上野原~鳥沢
H.30.1.26~27
左側に木柱「大椚宿発祥の地」がある。大椚は間の宿であった。そばに安永6年(1777)建立の秋葉山常夜燈、文政2年(1819)建立の念仏供養塔がある。右手の草むらにはたくさんの石仏、石塔が並んでいる。
早朝家を出て、東海道線、新幹線、中央線と乗り継ぎ上野原駅で降りた。上野原駅は街道と離れていて、前回駅まで歩いたが下り坂なのに、30分もかかった。駅は崖の中ほどにあり、下まで降りるのに5階分のエレベーターに乗る。バスを探すと、そこのバスだとおじさんが教えてくれて、すぐ出発となった。新町停留所でおりて、9時50分に歩き始める。
今回は雪も予想していたが、いいお天気が続き、気持ちの良いウオーキングができました。アップダウンはあるものの、楽しく歩けました。多少道を間違えたり、見つけられなかったりしました。次回は駅も遠くなり、宿もどうなるかわからない地域に入ります。何とかなるでしょう。
その並びに「三島神社」がある。殿上村の産土神で、祭神は大山昨神(おおやまいくのかみ)御神体は衣冠の立像。境内にパトカーが止まっていて、拝殿の中は警察官や村の人でごった返していた。賽銭箱も取り払われていて、何か事件でもあったようだ。参拝をして早々に立ち去った。倉庫には立派な神輿がしまわれていた。
山梨中央自動車のところから斜め右の下り坂に入る。相模川水系の熊沢を宮田橋で渡る。左の崖の上に「駒橋発電所」が見える。その先に窓からキリンが顔を抱いた家がある。動物病院だった。発電所の送水管を左手に見る。
右側に「厄王大権現」がある。「駒橋宿」標識がある。社殿前には「平和祈願之石」が祀られている。(太平洋戦争.の大月大空襲で桂川に爆弾が落ちる。大石を吹き上げたが、厄王大権現の霊験によりその石は境内に落下し、住民に被害はなかった。)
駒橋宿には、強瀬、岩殿への桂川の渡船場があった。問屋1軒、旅籠4軒であった。
「満北亭」を右折するのだが、直進すると「三島神社」がある。大月の鎮守で境内には「大槻記念碑」がある。往時境内には大槻と呼ばれるケヤキがあったがこれが地名の由来となった。そのまま直進してしまい。「大月駅前」交差点に出る。駅に向かって右折し昨夜泊まった濱野屋の前を通り進む。
富士街道との追分を控え賑わった。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠2軒であった。
街道に戻り昇月橋、昭和橋を渡ってカネデンを左折する。新大月橋を渡り線路に沿って歩くと左側に「下花咲宿」標識がある。ここが下花咲の一里塚で、南塚が復元されている。江戸日本橋より24里目。並びに天保4年(1842)建立の芭蕉句碑「しばらくは花の上なる月夜かな」。徳本念仏塔、庚申塔、廿三夜塔、道祖神、馬頭観音等がある。
上花咲宿と合宿で問屋業務は月のうち下15日を勤めた。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒であった。
下花咲バス停の向かいに「星野本陣跡」がある。現在の建物は天保6年(1835)の火災で焼失した後に建てられたもので、国重要文化財になっている。星野家は本陣を勤め、庄屋、問屋、名主を兼ねた。多数の古文書を残している。建物の前には「明治天皇花咲御小休所」碑がある。明治13年天皇巡幸の際に休息所となった。
比較的大きな宿で芝居小屋などもあった。本陣1軒。脇本陣2軒問屋1軒、旅籠10軒であった。
坂を上っていくと右側に「白馬不動尊赤鳥居」がある。その横に白馬にまたがる「不動尊像」がある。ここは白瀧山白馬不動尊の参道口で、山中には不動院と白滝がある。(天平9年(737)夏から秋にかけて疱瘡が大流行し、時の天皇が神の啓示を仰ぐと、犬目の白馬不動尊を祈願せよとのお告げがあった。天皇の命により行基が滝に打たれ祈願すると、諸国の疱瘡が治まったという。)さらに進み、擁壁に「甲州古道」と書いてある古びた道標がある。それに従って右の草道を進む。ここが君恋坂旧道東口である。
先に進むと左の丘の上に鳥居が見える。祠内には小社が二社祀られている。荻野バス停を過ぎると中央自動車道沿いになり、その先で「矢坪橋」を跨ぐ。本日4本目の高速跨ぎである。橋先の右手に「大乗妙典日本廻国供養塔」がある。文化10年(1813)建立で、六部といわれる行者が全国66ケ國を巡礼し、一国一か所の霊場に法華経を一部づつ納めた達成記念碑である。
坂を上り、標識に従って右折すると「お玉ヶ井碑」がある。(旅籠恵比寿屋の女中お玉は恋が実ると、礼に水不足に悩む野田尻に住んだ水を噴出させた、お玉は竜の化身で長峰の竜神と呼ばれた。)
左手に大杉が見える。樹齢600年、樹高20mの立派な杉である。昔は境内にあった大椚が村の名前の由来となったが、残念ながら枯れてしまったそうです。石段を上ると「吾妻神社」がある。
橋を渡り突き当りを右折し、切通しを抜けると宿に到着する。右手民家の庭先に「牛頭観世音文字塔」が祀られている。宿の右手には「明治天皇御小休止碑」がある。宮田本陣跡である。
おじさんと別れて進むと民家の庭に「農輿 錬達道人遺跡」碑があり、その先の右側に「廿三夜塔」がある。寛政12年(1800)建立で、陰暦23日の夜、月待ちをする。その先の左の檀上に「念仏供養塔」が祀られている。
左側に文政5年(1822)建立の馬頭観音が祀られている。そばの民家の庭で切り干し大根を作って干していた。私が作るものより長く切って干していた。こんなに作っているのはどこかに出しているのか?冬の風物詩である。
右側に「若松屋脇本陣跡」がある。現ホテルルートインコート相模原湖で、「旅籠屋若松屋市兵衛」が皇女和宮降嫁の際に荷を扱いその際に屏風が下賜された。
この地は四方崖が多く、この崖の上の曠野であるところから「上の原」となった。郡内織の中心地であった。本陣1軒、脇本陣2軒、問屋2軒、旅籠20軒であった。明治と昭和の大火で宿並は焼失してしまった。
下初狩の地名は、「富士野の狩り」をこのあたりから始めたところによる。中初狩との合宿で、問屋業務は月の内16日から晦日まで勤めた。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠12軒であった。
奥脇本陣の隣に「廿三夜塔」がある。「下初狩中」と刻まれている。傍らに明治40年建立の常夜燈がある。 初狩駅前交差点を左折すると「初狩駅」がある。14時44分だったが、電車は14時40分に出たばかりで1時間待たないと来ない。もう一人大月に行きたい方がいて、大月からタクシーを呼んで大月に向かった。中央線の電車に乗り、新幹線、東海道線を乗り継いで藤枝に帰った。
ホテルの朝食をいただいて大月駅から電車に乗り、「鳥沢駅」で降りた。8時30分に歩き始める。
富浜駐在所を過ぎると右側高台に「福地八幡神社」がある。寛平年間(889~98)の創建で大木大明神とも称したが明治維新後に現社名に復し指定村社となった。その先の右側に大月市定天然記念物「コノテガシワ」がそびえている。葉はヒノキに似て表裏の区別なく、子供の手の平を立てたよう側立する巨木である」コノテガシワを過ぎると上鳥沢宿に入る。
中央自動車道をくぐり県道を下ると壇上に「石仏石塔群」が祀られている。その先で県道は国道20号のT字路に突き当り、右折する。下鳥沢宿に到着です。
県道をぐんぐん下ると右手の擁壁上に祠が見える。右の草道を上がると、石仏石塔が台上に並んでいる。さらに下り、右手のガードレールの切れ目から斜め右の原田旧道に入る。旧道は県道に合流する。その先には馬頭観音文字塔、竹林の前には地蔵尊が祀られ、かるさわ川を坂下坂で渡るとT字路に突き当る。その分岐に道祖神や供養塔がある。右手の沢脇に寒念仏供養塔が祀られている。
さらに下ると、正面に「君恋の一里塚」が見える。南塚を残している。南塚は杉、北塚は松であった。江戸日本橋より21里目。右の丘の上に山住神社がある。
右の擁壁上に「馬頭観音」が祀られている。この辺りに「犬目兵助」の墓があるということだったが見つけられなかった。右の民家の前に「牛頭観世音」文字塔がある。
右の奥にある「犬嶋神社」は野田尻宿の鎮守で、境内の神楽殿では村芝居が演じられた。野田尻宿碑の後ろの民家は旅籠大黒屋跡である。
先を進むと「これより 野田尻宿」の標識があり、「新栗原橋」で自動車道を渡る。
加藤家・問屋跡
右側の原自治会館の隣に道祖神が祀られている。突き当り右の下り坂に入り、進むと墓石があり、先のY字路を右に進む。
その先に西光寺がある。境内には御膳前水碑」がある。御膳水の字は山岡鉄舟が板に書いた字を石碑に写したものであるという。お寺の人が車から降りてきていろいろ話をしていると、沼津出身ということが分かり、話が弾んだ。どうしてお寺さんにお嫁に来たかという話も聞いて、私の高校の後輩であることも分かった。
都留川とも書かれた。鶴川宿は小宿であったが、「川留め」になると賑わい、鮎が名物であった。本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠8軒であった。この辺りには「鶴川の渡し」があった。甲州街道唯一の川越しの河川で、番屋役人より川越し人足のほうが怖かったという。団十郎一座は川に突き落とされたという。冬は仮橋が架けられた。広重は「鶴川の流れましかけ 橋を渡りて鶴川の駅 此川水増時留るという 絶景かな」と評している。
新町2丁目を過ぎると右側に「土蔵つくりの旧商家」がある。上野原は「酒饅頭」が有名で、何軒も営業している。少し大きめのお饅頭で、前回お土産に買った。
緩い下り坂を進み、中央自動車道に沿って進む。お天気が悪くなって雲空になり、急に寒くなった。相模湖17トンネルを過ぎると左側に「芭蕉句碑」がある。「古池や かわず飛び込む 水の音」東に濁り池、その北西に「殿の井戸」がある。並びに「長峰砦跡碑」がある。武田信玄は甲斐國の東口を北条の侵略から防衛するためこの地に長峰砦を築いた。
「大月の桃太郎伝説 百蔵山で実った桃が桂川を流れ、お婆さんに拾われ、桃太郎が生まれた。桃太郎は成人すると犬目で犬、鳥沢で雉、猿橋で猿を家来にして岩殿山の鬼を退治にやってきた。鬼が左手に持っていた石の杖を投げつけたところ、途中に落ちて地震を起こした。これが石動(振岡町強瀬)の地名の由来となった。地面に刺さった「鬼の杖」といわれる石も残っている。次に鬼が右手に持っていた杖を投げた。これが立石に残っている石である。鬼が岩殿山の東にある大洞岩に足を架けたところ桃太郎に退治された。今でも大洞岩周辺では退治された鬼の血や腸が固まってできた赤い土が出るといわれている。 猿橋には「桃太郎ここらで家来を連れにけん、犬目、鳥沢、猿橋の宿」という歌が残っている。」
猿橋は橋脚を使わず、両岸から張り出した四層のはね木で橋を支えている。猿橋の下は桂川の渓谷があり、桂川は笹子川を吸収して、相模川となり、馬入川となって相模湾に注いでいる。日本三大奇矯の一つ(錦帯橋、木曽の桟)現在の橋は嘉永4年(1851)の図面を元に昭和59年に復元されたもの。広重は「猿橋の向ふ茶屋にて昼喰、やまめの焼きびたし菜びたしなり」と寛いでいる。橋の北詰には芭蕉句碑「うき我を淋しがらせよかんこ鳥」南詰には「枯れ枝に鵜とまりけり秋の暮」がある。「明治天皇御召喚所碑」がある。依然来たことがあったが、秋の紅葉の季節でにぎわっていたが、今日は閑散としている。猿橋の向こうにある橋は「八ツ沢発電所施設一号水路橋」で桂川渓谷にかかり、長さ42,7mの鉄筋コンクリート造単アーチ橋で、建設当時は国内最大でした。国指定重要文化財に指定されている。
街道に戻り国道20号を歩く。この交差点あたりが猿橋宿の東口である。国道の左側に大小の馬頭観音が祀られている。宮下橋南詰交差点を過ぎると右側に「円行寺」がある。参道口に明治18年建立の「南無妙法蓮華経題目碑。文久2年(1862)建立の廿三夜塔、道祖神などが祀られている。
道の左側に「青面金剛庚申塔」がありその前に馬頭観音等が祀られている。その向かいの阿弥陀寺の参道口には名号碑の後ろに「殿上の一里塚」がある。両塚とも殿上村地内で、塚木は桃であった。江戸日本橋より23里目。名号碑には弾誓上人御蓄跡と刻まれている。阿弥陀寺は弾誓上人によって開山された。
宿並の右手に寛政5年(1793)建立の「秋葉山常夜燈」があり、隣に甲州特有の「丸石道祖神」が祀られている。国道20号に合流する。その先に門柱に「檀屋」を掲げる「旅籠檀屋」跡がある。
大月2丁目交差点で国道に合流し、しばらく歩くと左側に「明治天皇御召喚所跡碑」がある。溝口本陣跡で代々溝口五左衛門が勤めた。ここを右折するが直進すると橋の手前に「富士山道追分道標」がある。ここを左に行く道が富士講の行者が往来した富士山道である。文久2年(1862)建立の道標「右甲州道中 左ふじミち」並びに津島牛頭天王社、馬頭観音、文政13年(1830)建立の常夜燈がある。
その先の右の奥まったところに「稲村神社」がある。大同2年(807)の創建。下花咲村の鎮守。永代総代は本陣を勤めた星野家。信号大月インター入り口付近に道祖神があるはずだが、この付近は今工事中で何処かわからなかった。
花咲の由来-昔、桜の木があっれ枝葉が広がり、花が咲くと旅人が木陰に憩い、枝を折ってかざしたところから「花折」と呼び、これが地名となった。笹子川が桂川に合流する地で、両側に挟まれた「端の地」であるところからともいわれる。
西方寺橋を過ぎると上花咲宿に入る。下花咲宿と合宿で月のうち上15日を勤めた。本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠13軒であった。
右の奥に注連縄をかけた廿三夜塔があり、その向かいには石仏石塔群がある。旧道跡ではあるがこの先は行き止まりで、戻って街道を歩く。
中央自動車道高架を2回くぐると左側に「尾曽後峠標識」がある。ここは鎌倉街道口である。笹子川に注ぐ真木川を真木橋で渡り、下真木交差点のところに「親鸞上人太布名号碑」がある。歩道橋手前のを左に入る。真木旧道です。その後国道に合流する。
右手の石段を上ると「真木諏訪神社」がある。牧村の産土神。入母屋造りの本殿は文政10年(1827)再建。見事な彫刻は八王子の藤兵衛によるもので、大月市指定文化財。屋根は当初、檜皮葺であったが、現在は銅板葺である。
源氏橋で笹子川を渡る。笹子川は笹子山の南谷に源を発し、真木川を吸収して流末は桂川に落ち合う。橋を渡り右折して中央本線に沿って進む。甲州砕石鉱業所内のY字路を右に進むと「丸山の石仏石塔群」がある。丸山(権現山)の頂上には古峯神社が鎮座している。この辺りに丸山の一里塚があったようだが、不明です。JR中央線を第七踏切で渡り、国道に合流すると「聖護院道興歌碑」がある。文化3年(1806)建立の歌碑。「今はとてかすみをわけてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里」下初狩宿に入った。
寒場沢を渡ると、その先の右側に奥脇本陣跡がある。門構えを残している。「山本周五郎生誕地の碑」がある。山側にあった奥脇本陣の御堂屋敷の長屋で生まれ、その後寒場沢の土石流で長屋は流失し家族を失った。主屋は慶応年間の建築である。母屋の玄関には「みどう」の屋号が掲げられている。その向かいには「大野脇本陣跡」がある。
この辺りで道を見失い、宮谷橋を渡り左の道に入り、川沿いを歩いて宮谷入り口交差点で国道に合流した。タムラ自動車の向かいに「稲荷社」がある。七面大明神、常夜灯、南無妙法蓮華経題目碑がある。ここを左の坂に入りしばらく歩き国道に出て国道を横断する。「猿橋」標識を左に入る。
その先を右に入ると「西ノ宮神社」がある。社殿は朱塗りで、境内には石仏石塔が祀られている。その先で斜め右の道にはいると、右手竹林の台上に馬頭観音が祀られている。相模川水系の横吹沢を渡る。横吹団地入口バス停で国道20号に合流する。
駅を出て街道に戻り、しばらく歩くと左側に「旅籠叶屋跡」がある。多分この家だと写真を撮る。明治20年の建築で、「甲府商人定宿世話方」であった。その先の右側に「明治天皇駐地碑」がある。井上本陣跡である。
大月駅
大月駅前の「濱野屋」に泊まる。ほうとう定食で温まり、夜はテニスの大坂選手を応援した。「大坂選手おめでとう!!」
その先の右側に「上鳥沢の一里塚」がある。塚木は榎であった。江戸日本橋より22里目。4時30分になったので、宿を予約してある大月に行くため「鳥沢駅」から電車に乗って大月に向かった。
上鳥沢宿とは合宿で、毎月上15日の問屋業務は下鳥沢宿が勤めた。本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠11軒であった。宿並は明治39年の大火で焼失してしまった。
旧道は30号線に合流する。ここが君恋坂旧道西口である。宝暦11年(1761)建立の馬頭観音像が祀られている。上野原市から大月市に入る。
道路の反対側に「聖徳太子塔」が祀られている。弘化2年(1845)建立。斜め右の旧道に入る。立派な家があり、集落の西にあるところから屋号を「西」といった。大庭家は組頭、百姓代を勤めた。馬宿跡からは石畳の道になる。
草を踏みしめて歩いていくと、突然家が現れる。「君恋温泉」であるが、近年閉鎖されたようです。君恋坂は大和武尊が東国討伐の帰途、自ら海神のいけにえとなった弟橘姫(おとたちばな)を恋しく思い偲んだところに由来する。 旧道に突き当り左折して30号に合流する。その先の擁壁上に寛政10年(1798)建立の「白滝山不動明王塔」がある。
宿はずれに「岡部本陣跡」があるが、場所がよくわからない。突き当りを右折すると「宝勝寺」がある。境内には一石から彫られた「犬目時慈母観音像」がそびえている。葛飾北斎「富嶽六景甲州犬目峠」や歌川広重「不二三十六景犬目峠の富士」はこの辺りから写生したものであるという。「本堂に仏像があるのでお参りしてください。」と書いてあったので本堂でお参りをした。雲が多かったがかろうじて富士山が見えた。
宿碑の先の左側に「犬目兵助生家跡」がある。(天保4年(1833)の飢饉が癒えぬまま天保7年(1836)の大飢饉となり、餓死者が続出した。犬目兵助は甲州一揆を主謀し、維新後まで逃げ切った。兵助は家族に類が及ぶのを避けるため、「書置きのこと」や妻への「離縁状」をしたためた。これらが残っている。兵助のその後は定かではないが、この地に戻ってひっそり暮らしたともいわれている。)生家の右手に「明治天皇御小休止址碑」がある。上条盛富本陣跡である。上条家が務めた。
「この地極めて高きところにて、房総の海、富士の展望奇絶たる所」と言われた。本陣2軒、問屋1軒、旅籠15軒。宿並は昭和45年の大火で焼失してしまった。
下り坂を進むと、県道30号大月上野原線に合流する。安達野分岐である。この分岐には「これより甲州街道犬目宿」の標識や安達野バス停があり、左の道下には棚田の景色が望める。今は何も植わっていない。
右手に「旧甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家」の表札を掲げた旧家がある。当家は代々米山伊左ヱ門を名乗り、尾張藩主の定宿を務め、庄屋を兼ねた。その先の右手に「庚申供養塔」と「念仏石経塔」が並んでいる。集落のはずれには、擁壁上に寛政元年(1789)建立の庚申塔と馬頭観音像が祀られている。
先に進むと「座頭転がし」標識がある。深い谷を挟んだヘアーピンカーブの山道をこう呼びます。先導者の鈴音を頼りに進んできた盲人たちが、屈曲した山道を先に回りきってしまった先導者の鈴音のほうに進み、谷底に転がってしまったという。右手の崖の上の木のそばに「天王様」が祀られている。 やがて蛇木新田の舗装路に出る。蛇木新田は甲州道中開設に伴い開設された集落である。
雑木林を抜けると右手に「青面金剛像庚申塔」が祀られている。県道30号線に沿った擁壁の中腹に残された旧道を進む。右手に「矢坪金毘羅神社参道」標柱がある。
渡ると土道になり、土道を進むと県道30号線大月上野原線に突き当たり、右折する。すぐ先の右手に「嶽大先達白倉宝行碑」がある。富士講の修験者を統率する行者を讃えたものである。その先の擁壁上に「萩野の一里塚跡」がある。両塚とも野田尻宿地内で塚木は松であった。江戸日本橋より20里目である。
お寺の奥さんに見送られて、右の北久保旧道に入る。右手に石仏石塔群が祀られている。地蔵尊、庚申塔、馬頭観音等が並んでいる。左手にある「長久保橋」で中央自動車道を跨ぐ。ここには「旧甲州街道 大月・甲府方面」の道標がある。橋は石畳風になっている。
野田尻宿は鶴川が川留めになると大いに賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠9軒、宿並は明治19年の大火で焼失してしまった。
右手には「大椚観音堂」があり、中に「大日如来座像」「千手観音菩薩坐像」が安置されている。石仏・石塔が無数にあり、おじさんが調べていたが、盗まれていないか確かめていたのかも知れない。
緩い坂を上ると左手に「大椚一里塚」がある。江戸日本橋より19里目である。そばに説明版によると(上野原地区には4ヶ所の一里塚があった。現在その場所は残されていないが鶴川宿から大椚集落に入る手前の両側にあった。自動車道の建設により現在の場所に一里塚跡を建設した。)散歩をしていたおじさんもそのように説明してくれた。
中央自動車道に突き当り、右折し自動車道沿いを歩く。「鳶ヶ崎橋」で自動車道を渡る。
道があっているかどうかわからないまま坂を上っていくと「これより鶴川宿」の標識があり、安心する。
右手の川端家は柏屋脇本陣跡で、問屋を兼ねた。隣が旅籠澤田屋跡で、玄関屋根の瓦に澤田屋の屋号を掲げている。向かい側の加藤家は問屋跡である。
左側に「萬霊塔」があり、急な石段を登ったところに「牛頭天王社」がある。(寛文元年(1661)創建。旧鶴川村の鎮守。境内には宿並にあった「駒つなぎ石」がある。
歩道橋を渡り、標識・野田尻方面に下り、坂を下りる。「甲州街道案内図」がある。その先で左側の「旧道痕跡」の細い土道に入る。舗装路を越えて細い道を下りる。流末は桂川に落ち合う鶴川を鶴川橋で渡る。右側に「鶴川宿碑」と公園がある。
上野原本町歩道橋を「大月・甲府方面」の標識に従って左折する。しばらく歩くと「木食白道上人加持水井碑」がある。(文政10年(1827)建立の井戸跡碑。原集落に井戸がなく、不自由であったが、上人が加持を行い井戸を掘りあてた。)その先の左側に「大乗妙典廻国供養塔」がある。(文政10年(1827)の建立で、六十六部達成の記念碑である。)
その先を右に少し入ると「上野原宿本陣跡」がある。門を残している。明治天皇の行在所となった。街道に戻りしばらく行き、右に入ると奥に上野原小学校がある。その校庭に推定樹齢800年以上の大ケヤキがある。樹高28m、樹回り10,2m。門が閉まっていたので、遠くから眺める。
下鳥沢宿とは合宿で、毎月下15日の問屋業務を勤めた。本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠13軒であった。
2日目
旅籠澤田屋跡