑がある。 「冬枯れや 世は一色に 風の音」
県道264号弁財深谷線を行くと、深谷並木続く。江戸時代末期には、松と杉400本の並木道であった。 その先には両側に離れて御嶽神社がある。
300mの参道を歩いていくと、鳥居と本殿が現れた。天正年間この地に居城を構えた深谷上杉氏の家臣秋元景朝親子が碓氷峠の熊野神社を勧請したもの。境内には、樹齢350年の御神木・大ケヤキが聳えている。
東方2丁目交差点を越すと、右側に熊野大神社の参道鳥居がある。
奈良関幹線用水路を市右衛門橋で渡った先に、「明治天皇御小休所跡」碑がある。ここは籠原立場の志がらき茶屋本陣跡でもある。
熊谷寺・浄真宗蓮生山熊谷寺、熊谷直実は出家し蓮生と号しここに庵を結んだ。この草庵跡に幡随意上人が伽藍を建立したのがはじまり。直実の墓と言われる宝篋印塔がある。
松厳寺や八坂神社がある。この筋は熊谷寺の門前町を形成し、旅籠が軒を連ねていたという。向こうから「ゆうゆうバス 直実号」が走って来た。静岡の「家康号」と同じですね。
午前7時30分、熊谷駅に到着する。駅前には、熊谷直実の騎馬像が立っています。
入口にある庚申塔、仏像
成田山跡・対の石柱を残している不動跡「流灯会 今は昔の 不動様」のかるたが立っている。
この後、土手道を進むが、その後土手下の集落に向かってY字路右の坂を進む。右側に馬頭観世音も石碑がある。
昼食を食べ終わり、午後のウオーキングを再開する。第四中山道踏切を渡り、直ぐ左折し、NTT東日本脇を抜けるとY字路がある。この分岐に妙徳地蔵が祀られている。眼病に霊験あらたか。(ある娘が眼病を患うと夢枕に母からのお告げがあり六十六部となって旅立ち全快したものの盗賊に殺害されてしまった。無念から蛇になるも得道成仏し、妙徳地蔵尊として後世に仕えることを約したいう。)
その先に「中山道道標」がある。「中山道こうのすふきあげ」「京三条大橋へ121里32町」「熊谷宿へ2里22町」「江戸日本橋へ13里28町」「桶川宿へ3里13町」と書かれている。道標の矢印に従ってY字路を右県道365号線に吹上駅方面に入る。
「ここは前砂村」と書かれた標石が立っている。側面には、(池田栄泉の中山道・鴻巣吹上富士はこの辺りで描かれた。)と書かれている。
道路に埋もれた石碑
往時は吹張山平等院と呼ばれていた。平安中期に羅生門の鬼退治で有名な源頼光四天王の1人、渡辺綱が永延元年(987)に開基。本尊は戦いの際に兜の中にいただいた一寸八分の馬頭観音である。 参道には、庚申塔がある。
池本院の向かい側にある道標。この加美交差点から左の県道365号線に入る。JR高崎線の踏切を渡り、先のY字を右に進む。左は糠田川岸(荒川の渡し)を経て松山に至る松山道である。
その先の右側に白山神社がある。総本山は白山比咩神。境内には、寛文6年(1666)建立の庚申塔などの石仏石塔群がある。
境内には、樹齢500年以上の夫婦銀杏があり、参道脇には、「明治天皇鴻巣御昼食所址」の石碑が建っている。
右側には、地名の由来となった鴻神社がある。(境内の樹の神という大樹にコウノトリが巣を作り卵を産むと、大蛇が卵を狙い、コウノトリは大蛇を突き殺した。すると祟りが無くなり、社を鴻の宮と呼ぶようになった。)雷電社ほか三社を合祀し、鴻三社と呼ばれた。地名に雷電町の名が残る。
鴻巣駅入り口を過ぎると、左側に田沼家の蔵がある。この辺りが問屋場だった。明治初期の建物である。
街道に戻ると、「野口本陣跡」碑がある。隣の魚常のあたりには脇本陣があったようです。(鴻巣の地名は「国府の洲」や「高洲」、鴻の宮「鴻神社」のコウノトリ伝説に由来する。松山街道、日光裏街道の追分を控え、上市場、仲市場、下市場の三か所で毎月四と九の日に交代で市が立ち、賑わった。)
鼻の欠けた「奴稲荷大神」
前回見つけられなかった「鴻巣御殿跡」に行こうと、高札場があったという三木屋さんまで戻り、路地を入っていく。(入口に東照宮入口標石がある。家康が鷹狩の際に宿泊所を建て、秀忠、家光の三代が使用した。1691年に御殿地に東照宮を祀り、除地とした。)とある。探したが見つけることができない。近所に方に聞いたが、教えられたのは、移動された猿田彦大神の碑だった。
旧高柳村を過ぎ、玉井にはいると、右手に観音堂がある。あらゆる苦しみから救い出してくれる観世音菩薩を安置している。そばには、地蔵祠があり、三体の地蔵が建っている。入り口には、「庚申塔」や正徳3年(1713)建立の青面j金剛像などがある。
街道に戻ると、だいまさの前にでた。その先に唐沢川があり、行人橋石碑が川の脇に建っている。江戸時代には、唐沢川がたびたび氾濫して橋が流された。行人という僧が托鉢をしてこの石橋を架けたと刻まれている。この唐沢川の谷が深いことから深谷と呼ばれ、地名になった。
街道から少し離れたところに長福寺と東源寺がある。長福寺は、山門は立派だが、本堂は今風のコンクリート造りだった。東源寺は、山門前に明和5年(1768)建立の菊図(きくと)坊祖英塚「死ぬことを 知って死ぬ日や としのくれ」がある。
そのはす向かいには、米店だいまさがある。江戸時代から続く旧家で、奥の方には、2棟の蔵もあった。なまこ壁と二階の連子格子が昔をしのばせます。
国道17号線を原郷交差点で斜めに横断し、県道47号深谷東松山線に入る。あかね通り入口バス停先に天保10年(1840)建立の旧深谷宿常夜燈がある。ここが深谷宿の西口(江戸口)である。
札ノ辻・高札場跡、本陣を勤めた武井家の高札の一部が残っている。
その後、マンション手前から土手道を下りるのが街道だったのだが、県道257号線の高架付近までまで土手道を来てしまった。土手を下りて街道にもどる。
碑の後ろにある歩道橋で高崎線を跨ぎ、線路に沿って歩く。その先には、「猿田彦大神」の石碑が右側にあり中山道道標がある。榎戸村と書かれ、消防団が近いので、「火の用心」と書かれている。碑には(ここは旧榎戸村の上方。村は中山道に面して、東西5町、南北6町の小村だが、江戸時代、吹上、大芦村から糠田に至る八ヶ村へ田用水を供給する元荒川の「榎戸堰」があり風光明媚なところとして知られた。)
その先には、「東曜寺」がある。いぼ地蔵尊は宝暦年間の建立で、毎年8月に地蔵講例大祭が行われる。地蔵堂前の馬頭観音は、文政2年(1819)の建立。 その隣には吹上神社がある。日枝神社を勧進して、吹上の鎮守とした。
自転車に乗ったおじさんが「中山道はこっちだよ。」と言いながら通り過ぎた。角にラーメン屋さんがあったので入るとそのおじさんの店だった。普通のラーメンだった。
街道を左に進むと、左側にブロックに囲まれた「石塔」が二基並んでいる。正徳2年(1712)建立の庚申塔、青面金剛と三猿が陽刻されている。小さな方は、「岡像女之神」が祀られている。
永林寺を過ぎたあたりに、「箕田の一里塚」があったが、現在は位置不明。江戸日本橋より数えて12里目。光徳寺を過ぎると右側に箕田観音堂がある。
玉井から東方に入ると、寄進された赤鳥居が居並ぶ鬼林稲荷神社がある。中に入って日陰で休んだ。今日は日差しが強く夏の陽気です。隣の畑では、耕運機で耕していた。この辺りの名産・深谷ねぎを植えるのかもしれない。
その先で熊谷バイパスを玉井歩道橋で横断する。この辺りは旧高柳村で、熊谷と深谷の中間点にあたり、茶屋があった。付近には麦畑が広がり、風に揺らめいている。上ノ茶屋集会所脇に「地蔵尊」があり、地蔵菩薩が祠の中に安置されている。
本陣跡の道の反対側には「熊谷市道路元標」がある。
熊谷駅北口にある熊谷寺の本堂あたりにあった熊谷館で永治元年(1141)に生まれる。1184年、一の谷の合戦で平敦盛を討ち取るも、世の無常を悟る。1192年、久下直光との所領争いに敗れて出家し、京に上り、法然の弟子となる。1205年、熊谷に戻り、館跡に庵を結び、1208年、9月5日に死去した。後に幡随意上人が庵跡に熊谷寺(ゆうこくじ)を開基した。
深谷駅はレンガ造りの立派な駅です。深谷ねぎの「ふっかちゃん」に見送られて熊谷に電車で戻ります。
レンガタイル張りのマンションを右折し、秩父鉄道の踏切を渡り、上越新幹線のガードをくぐり、高崎線を第六中山道踏切で跨ぎ、銀座一丁目交差点を左折して、国道17号線に合流する。濃緑色の歩道橋が熊谷宿の起点である。4時半を過ぎ、もう深谷まで行くことは無理なので、高崎線に乗って深谷まで行き、駅前のルートイン・深谷駅前に泊まった。今日はお天気も良く、ウオーキング日和でしたが、また目標を達成できませんでした。
久間電気を右折し、元荒川を横断し、筒井宅を左折する。旅人を見守るお地蔵さんを過ぎると、街道は八丁から曙町にはいる。
熊久公園入口バス停を越して、熊久橋を渡る。 過ぎし世の 熊久橋(ゆうきゅう)や 左富士 このあたりが熊谷直実と久下直光の所領争いの境界であった。橋名は両者の一字をとったもの。東下りの左富士で知られていた。 この辺りの元荒川源流には、伏流水が湧き、ムサシトミヨという4㎝位の天然記念物の魚が生息している。
久下直光、重光親子の墓
また土手に出る。「久下の渡し冠水橋跡碑」がある。(渡し場には、久下新川河岸があり、舟運で栄え、昭和になると、木造の冠水橋が架橋され、平成15年その役目を終えた。)冠水橋は、幅2,7m、長さ28.4m、中央部には巾4,5mの待避所があり、4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た冠水橋で、その絵が描かれていた。久下冠水橋の橋桁で作ったベンチに座って休憩です。
民家の前に「中山道碑」がある。「此の街道旧中山道」と刻まれている。自転車を押した若い二人の女性が「こんなところにこんなものがあるなんて知らなかった。」と言いあって通り過ぎた。近所にあるものは案外知らないことが多いものです。
土手下のマンションの前に鳥居と小さな祠がある。ここが久下の一里塚である。日本橋より15里目の一里塚。その向こうに草原の中に天保12年建立の「馬頭観世音」がある。
土手上には決壊の碑がある。(昭和22年9月のカスリーン台風で、この地点の堤防が決壊し、付近一帯に甚大な被害を与えた。)
その後、熊谷堤の土手道を進む。熊谷堤は、天正2年(1574)針形城主北条氏邦が荒川の氾濫に備えて築いた。右側の下には、元荒川が流れている。寛永6年(1629)関東郡代伊奈忠治によって荒川が入間川に付け替えられるまで、荒川の本流であった。 正面には、榛名山、赤城山、浅間山が望めるとあるが、今日は春霞がかかって、何も見えない上に、強い風が吹いている。
吹上郵便局のはす向かいには、「中山道 間の宿」碑がある。吹上・間の宿の説明板がある。(吹上は間の宿として発展した。日光東照宮を警護する武士たちの「日光火の番道」と中山道が中山道で交差する事。鴻巣宿と熊谷宿の間が長かったので、「お休み本陣」や馬継ぎの「立場」を設置する必要があった。江戸以来、吹上の名物は、「忍のさし足袋」と「荒川の鰻」、「榎戸の目薬」であった。この場所は鉄道の開通によって中山道が分断された所です。)
地蔵堂を右に進み、県道307号福田鴻巣線に合流する。吹上駅前交差点を過ぎると明治37年建立の「軍馬頭尊」がある。その向かいの塀中に「明治天皇御駐輦碑」がある。酒亭香川の所、林茶屋本陣跡、明治11年、明治天皇は北陸東海巡行の際に、三条実美を伴いここで休憩した。
「忍領境界石標」があるはずと探すと、江原家門内にあった。失礼して中に入れてもらう。案内板には、(高札12枚・前砂村の高札場は、村の中ほど、中山道の北側にあった。旧名主の江原家には12枚の高札が保管されている。 「従是西忍領」の石標を隣接する中井村との境南側に立てた。)庭木に隠れてその石標が立っていた。高さ2mで、ここに移築されたものである
その先のY字路は箕田追分で、右は三ツ木,川面を経て忍(おし 行田市)や館林(群馬県)への道である。分岐には、「中山道文間延絵図」や箕田源氏ゆかり地の解説が書いてある。「彩の国さいたま平成の道標」がある。向かいには地蔵堂があり堂前には庚申塔がある。この追分には立場があり、立場茶屋冨士屋があった。
深谷駅前の「渋沢栄一像」(天保11年(1840)血洗村の農家に生まれる。慶応3年徳川慶喜の名代として徳川昭武に随行して渡欧し、明治元年に帰国し、大隈重信の勧めで、大蔵省に入るも、大久保利通と対立し辞職、我が国最初の銀行を設立した。以後は実業界で活躍した。)
もう午後2時をまわったので、今日はここで終わり、深谷駅に向かう。駅前で遅い昼食を摂り、ふっかちゃんに見送られて高崎線、新幹線、東海道線と乗り継いで藤枝に戻りました。今回は、花のきれいな季節ということで、いろいろな花に出会い、花の旅になりました。また、いろいろな出会いもあり、良い旅でした。籠も買えたし、楽しかった。
伊勢屋さん、藤橋藤三郎商店の煙突も煉瓦造りだった。
その向かい側には、「レンガ卯建の旧商家」がある。深谷には、明治20年に郷土の英雄・渋沢栄一が設立した日本で最初の機械式煉瓦製造工場があった。東京駅、迎賓館、東京都博物館、日本銀行旧館、深谷の駅などに使用された。深谷は江戸時代には瓦の名産地であり、この技術が煉瓦造りに活かされた。
唐沢川を行人橋で渡ると、稲荷町から本住町に入る。右側のきん藤旅館が脇本陣で、創始者の藤平が近江出身であったため、屋号を「近藤」とした。裏に「明治天皇小休所址」碑がある。碑は探せなかったが、店の前の柱に「明治天皇御休息の地」と書かれていた。
大谷邸
だいまさ
庚申塔
築山と土塁の跡
国済寺黒門
国済寺三門
上杉謙英公墓
その先に、「右なかぜみち」と刻まれた道標がある。舟運で賑わった利根川沿いの中瀬河岸に至る。
トキワマンサクの垣根
日本武尊が東征の折、「東の方は何れに当たるや」と尋ねたことが地名の由来となった。この辺りには「東方の一里塚」があり、ケヤキがあるということだが、どこか分からなかった。日本橋から数えて18里目です。
梅林堂の横を左に入る道が中山道で、以前には「旧中山道」の表示があったらしいが今はない。「新島の一里塚」があり、東塚を残している。折れたか切ったかした切株に新しい枝が出たという様子である(少し前の方の記録には茂った枝を持つケヤキの写真が載っている。)樹齢300年のケヤキだそうです。日本橋から数えて17里目の塚です。案内板によると(道中絵図には、新島の一里塚が描かれエノキ2本と記されているが、現存する木はケヤキです。)と記されていた。
明治天皇行在所跡碑
常夜燈
牡丹
久下から熊久に入ると、東竹院がある。久下次郎直光の創建で、久下一族の墓がある。本堂の屋根瓦には久下家の家紋「一番文字」があしらわれている。これは、源頼朝挙兵の時、一番に馳せ参じた功により賜った家紋です。
その先で、土手を下りる。民家の塀の上に「みかりや跡」の看板がある。(忍藩の殿様が鷹狩の際にここで休息したことから御狩屋と呼ばれた。しらがきごぼう、久下柚餅子、鮎うるかが名物であった。)通りかかったおじさんが、「子供の頃は、この絵のような藁ぶき屋根の立派な家だった。」と教えてくれた。名物は、ゆべし焼き餅 鮎うるか カッパの妙薬 みかりやさん
その先の左側には「前砂の一里塚」の標柱がある。日本橋より14里目。かってはこの辺りから富士山が望めたという。標柱はぼろぼろで、案内板は読めなかった。
その先の左側には、馬頭観世音が祀られている。街道は利根川の水を荒川に導いている武蔵水路を中宿橋で渡る。今は水路の工事をしていた。首都圏の水を確保するため、昭和40年完工、利根川から荒川に引き入れた全長14.5kmの水路。
宮前交差点を過ぎると、街道は県道76号鴻巣川島線になる。箕田小学校の向かいには、龍昌寺がある。永長2年(1097)の創建。1591年には、寺領五石の御朱印状を拝領し、末寺36ヶ寺を擁していた。
藤
鴻神社から左に入る道は、日光裏街道で、忍を経由して館林にでる道である。