津島〜佐屋
H.25.2.23
今日は、先日の続きで、津島からだが、甚目寺に行きたくて、JRで名古屋まで行き、名鉄に乗り換え、須ヶ口まで行き、津島線に乗り換えて、甚目寺で下りた。9時15分に駅に着いた、駅前には、「甚目寺町商工会」のアーチが掛かっている。
津島神社は、古くは津島牛頭天王社といい、現在でも、「津島さん」「天王さん」として崇敬されている。全国の天王社の総本社であり、約3000社の御分霊社がある。御祭神は、建速須左之男命である。正面に拝殿、その奥に回廊があり、そのまた奥に祭文殿、本殿がある配置になっている。 牛頭天王は、祇園精舎の守護神で、薬師如来の化身であり、スサノウノ命に垂迹したといわれ、除疫神として信仰されて来た。
境内の案内
休日切符 2600
青空フリー 2500
名古屋〜甚目寺230
甚目寺〜津 290
佐屋〜名古屋 440
計 6060円
県道を横断し、右手の道を入ると、信力寺がある。立派な門を入ると左手に、古いお墓があり、その前に一対の燈籠がある。これは、キリシタン燈籠と言われているようです。
追分の細い道を入っていくと、右側の道路の奥に十王堂が見えた。そのまた奥には、愛宕神社がある。京都の愛宕神社を勧進した神社で、この地区では、津島神社に次ぐ古い神社である・。
天王通りを歩いていくと、左側に、千体地蔵堂がある。(この千体仏は、円空の最盛期である、延宝年間の作である。21cmの地蔵菩薩を中心に5〜7cmの小仏千八体が光背の形に配置されている。小仏は地蔵様、烏天狗など、いくつかの形態が見られる。円空仏中で、完全な千体仏として残っているのは、ここだけである。残念ながら開いていなかった。8月24日にご開帳だそうです。
神社を出ると、右側に、「お旅所の大銀杏」と呼ばれる樹齢400年のいちょうの木がある。(この地は、昔天王川西堤防にあたり津島神社のお旅所があった場所である。雄のイチョウは実がならないので、大抵は切り倒されるが、この木は、お旅所境内にあったため、神木と崇められ今日まで残った。雄の木としては全国でも珍しい。)
津島神社楼門(東門)(重文) (この楼門は、豊臣秀吉が寄付したと言われている。朱塗りで門口3間、の一戸建ての入母屋造り屋根の形で、江戸時代の終わり頃までは、仏像が置かれていたといわれ、神社の敷地にあった神宮寺薬師如来を祀る寺の門でもあった。)門の前の清め橋を渡って、池を泳いできた若者が拝殿前に布鉾を奉納するのだ。
天王川公園の向かいには、掘田家住宅がある。「堀田家付近」の道標によると(堀田邸付近は、禰宜町で、江戸時代は中切といった。神宮の家屋敷が集っており、神社を含めて独立した島(天王島、向島)であった。江戸時代の町家を代表する堀田邸も県道が広くなったため、西北に移された。)
津島湊 (天王川の上流は、萩原川、渕高川と呼ばれ、約500年前、この辺りは、300mほどの広さの河幅であった。津島神社参詣の人々のため、天王橋が架けられ、その両側には、数十軒の町家が立ち並び、数千艘の出船入船で活気を呈した。商都津島を支配した勝幡城の織田家は、信定、信秀と勢力を伸ばし、信長は天下布武をとなえ、天下統一の基礎を築いた。天王川は天明5年、水害防止のため、ここで閉めきられ、埋立地に町が出来た。)
上街道を進むと、左側に堤下(とうげ)神社がある。説明板によると(もとは、金燈篭社と称し、天王川築留め以前は川を隔てて津島神社の遥拝所であった。現在津島神社に収蔵されている鉄燈篭があった。) 境内には井戸があり、堤下神社の井戸といわれ、御手洗いの井戸として使用された。また、付近の住人の生活水としても使用された。
その先には「橋詰三叉路」の木柱があった。説明によると(上街道下街道が交わったところで、これらの街道や巡街道から天王様詣りの人々で賑わう橋詰町の入り口であったため、大きなみちしるべが建てられた。格子のはいった家の町並みは数百年の昔の面影を残している。)
西国四十八ケ所札所巡道
本堂 平成4年に新築された。入母屋造りで、正面上部は千鳥破風、向拝部は唐破風となっている。三国伝来の聖観音を十一面観音の胎内仏として祀っている。
南大門(重文)は、柿葺、三間一戸楼門、入母屋造り。鎌倉時代初め、建久7年(1196年)の建築。聖観上人が寺の再興をはかったおり、源頼朝の命で、梶原景時が奉行をなり普請したもの。二王像は福島正則により寄進されたもの。
脱衣婆
5分ほど細い道を歩いていくと、甚目寺の東門が見えてきた。東門(重要文化財)は、銅板葺、四脚門、切妻造りで、室町時代、寛永11年(1634年)の建造。桃山時代の様式を残している。扉を設けていない。
上切の井戸 (津島地方は、木曽川の伏流水が多く、井戸に恵まれた土地であった。津島の古地図には、いくつかの町角に、辻井や井戸が記入されている。これらの井戸は、通称本抜井戸と呼ばれ、湧き井戸で、江戸時代には、近隣の共同の井戸であった。古書によると、津島天王祭の船や屋台を連結するのに使うわら縄を編む際の打ち水に使用したとの記録もある。花崗岩の立派な石組みをもった古井戸である。)
旧津島五ヶ村の今市場、筏場、下構、堤下、米之座から5艘のまきわら船が出され、屋台の上に半円・山型に365個(1年を表す)の提灯、中央に真柱を立て、12個(月を表す)の提灯を掲げる。これらの提灯に灯がつけられ、津島笛を奏でながら、漕ぎ渡る。 朝祭りには、津島5艘の祭船に、旧市江村の市江車を先頭に6艘の車楽船がでる。先頭の市江車から10人の鉾持が飛び込み、御旅所へ泳ぎ着き、神輿に拝礼し、神社まで走り、拝殿前に布鉾を奉納します。
畑にいた叔父さんに、道を聞く。「ここはもう、佐屋だよ。」と言われた。内佐屋交差点を教えてもらい、畑の中を歩くと、内佐屋交差点に出た。 この道は、かっての巡見街道で、津島を縦断してくる道である。 左に変電所が見えてくる。少し言った田んぼのあぜ道に「佐屋海道址」の石碑が建つ。
名鉄の線路を渡り、とにかく佐屋に向かって歩くと、由乃伎神社に出た。おばあさんが境内を掃除していた。
うだつ
十王堂、本尊閻魔大王、人間の死後、生前の行いにより裁判を受ける10人の王を奉り、往生安楽のご利益がある。三途の川で、衣服を剥ぎ取る脱衣婆も奉られている。
推古5年(597年)、伊勢はだめ村の漁夫、龍麿が江上庄の入り江で魚を採っていた所、網に聖観音像がかかった。彼は入り江にお堂を建てて、像を納めた。これが甚目寺の始まりであるといわれ、法隆寺や四天王寺に次ぐ、古刹である。聖観音は、釈尊の授記を受けて作られたもので、百済をへて日本に渡り、敏達14年(585年)に海中に投じられた。他の二尊もそれぞれ拾われ阿弥陀仏は善光寺に、勢至仏は大宰府の安楽寺にある。甚目寺の聖観音像は後に十一面観音の胎内仏となっている。尾張四観音の筆頭として栄えてきた。
浄法寺の隣には、天神社がある。14時過ぎたので、佐屋宿は次回歩くことにして、名鉄佐屋駅から名古屋に出て、JRで帰路に着いた。今回は街道がしっかり分かっていなかったので、何人もの人に聞いたりして、歩いたが、目指す物はしっかり見ることが出来たのが不思議だった。
その後、細い道を進むと、津島蟹江線(県道114号)に出る。この辺りで、また道に迷い、近くの交番で聞いたが、「名鉄尾西線に日比野駅のほうに行くと、佐屋のほうに行くには、道がない。」といわれ、佐屋方面に行く道を聞いて歩き始める。
その先に、常楽禅寺、右側には白山社が祀られていた。その先は、津島駅で、駅をくぐって向こう側に出た。東柳原交差点を右折し、津島市民病院を目指した。病院を見ながら南の方向へ歩くと、愛宕町に入る。 佐屋街道は、埋田の追分で姿を消すが、愛宕5丁目あたりから姿を現す。
天王通りに出ると、創業天明元年の角政というお店があり、「あかだ」「くつわ」というお菓子を売っている。あかだは、米の粉を湯で練って団子状にして胡麻油で揚げたもの。くつわは、米の粉に砂糖を混ぜ、団子生地にして、馬のくつわ型に成型して歩麻油で揚げたもの。おばさんが、「歩きながら食べて」とおまけをつけてくれた。ひどく硬いお菓子で、後日、歯の詰め物が欠けた。
橋詰三叉路まで戻り、左折すると、橋詰商店街に入る。右側に秋葉神社がある。そのまま進むと、天王川公園の北側に出た。天王川公園は、江戸時代まで町の中央を流れていた天王川が、市の西部に丸池として残り、公園として整備された。五月には、尾張津島藤祭り(観光センターのおじさんとは、私が藤枝から来たということで、藤の花で盛り上がった。)七月には、天王まつりの舞台となる。鳥居の傍に、天王川お旅所の標識があった。祭りの際、津島神社から天王様が神輿でお出ましになるところである。
少し先に、「本町筋」の道標がある。説明によると(本町3丁目から南への本町筋は、昔、坂口、高町、厨子、中島といって当時の様子を良く表していた。坂口から横町に曲がる南角には、辻番があり、付近には今も残っているおいしい清水がでた井戸があり、汲みに来る人で賑わった。高町は津島でも土地が高いので、この名前になった。厨子とその南の中島は昔「下村」といった。)などと地名の由来が書かれている。
1時間弱、見所の多い寺で過ごし、駅に戻り、津島線で、津島に向かった。「津島総合案内書」でマップを貰い、市内を歩き始める。
三重塔(重文) 本瓦葺 三間三重塔婆 高さ28mで、三重塔としては日本有数の高さを誇る。江戸時代の初め寛永4年(1623年)の建築で、名古屋の両替商吉田半次郎の寄進による。鎌倉時代の作といわれる木造愛染明王坐像は、高さ102cmの寄木造りで、腹部の空洞に高さ6cmの小像が納められている。塔の内部には、愛染明王の図が掛かっていた。
道を隔てて向こう側に、大徳院がある。本尊はえびす大黒で、左甚五郎作といわれている。境内には、願掛けえびす大黒があり、紫の紐を首にかけ願掛けし、女性はえびす様に、男性は大黒様に掛けると、願い事が成就するということで、私も100円で願掛けして見た。
その先の交差点の左右の道は、天王通りで、交差点の先に、津島市観光交流センターがある。立派な建物で、前は銀行だったそうで、今は「まつりの館 津島屋」と呼ばれる観光センターになっている。中で、祭りのビデオを見せていただいて、いろいろ説明してくださった。尾張津島天王祭の宵祭りで、使われるちょうちんが飾られている。
愛宕4丁目のバス停を過ぎると、(この辺りで道に迷った)が、右側に「愛宕追分」の道標を見つけることが出来た。(津島街道埋田追分から佐屋の渡しに向かう佐屋街道の途中、江戸時代終わり頃から往来が激しくなった旧蟹江街道との交差点がここである。少し前まで、ここに石の道標があった。蟹江より佐屋・津島神社への近道として書かれていたとも言われている。今では、埋田追分からの佐屋街道は耕地整理などで、ほとんど亡くなってしまったが、ここ愛宕には、一部残っている。)
隣にある仏様群
神社前には、樹齢600年のおおいちょうが枝を伸ばしている。
荒神かまどのある土間
大戸口を入ると、右手に「みせ」がある。その奥には。、一段と高くなった「みせ座敷」がある。
書院には、御殿飾りのお雛様が飾っていあった。
堀田家住宅は、江戸時代中期に建てられた。敷地面積は623坪、主屋と3棟の土蔵から成っている。切妻造重層桟瓦葺である。「うだつ」「忍び返し」を見ることが出来ます。
その先の左角に、「清正公遺〜」と書かれた石柱があり、そこを入っていくと、「上河原」と書かれた道標がある。(加藤清正がまだ虎之助と言っていた少年の頃、上河原の叔父の家にいたことがある。ある夜、強盗が押し入り、叔父夫婦を縛って、金目の物を探していた。虎之助は鬼の面を被って葛篭の中に隠れた。強盗が担ぎ出して、河原であけたところ、わっと飛び出した。強盗は一目散に逃げ出した。お目出度いことがあると、そのお面を被って、大江山酒天童子退治まねをして祝う「鬼まつり」をするようになった。 清正公社があり、その前には、地蔵堂があった。
旧上街道の道標が立ち、街道の説明が書いてある。(織田豊臣時代から、名古屋北西部から清洲甚目寺、木田、勝幡をへて津島に入る道です。特に130年前には、伊勢参りと共に、天王様へのお参り道として記録にも残されている。「津島参らねば、片詣り」といわれた時代の主な街道として、佐屋街道と共に大いに利用されていた。今の「本町通」の地名は当時栄えていた町並みであることを表している。)
三叉路の角に「右 津島神社参宮道」と書かれた石柱がある。
坂口町の井戸 この井戸は上切や堤下の井戸よりは新しいが、明らかに辻井の形態を残している花崗岩の方形石組みの井戸である。 坂口の番戸 井戸にて時を知る。(江戸時代の俳句)井戸の近くに辻番があり、水を汲みに来る人の話し声で夜明けの時を知ったという意味である。
十王堂を過ぎると、興善寺、その先に、貞寿寺、反対側に救津坊、今市場町2交差点を過ぎると、蓮慶寺、延命禅寺、妙延寺とお寺が続く。右側に、大玉社があった。道は狭くなり、三叉路になる。右の道を進む。左側の古い家は長珍酒造の看板が掛かっていた。。
釈迦堂 本尊 薬師如来
六角堂 本尊 地蔵菩薩 千体の地蔵様が奉られている。
明王堂 本尊 烏枢沙摩明王 下の病を治し、人に迷惑をかけずに済む仏様です。
漆部神社(ぬりべ) かっては甚目寺の鎮守社であったが、神仏分離により境内を分けた。漆、漆器の神社である。
秋葉堂 本尊 秋葉三尺坊大権現 秋葉様は火防守護のご利益がある。傍には、役の行者を祀っている。
その隣には、傾いた石の道標が建っている。この南大門前の道は、「津島上街道」とよばれる街道筋で、美濃〜漆部〜勝幡〜津島と通じていた。
門の前には、石の道標があり、よく読めないが、「左さ屋〜〜」「右つしま〜〜」と書かれている。
不動堂、本尊不動王 東海道36不動霊場の第5番札所で、(日本三不動のひとつ、重文の青不動の掛け軸がある。)青不動様は災難よけ、交通安全のご利益がある。
法華院の中のお堂
馬頭観世音菩薩