5日目
アンマン AM.9:00〜ペトラ PM.6:30
マダバ アンマンの南30KMにある小さな町。ビザンチン帝国支配下で繁栄を極めた。モザイク職人の養成所があり、「モザイクの町」とも呼ばれている。
町のおみやげ物屋さん 色彩豊かな織物 陶磁器 金銀製品 砂絵のボトルなどを売っている。
聖ジョージ教会
観光地にはこのような兵隊さんが銃をもって警戒している。本当は写真は禁止なのだが、OKを貰って写真に収めた。一緒に撮ってもらったものもあります。
世界で最も低い位置、海抜下400Mにある湖は、十字軍時代のヨーロッパ人に「死海」と呼ばれるようになった。約1020平方頃キロの湖で、塩分濃度は30%で、美肌、皮膚病に効果のあるといわれるミネラル分を多く含む。生物の生息には麩抜き名環境である。また、海抜の低さゆえ、世界一酸素濃度が高く、心拍数が自然に減少し、いるだけで自然に体が休まるのだそうだ。
エルサレムの町の様子。城壁に囲まれて、中央に列柱がありローマ風なのが分かる。エルサレムはその当時はアエリア・カビトリーナと呼ばれていた。
モーゼも見た「約束の地」が眼下に広がるはずだったが、霞んで見えない。 ヨルダン渓谷、死海、「カナンの地」パレスチナまで見えるという。
死海
2000年に旅した人のHPには教会内部が写っている。前面改築する必要があったのだろうか?
教皇ヨハネ・パウロ2世が2000年に訪れた記念碑
標高802Mのネボ山の展望台
聖書にあるモーゼ終焉の地がマダバの西約10KMにある。「旧約聖書」によると、唯一絶対神であるヤハウェが、死を目前にしたモーゼに対して、この山に登り、ユダヤ人の「約束の地」を一目見るように促した。 モーゼの死を後世に伝える十字架や、埋葬されたとされる場所には修道院が建てられていた。 60年に及ぶ発掘調査により、バリシカ様式の6世紀ころの(ビザンチン時代)の教会跡や修道院の建物跡が発見された。
ネボ山
アラブの人達の服装。今は普通の服を着ている人が多いが、このように黒や白の長い服に頭には白や白赤チェックのスカーフを丸い輪で止めている。(コフィーヤ) 女性は スカーフを被っているが、顔を全部出した人、目だけを出した人、顔がすっぽり隠れた人などいろいろで、何にもしていない人もいました。いずれも写真を撮るのははばかれて、かわいい子供達も撮れませんでした。
死海に浮かぶ船と流れ込むヨルダン川。魚が死海の入り口まで来て戻っている様子。
ユスティニアヌス帝の時代に建てられたギリシャ正教の教会で、教会内の床には6世紀のパレスチナの地図がモザイクで描かれている。200万もの色鮮やかな色彩のストーンで断片を組み合わせて作られている。当初は15.7M×5.6Mの大きさだった。今は崩れて一部しか見ることが出来ない。 教会も再建されたものです。
いつもと同じ夕食をホテルでとる。
改築中の教会の前で
ホテルのプライベートビーチで浮遊体験をして、死海のドロを体に塗り(ドロパック をして)遊んだ。
内部のモザイク画を見やすく描いたレプリカ
ベドウィン アラビア半島を中心に、シリア、ヨルダン、北アフリカなどに生きるアラブ系遊牧民の総称。伝統的なベドウィンは、砂漠に住み、放牧のため水と牧草を追って移動し、砂漠に生きる勇者としての誇りを持つ。第二次世界大戦や、中東戦争をへて、国境は自由に往来できる場所ではなくなってしまい、駱駝に代わる輸送手段である車や、便利なテレビや冷蔵庫の登場が、定住化を促している。 現在、ヨルダンで、テントに住んでいるベドウィンは1%に過ぎない。
死海のためにヨルダン紙幣の換えた残りの7ディナールで死海のミネラル入り石鹸とパッチワーク用指貫を買う。
教会内部にあったモザイク画を保管している。
山頂にあるモニュメント(悪魔の化身であるへびをモーゼが雷鳴を呼ぶ杖で打ちやった故事を表現している)
黒いのがシナイ山