13時20分、ついに日本橋に到着しました。日本橋が中央通りが日本橋川を渡る橋で、日本の道路の基点となる、「日本国道路元標」が設置されている橋であり、日本の道路の原点でもある。現在の日本橋が、明治44年に架けられた石造りの2連アーチ橋である。

品川〜日本橋

H.24.08.19

早朝家をでて、JR、京急と乗り継いで、北品川に9時30分に着いた。駅前には、「品川宿の見所」の地図があった。京急の踏切を渡り、街道に出る。先日見残した、土蔵相模跡を見る。石柱が建っているだけで、今はマンションになっている。高杉晋作や伊藤博文など、幕末の志士達が密議した大妓楼があったところであるが、何も残っていない。旅籠を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていた。

山門 天保7年に再建

大石内蔵助の銅像

三解脱門

大殿と東京タワー

9時41分、先日終了した、八ツ山口の石柱に出る。京急の踏切を渡り、八ツ山橋を渡る。八ツ山橋の手前が「ゴジラ上陸地点」になっている。箱根駅伝で通る八ツ山橋は新国道15号に架かる八ツ山橋なのだろうか。

お江戸日本橋七つだち♪〜」の歌を思い出しました。日本橋を七つ(4時)にでて、高輪辺りで夜が明けるという歌詞でした。行列って、大名行列かなと思い調べてみた所、(大店の丁稚達を連れて故郷に里帰りをする人たちがそうです。)以前、「大江戸博物館」に行った時、復元された日本橋があったことを思い出しました。季節が分からないが、4時に出て、8キロ歩いて夜が明けるんだから、昔の人は随分足が速いと感心する。

これで、藤枝からの東下りが終わりました。後は、豊橋から京都までが残っています。東海道を歩きながら、もう二度とこの道を歩くことはないだろうなと思いながら、あちこち寄り道しながら歩いてきました。もっと、寄り道をしたいと思ったこともありましたが、先を急いだこともあります。初めての日本橋は感激です。麒麟の翼も見られたし、歩いてきて良かったと思いました。バンザーイ!!

東京駅八重洲口から延びる八重洲通りと中央通りの交差するビルの脇に大きなキリンの像が建っている。

直ぐ傍に、警察博物館があったので、中に入って涼んだ。警察の制服を着て、白バイに乗って写真を撮っている子供達もいました。

江戸歌舞伎発祥の記念碑

京橋大根川岸跡(青物市場跡)京橋から紺屋橋にかけての京橋川河岸荷は、江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ市場であった。関東大震災の前まで続いていた。

ガス燈と京橋親柱(1922年建造)石とコンクリート造の親柱は1922年の拡張工事でアール・デコ風に架け替えられたものです。

明治初期、文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明には、ガス燈が用いられた。床の煉瓦は最近発掘されたものを、当時のままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱には、明治7年の実物を使用した。

京都に向かって初めての橋なので「京橋」と名づけられた。京橋川に架けられたものだったが、埋め立てられて、上には高速道路が通っている。左手に、煉瓦銀座の碑と日本最古のガス燈(復元)がある。

銀座は1丁目から8丁目まであり、今日は歩行者天国で、暑さに負けず沢山の人出で賑わっていた。明日は、ここで、メダリスト達のパレードが行なわれる。(50万人の人たちが集った。)2丁目あたりに、銀座発祥の地碑がある。(慶長17年、徳川幕府この地に貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称せしも通称銀座町と称呼せられ明治2年ついに銀座を町名とすることになる。)

12時32分新橋の親柱が残っている。新橋は挑戦通信使を迎えるために新設された橋えで、上を高速道路が走っている。汐留川に架かっていたが、川は高速の建設時に埋め立てられてしまった。高さは4m50cmあり、立派な親柱であるが、説明はどこにもない。その直ぐ先には、銀座の柳歌碑がある。柳は4代目の若木だそうです。

め組のけんか(文化2年、芝明神の境内で勧進相撲をしていた力士と町火消しめ組との間でけんかが起こった。これが、芝居「明神恵和合取組」かみのめぐみわどうのとりくみのモデルとなった。

街道に戻り直ぐに、左手奥に芝明神が見える。芝大神宮と呼ばれ、東海道沿線江戸市中都と市外の境界線上に位置し、近くに増上寺もあり、江戸から出立する旅人は道中の安全を祈願し、入府する旅人は道中の無事の報告した。9月11日からは、日本一長いお祭り、(11日間)だらだら祭りが行なわれる。

(増上寺は、正式名を三緑山広度院増上寺といい、上野の寛永寺と並ぶ徳川氏の菩提寺として知られる。この絵は本堂と三解脱門の雪景色が描かれている。)

11時40分大門に到着。(増上寺の朱に塗られている総門は大門と呼ばれている。江戸時代には、門の前に橋が架けられ、下馬札が立っていた。)

芝4丁目交差点を直進し、浜松町駅を過ぎると、左手に徳川家の菩提寺である増上寺大門が見えてくる。

11時31分、道なりに歩くと、首都高の高架下を流れる古川にかかる金杉橋を渡る。東京湾遊覧の屋形船が並んでいます。橋の袂には日本橋から1km(1里)の里程標があったらしいが、見落としてしまった。そばに「芝地区旧名由来版」がある。「湊町、土手跡町、親網町」などの説明が書いてある。

11時15分、右手の三菱自動車ビルの前に、西郷隆盛と勝海舟の会見碑がある。(この敷地は勝海舟が西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」が行なわれた田町薩摩邸の跡である。この蔵屋敷の裏は、海岸で、薩摩から船で送られてくる米などがここで陸揚げされた。この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線である。)

11時5分、開けた十字路に出る。ここは札の辻で、説明板によると、(江戸時代初期に、ここに高札場が設けられ、布告法令が提示されたところから、札の辻と呼ばれた。1616年には、芝口門をここに建て、江戸正面入り口としての形式を整えた。その後、高札場は高輪に移され、芝口門は新橋北側に立て替えられた.。「元札の辻」とよばれたが、明治以降は「札の辻」と呼ばれている。また、旧名由来版には、「横新町、通新町、田町」の説明が書いてあった。

10時58分、向こう側に御田八幡神社が見えた。遠回りをして横断歩道を渡り、行って見た。(江戸時代には直ぐ前を東海道が走り、その向こうには江戸湾の海浜が開け、さぞかし風光明媚だったと考えられる。明治40年に芝浦の埋め立てが始まり、その面目を失う。)現在は、鬱蒼とした薄暗い神社だった。

10j時55分、三田ビルの前の石垣(植え込みに隠れてしまっているが)は、ビル建設に伴う掘削工事中に出土したもので、当時の古地図や文書から、細川越中守の下屋敷の護岸用の石垣であったと思われる。と書いてあった。

街道に戻り、国道を歩く。10時49分、左側に高輪大木戸がある。(江戸中期に芝口門に建てられた。その後ここに移された。江戸南の入り口として、道幅約6間の東海道の西側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めにして、治安の維持と交通規制の役目を持っていた。天保2年には、札の辻にあった高札場もここに移され、江戸6大高札場の一つであった。四谷大木戸は現在その原型をとどめていないので、東京に残された数少ない史跡として重要である。)

泉岳寺駅の前の伊皿子坂を上がっていくと泉岳寺がある。泉岳寺は、高輪にある曹洞宗の寺院で、元禄赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られている。12月14日には、義士祭が催される。

10時20分高輪神社がある。道路に面して大きな石の鳥居がある。高輪一円の総鎮守。創建は室町中期で、お稲荷様、八幡様、猿田彦様を御祀りし、境内には、聖徳太子様を御祀りしている。

10時17分、街道に戻る。[高輪海岸の石垣石」があり、説明板がある。(この石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。平成7年の発掘調査で出土した。)傍には、「港区旧町名由来板」が立っている。(高輪・・この地は海より眺めて高台の「縄手道」と称されていた。転じて「高縄」から「高輪」になった。江戸初期に幕府が参勤交代のため、東海道を整備し、これにより街道沿いに町が広がった。)芝車町や芝高輪北町の説明もあった。

煉瓦銀座の碑

第一京浜(国道15号)を歩き、品川駅に出る。駅と反対側には、高輪プリンス、品川プリンスなどの高層のホテルが立ち並ぶ。駅と反対側の、さくら坂を上がると貴賓館(旧竹田宮邸)があると地図にあるので、行って見た。10時2分、高輪プリンスホテル・さくらタワーの手前にあった。現在は、レストランになっているようだ。竹田宮は明治後期に北白川宮能久親王の第一王子恒久王が創設した宮家である。明治天皇の玄孫に当たる憲法学者恒泰氏は、最近TVで色々発言している。邸は高輪プリンスに売却とあるので、この辺り一体が旧宮家の敷地だったのだろう。

日本橋魚河岸跡 (日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする魚河岸がありました。関東大震災のあと築地に移り、東京都卸売り市場に発展しました。)

18切符   2300円
京急      160円
計       2460円 

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京橋親柱(1875年建造)石造アーチ橋に架け替えられた時の物が2基残されている。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形しており、佐々木支陰の筆による「京橋」「きやうはし」と彫られている。

真珠王御木本幸吉の記念碑

山岡鉄舟が書いたきむらやの看板

三越のライオン

浅野長矩の墓

義士の墓