柔遠門

ずっと続く城壁

7日目

鐘鼓楼

柔遠楼は西門ともいわれ、楼の下は柔遠門高さが17mで、建物の色彩が美しい。

6日目

7:15にホテルをでて、嘉峪関(かよくかん)に12:30頃到着する。

嘉峪関は、甘粛省嘉峪関市にある万里長城最西部にある関である。山海関と共に万里長城の要衝であった。渤海湾にはじまり約6000kmにも及ぶ万里長城の最西端の砦がそびえている。砂漠にそびえる3層の城楼は南方の吐蕃(チベット)の侵入を防ぐため、明代、常勝将軍と呼ばれた憑勝将軍によって建てられた。当時は400人の兵士が常駐していた。1372年に建造されたので、シルクロードの交易が盛んだった漢や唐の時代にはなかった関である。

嘉峪関

周囲733mを鷹さ11mの城壁で囲まれ、内域は33550㎡以上ある。 黄土を版築でつき固めた城壁であり、東西それぞれに楼閣とおう城を持つ城門を備えている。

細切れの牛肉とパクチ、好みでラー油を入れたラーメンに酢を入れていただく。当地では、朝食に食べるそうだ。殆んどが回族が経営しているがこの店は漢族だそうだ。日本人の好む味で美味しかった。

蘭州名物「牛肉ラーメン」屋さん。この後本当の夕食があるので、味見程度に食べるようにと言われたが完食してしまった。

蘭州の黄河で一番上流に架かっている黄河第一橋(中山橋)のライトアップ

 東閘門のところまで公園を横切ってカートで移動する。東閘門は、関城に出入りする主要な通路。門の高さ4.2m、広さ3.8m、深さ10.6mで、すべて長方形の石と煉瓦で造られた。壁には36本の方形木材の柱がはめ込まれ、門の天井に方形木材の棚がかけられた。ゲートの上には閘門楼が造られた。

玄奘三蔵は、当初、旅のルートとして天山北路を選んだ。哈蜜(はみ)に滞在中に高昌国の国王・麹文泰は国に立ち寄ってもらおうと駿馬数十頭をそろえて使者を哈蜜に向かわせた。三蔵はルートを天山南路に変えた。短期間の滞在でインドに出かけたい三蔵、高昌国に滞在させておきたい国王は、「インドに向かうなら長安に強制送還する。」と脅かした。三蔵は断食をして対抗する。国王は三蔵の意志の強いことを知り、インドに送り出した。多くの贈り物や途中の24か国の国王宛ての紹介状や贈り物を持たせた。クチャから北上し、塩水渓谷をながめ、キジル千仏洞の脇を西に向かいアクスに至ったと思われる。アクスからは天山山脈に向かいぺデル峠を通って中央アジアに入ったというのが通説になっている。

今回は、新疆ウイグル自治区のウルムチから東にシルクロードをたどり、蘭州までの旅でした。高速鉄道に乗り、高速道路を走り、モーターボートに乗り、バスに揺られた旅でした。 

7:20にホテルを出て、10:00に蘭州の空港から北京に飛び、12:15から17:00まで、空港で過ごし、21:00に中部国際空港に着いた。時間通りに着いたので、バスで浜松西まで行き、車で家に帰ったのは日付けが変わっていました。

8日目

白塔山公園に着いた時は、すっかり暗くなっていた。白塔山は黄河の北岸に位置する山で、標高は約1700m。頂上に建つ高さ17mの白塔はチベットからチンギス・ハンのもとに遣わされた僧がここで病死して、その供養のために建てられた。山肌にはいくつもの楼閣が建っている。ロープウエイで上までいけるそうです。

4時間以上かかって蘭州の街に帰って来た。蘭州は甘粛省最大の街で、かっては金城と呼ばれた。古来より交通の要衝として栄え、河西回廊を西へ向かうシルクロード・ルートと青海方面に向かうチベット・ルートはここで分岐している。市街地は標高1500mあり、南北を高い山に囲まれ、黄河が西から東に流れている。蘭州の町は黄河に沿って東西に長く延びている。

劉家峡ダム・チベット高原に源を発し、松蕃の大湿地帯を抜け、青海省から急流となり、かけ下って来た黄河は、劉家峡でダムに出会う。劉家峡の標高は2000mである。昔はダムの上を歩けたようだが、今は禁止されているそうです。

高さ27mの唐代の大仏は、第171石窟にあり、宗、元、明、清の各時代に修復が行なわれた。上半身は山肌を直接彫りこんだ石像で、下半身は土を固めた塑像になっている。以前は7層の楼閣に覆われていたが、戦乱より失われた。2012年に修復が終わり、綺麗になっていた。壊れた右手はそのままになっている。

酒泉南站に着き、高速鉄道に乗り込む。約4時間かかり、蘭州の駅に着いた。渋滞もありホテルに入ったのは22:20だった。前の日は豪雨だったそうで、まだ少し雨がぱらついていた。

これまで、毎日食べていたハミウリ哈蜜の特産品である。原産地はアフリカで、名前の由来は二つある。一つの説は、哈蜜王が清朝の皇帝に贈ったと言う説。もう一つは、西域で収穫され哈蜜で集荷されたため集荷地に因んで付けられた。、

酒泉駅に向かう途中、酒泉の町中にある鐘鼓楼による。と言ってもバスを降り、写真をとってバスに乗るまで5分とういう早業でした。  酒泉は砂漠と山に囲まれ、シルクロードの難所であった。北方騎馬民族、匈奴と戦う拠点でもあった。鐘鼓楼は五胡十六国の時代(4世紀)に建立された。磚(せん)造りの台座に木造三層の楼閣が建ち、東西南北の4面には方向を示す文字が掲げられている。西側の額には「西達伊呉」(西は哈蜜(はみ)に通じる。)と刻まれている。1905年に修復された。

門を出て、カートで城壁の外部を通って帰る予定が道が通行できなくなっていて、また、内部の道を戻った。

会極門は、西部から来た大名や商人などがここで出会い、ここを経由して中原の皇居に行くという意味合い。この門は南向きで柔遠門とつながらないので、防衛ラインになっている。敷かれた石畳には馬車の轍がついている。

壁の縁に一個の煉瓦が置いてある。説明によると「易開占」という技術力の高い師匠がいた。彼は詳しく調査し、細かく計算して精密な材料使用料を計算した。嘉峪関が出来上がった時、一個の煉瓦が残った。人びとは苦労した職人たちの功績を讃えるため、「会扱門」楼に展示した。ガイドさんの話だと、皇帝が一個余分に混ぜて困らせた。ということだった。

会極門楼は南向きで会極門の上に造られている。門楼は回廊式で、通路は門楼前の廊下を通す。

南敵楼は城の外に出っ張った建物で、軍事的な防衛と攻撃の役割があり、兵士たちがパトロール時に休憩したり、兵器を置いたりする場所。

角楼(ものみの塔)は、城壁の内部の四隅に建てられた。軍人が歩哨にたっていたところである。煉瓦で造られ2階建てである。

光化楼は、東楼ともいわれている。階下では光化門が造られている。高さ17mで、3階3軒式である。

城壁の階段を登り、城壁の上に出る。階段の横には、「馬道」がある。馬道は城壁沿いに23度の坂を登り壁のトップまで行く。馬道が敵が侵攻する場合に、石、木、滑車などの武器をその勢いで落とし、敵の侵入を防ぐ。現在は観光客のため階段を敷いた。昔は階段が無かったようです。

撃石雀鳴・この広場に大きな石がある。ガイドの説明によると「城に仲の良い夫婦の燕が住んでいた。ある日一緒に食べ物を探しに行き、夕方城の門が閉まる前に帰って来た。メスの燕はお城の中に入ったが、オスの燕は門にぶつかって死んでしまった。メスは毎日悲しんでいて、とうとう死んでしまった。その後ここで燕の鳴き声がするようになった。人びとは門を出る時この石を叩き、燕の鳴き声がしたら無事に還れると安心した。」説明板には「壁を叩く」とあったが、ガイドは石を叩いていた。どっちが正しいのだろう。

朝宗門は城門の上に「朝宗」と彫られているのでこの名がついた。「朝宗」とは「朝廷のために働いて、皇帝に尽くす」と言う意味。この門は南向きで、光華門と直接つながらないので、町の道路を複雑にして、防衛ラインになっている。

光化門は、門の上に「光化門」と彫られている。玄関は長さが22.69m、幅は4.15m、高さが6.46mで、床が長い石が敷かれている。光化門の前に立って、「門の中の楼」の風景画見える。

戯台は、3つの部屋を並列し、2つの部屋を縦列する。清王朝の1972年に再建された。真ん中の屏風に「八仙図」が描かれている。

文昌閣は、明王朝時代に造られ、文昌殿ともいわれる。再建されたのは、清王朝の1822年である。二階二軒式の建物で、二階の内外には80以上の風景画がある。

中国人のガイドさんは、敦煌の遺跡から持って行ったものを返してほしい。と言っていたが、仏教遺跡は回教徒によって壊されたりするし、文化大革命で壊されたものもあるという。大切に保存してくれるところにある方が人類にとっては良いことかもしれません。今回はみて見たかった敦煌を見ることができましたが、全部見られたわけではないので、心残りでした。

一番若いT君と中国語ペラペラの添乗Sさん。

険しい谷を刻んだ黄土高原をバスは走る。ナツメの木が植わり、トウモロコシの畑が広がる。

石窟を後にしてボートで対岸に戻る。このダムができたため、住民は上の方に移住させられた。この山の上の方に住んでいる。

第16窟にあった北魏の涅槃仏。ダムで沈んだ石窟にあったもの。

132窟だけは5人しか入れないので、順番に中にはいって丁さんの説明を聞いた。 北魏時代の石窟で、中には仏像、涅槃像、壁画が残されていた。

ガイドの丁さん。分かりやすく説明をしてくれた。

船上レストランで食事をして、観光を始める。周囲には奇岩がそびえる。

8:00にホテルを出て、バスに揺られ、湖のボート乗り場に着いたのは13:00を過ぎていた。ボートで湖を渡り、「炳霊寺(へいれい)石窟」を見学する。蘭州の南西約100kmにある石窟群で、黄河北壁に長さ約2km、上下4層にわたって大小183の石窟が彫られている。3分の2は唐代のもので、最も古いものは西秦時代のもの。石窟の中には仏像や壁画が残っている。

ナツメ売り

長く伸びた城壁。万里の長城は嘉峪関の南、北大河の絶壁で途絶える。ここにある墩(物見台)が長城の最西端である。

馬道で下におりる。

南達都望

西達伊呉

浚渫船