4日目

10:48の「中国高速鉄道」でトルファンから柳園に移動します。駅ではパスポートチェック、荷物検査があり、時間が来るまで、ホームには入れません。切符には座席番号と名前まで入っています。全席指定ですが、同じ値段で立ち席の売っているようで、デッキで座り込んでいる人たちは、駅で降りる人がいると、空いた席に座りました。

20世紀初頭、イギリスのオーレン・スタインフランスのポール・ぺリオらが、莫高窟を調査し、壁画の写真と共に、おびただしい数の経巻、文書、絹本画をヨーロッパにもたらしたことで、莫高窟は一躍脚光を浴びることになった。1900年に、第16窟の甬道(主室に入る通路)北壁から偶然発掘された小窟に蔵されていたものである。数万点に上る経巻類が封じ込められていたことから「蔵経洞」(第17窟)と名つけられ、そこから出た写経類は、「敦煌文書」「敦煌写本」「敦煌遺書」と呼ばれるようになった。この石窟発見の立役者は、王圓籙という道教僧である。この話を耳に入れたオーレン・スタインは、僅かなお金で数千点もの文書や絵画を手にいれ、大英博物館で公開され、大きな反響を得ることになる。1908年に敦煌を訪れたぺリオは、古文書を読むことができたため、史料価値の高いものを選りすぐり、6千点余りを買い取った。後に日本の大谷探検隊も数百点、ロシア隊は一万点ほどの文書を入手した。アメリカのラングドン・ウォーナーは蔵経洞以外から壁画や塑像を一部剥ぎ取って、自国に持ち帰った。 敦煌には、一般公開されていない区画がある。北区には248の窟がある。元代に開かれた5つの窟を除いて、壁画や仏像が無く、簡単な洞窟がハチの巣状に並んでいるだけである。北区は僧侶の修行の場である禅窟や僧侶の生活の場である僧坊窟、亡くなった人のための遺窟などが集まっていることが分かった。

玉門関

柳園南站

莫高窟

5日目

吐魯番北站

西域に通じる関門だった玉門関は、古来より、攻防の地として詩によく詠まれている。唐代の詩人李白は、「漢は下る白登の道 胡はうかがう青海の湾 由来征戦の地 見ず人の還るあるを」と詠じている。王之渙は「春風は玉門関に渡らず」と詠んでいる。

どちらの駅も町からはずいぶん離れていました。車窓からはゴビ灘の荒涼とした景色が続き、15:00まで、4時間もかかりました。お弁当を食べ、日本から持ってきたカップラーメンにお湯を入れ、食べました。(車両に、給湯器がある。)各車両ごとに女性の乗務員がいて、駅が近づくと、大きな声で報せたり、乗客にいろいろ注意をしたりする。

この砂山には、木の階段が途中までついていて、私達のグルーでは4,5人の人が上ったらしい。一番早い人で15分かかったそうです。帰りはお尻の下にそりのようなものを敷き、滑って降りたそうです。でも見える頂上の向こうにもっと高いところがあって、向こう側を見たいと思って登った人は「くたびれもうけだった。」と言っていた。

玉門関に向かう途中、敦煌の南東郊外の砂漠の中に「敦煌城」が現れる。日本と中国の合作で製作された映画「敦煌」の実物大の城や街並み、城壁をはじめとする広大なセットが残っている。この映画を私も見たが、現在でも映画のロケに使われているそうです。実際の敦煌故城遺址は市内に跡を残している。   玉門関は、唐と漢時代に造られたが、現在残っているのは唐代のもの。漢の武帝が河西回廊を防衛する為に長城を建設し、その最西端の建造された。西域交通で、北ルートを通ると玉門関、南ルートを通ると陽関を通過していた。宋代になると西域交通が衰え、衰退した。関のなかでは、シルクと玉が交換された。

夕食は、名物の「黄麺」でしたが、油っこかった。夜は、「敦煌舞踊ショー」を鑑賞する。行かない方たちは、夜店に行きました。日本にも来た「千手観音」の舞踊や、舞踊と雑技を織り交ぜたきれいな舞踊ショーでした。10:00過ぎにホテルに戻りました。

鳴沙山の東壁に、4世紀半ばある僧が夕日を浴びて輝く千仏の威厳を感じ石窟を築き、修行したのがはじまりとされている。その後、元代にいたる約1000年間、石窟は掘り続けられ、約1000の石窟があったとされるが、現在は492の石窟が残されている。

敦煌は甘粛省のゴビ灘に浮かぶオアシス都市で、昔は沙州と呼ばれていた。は「大きな」、は「盛ん」の意味。紀元前111年に漢の武帝が置いた四郡(敦煌、武威、酒泉、張掖)のひとつで、チベット系の吐番、タングート系の西夏、トルコ系のウイグルなどの国が支配した時代もあった。各民族の文化が融合したおかげで豊かなシルクロード文化が花開いた。その代表が中国三大石窟のひとつ莫高窟である。(山西省大同の雲崗石窟、河南省洛陽の龍門石窟)沙漠の大画廊と形容されるように壁画がよく残されている石窟が連なり、各時代の仏教美術様式を知ることができます。

敦煌賓館の前で

鳴沙山(めいさざん)と月牙山(げっかせん)

6日目へ

鳴沙山は敦煌の南約5kmのところにあり、東西40km、南北20kmにわたる広大な砂の山。月牙泉は鳴沙山の谷間に湧き出た泉で三日月(中国語で月牙)をしている。往きはカートに乗り、帰りは駱駝に乗って帰って来た。この山の砂は粒子が細かく、少しの風でさらさらと音を出して砂が動くので、鳴砂山と言われる。

柳園の駅からバスに乗り、敦煌に向けて2時間30分走ります。途中の道路わきには、所々に写真のような「ハミウリ売り」が並ぶ。ハミウリを薄く切って干しています。乾燥しているので、早く乾いて乾燥果実になる。  柳園の駅でモハメドさんと別れ、張さん(女性)が出迎えてくれた。

何もないゴビ灘で写真を撮ろうというTDの提案で各々ポーズをとる。建設中の高速道を横目に見て道なき道をガタガタ走る。前の車が砂に車輪をとられているのを見てルートを変えるとこちらのバスも動かなくなってしまった。全員でバスを降り、車体を軽くして、やっと抜け出す。前のバスが建設中の高速に入ったので、こちらも入ると、やっぱり先で出られなかったようで引き返してくる。私達も引き返し、なんとか無事に敦煌の街に着きました。

窟内は撮影禁止です。96、217、148、244、249、61,62,63、328、16,17と敦さんの説明を聞きながら観てまわりました。(写真集より)

莫高窟のシンボル「九層楼

まず、映像館で、3Dの映像を見て勉強してから本物の見学に向かいます。

敦煌に戻り、レストランで食事をして、9:30にホテルに入った。

私達は時間も短かったので、月牙泉のほうに行った。昔はこの2倍くらいあったそうですが、今は水が減ってしまった。通行止めで周囲をぐるっと回れなかったので、三日月の形を確認することはできなかった。

彩色塑像

第249窟 西魏

第61窟 五代

第148窟 初唐

第96窟 初唐

第17窟 晩唐 (蔵経洞)高僧と近事女

第328窟 盛唐

窟頂