下諏訪~本山
前回は、望月宿まで歩き、本当はその続きを歩きたいのだが、寒くなり、和田峠を越えるのが難しくなるので、その間を抜かし、下諏訪宿から歩くことにしました。早朝家を出て、東海道線で富士まで、身延線に乗り換え甲府まで、スーパーあずさ号で上諏訪まで行き、中央線で下諏訪の駅に10:40に着いた。万治の石仏が出迎えてくれた。
JR中央本線の踏切を渡り、道なりに進むと「株シンセン」の前に出る。看板に従って裏にまわると「日出塩の青木」がある。(貴人の塚の上に大桧があった。)と書かれていた。貴人の塚の上に江戸屏風の絵にもなった大きな桧があったというが、大桧はなく、工場の片隅に石碑だけが立っていた。
「本山そばのの里」がある。本山はそば切り発祥の地で、それまでは「そばがき」であった。この辺りに「下木戸跡」があるようだが見つけられなかった。まだ10時20分で、おなかもすいていなかったので、残念ながら素通りした。
「洗馬宿脇本陣跡」は脇本陣志村家跡である。中に「明治天皇御駐輦之碑」がある。
これより西塩尻宿
柿沢には、雀おどりの棟飾りを上げた本棟造りの旧家が多数ある。
洗馬宿は、慶長19年(1614)中山道が塩尻峠経由に付け替えられた際に、塩尻宿、本山宿とともに新設された宿である。北国往還善光寺道の追分にあたり、おおいに賑わった。たびたび大火に見舞われ、昭和7年の大火では、宿並は廃塵に帰した。北国の鮭や鰤を煮込んだ「洗馬煮」が名物であった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒。当初松本藩であったが、享保10年(1725)幕府直轄領になった。
本棟造り雀おどりの棟飾りをあげた旧家を過ぎると街道は国道20号線に架かる歩道橋の手前に出る。歩道橋を右に入ると「犬飼の清水跡」がある。説明の標柱は朽ち果てていた。(ある公卿の犬が急に苦しみだした。この清水を飲ませると回復したという。)現在この清水は国道工事で埋められてしまい、東に移されているそうです。
駅を出ると、左側に「石塔群」がある。道祖神、秋葉大権現、筆塚が祀られている。中北道標から斜右に入り、国道19号をくぐる。江戸初中期中仙道解説の先に「桑崎バス停」があり、11時52分の塩尻駅行きがあるのを見て、塩尻に戻ることにして、バスを待った。時間通りにバスは来た。「すてっぷくん」という地域振興バスで一律100円だった。老人の足になっているようです。30分ほどで、塩尻駅に着いた。13時3分の「しなの」で名古屋へ、新幹線で掛川、東海道線で藤枝に着いた。
しばらく行くと、長泉寺があり、山門前には、六地蔵や庚申塔が並んでいる。その先に「日出塩駅」がある。今日はすごく寒く国道の温度計は-1度となっていて、寄るような施設も無く、ここまで来てしまった。寒さであちこちが痛いので、ここから帰ろうと思い、駅に寄った。無人駅で暖房も無く、まだ11時15分で、1時間以上待たないとどちら行きの電車も無かった。あきらめて贄川に向かう。
旧道に合流すると、「日出塩の一里塚」がある。標柱に「(江戸より61里、京へ71里、両側に榎を植えた。)と記されていた。旧日出塩村は、立場であった。熊の皮や熊の胆が名物であった。向かいに丸山漆器店と書かれた家がある。今でもやっているのだろうか。
旧道は本山宿のモニュメントの先で国道19号線に吸収される。しばらく歩くと、斜め右に砂利道が現れる。本来は左手にある釜之沢を高巻きにする道が中山道だったが、今は通行不能になっている。
左手に「本山口留番所跡」がある。嘉永17年から幕末まで、松本藩により、口留番所が置かれた。米穀、塩、女などの通行改めをした。 本山宿の案内板によると(本山宿の問屋は、月の上半分は小野七左衛門が、下半分を小林弥右衛門が、半月交代とした。上問屋は小野氏(後に花村氏)が脇本陣と兼業し、下問屋は小林氏が本陣と兼帯し、幕末まで続いた。)
「中山道本山宿碑」「上問屋跡」「脇本陣跡」と続くが、消防車などが出て、道路工事をしていたので、見落としてしまった。
河口屋の前に、小林本陣跡がある。雀おどりの棟飾りをあげた旧家の前に「明治天皇本山行在所」跡碑が立っている。文久元年皇女和宮は、本山宿本陣に宿泊した。
右手に「旧旅籠川口屋」がある。その隣には、池田屋、若松屋」がある。国登録有形文化財に指定された出梁造りの家が並んでいる。これらの旧家は通りに向かって斜交いに建っている。食い違い部分に身を隠し、敵を待ち伏せする為と言われる。3軒とも明治2年の大火後に再建された。間口が五間から七間の上級旅籠である。
左側に「下社参道跡」がある。(下社・諏訪神社は昭和26年に上社である八幡宮に合祀され本山神社になった。) その向こうには「下問屋跡」がある。(明治6年以降、跡地の清行学校が創設された。廃寺になった長久寺の木材が使われ32坪の建物だった。明治8年に本山学校に改称され、57坪に増築された。明治13年の明治天皇行幸のさいは警護詰所に使われ、本山学校は明治19年、宗賀学校本山支校となり、長久寺跡地に新築移転された。)
本山宿は木曽路の玄関口として賑わい、松本藩の木曽口の固めとして口留番所が置かれた。本山はそば切り発祥の地と言われ、狂歌師蜀山人は「本山のそば名物と誰も知る、荷物をここにおろし大根」と詠んだ。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠34軒であった。宿長は五町二十間(約581m)。
国道を離れ残っている旧道を直進し、牧野交差点に出る。ここから国道19号線を歩き、本山浄水場を過ぎ、Y字路を右に入る。右にため池がある。角に「中山道本山宿・しののめのみちの道標があり、右手に秋葉神社、常夜燈、道祖神、庚申塔などが並んでいる。
街道を枡形に曲ると、「言成地蔵尊入口」がある。JR中央本線を中仙道のガードでくぐる。その先を枡形に曲ると滝神社の鳥居がある。村の鎮守様です。その先の左側の斜面に「一里塚」の木柱が立っている。牧野の一里塚で、江戸より数えて60里目です。
その先に「高札場跡」がある。(ここは高札場があったところで、後におはんぎょう(判形)と呼ばれた。これは枡形のことです。広重の描いた「洗馬宿」が刻まれている。宿の西に流れる奈良井川の夜景を描いた。月明りと頼りにする、柴舟と筏を描いている。これは、広重の最高傑作と言われている。 芭蕉句碑「梅雨ばれのわたくし雨や雲ちぎれ}
「洗馬宿本陣跡」がある。(百瀬家・志村家の庭園は名園でしたが、洗馬駅造成により、面影が失われた。志村家の庭は芥川龍之介の「庭」のモデルと言われている。その先には、「問屋場・貫目改所」跡がある。(貫目改所は、荷物の目方を検査するところで、問屋場を兼ねていた。中山道では、洗馬、板橋、追分の3宿に置かれた。既定の重量を越えた荷物に増賃金を課すなど荷役に過重な負担がかからない様にした。)
その先には「洗馬学校跡」がある。(明治6年民家に開設され、開智学校を建てた立石清重を棟梁に、明治11年ここに新築移転した。廻り階段やバルコニーの付いた洋風3層の校舎はバビロン城と呼ばれた。屋上には今井兼平洗馬像が飾られた。)そばには学校の見取り図と洗馬図が貼られていた。
洗馬郵便局先を大きくカーブすると、右側に「肱懸松」がある。細川幽斎が「肱懸けてしばし憩える松蔭にたもと涼しく通う河風」と呼んだと伝えられている。根方の解説には「洗馬の肱松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」とうたわれた赤松の名木である。明治の頃の写真が飾られていた。 二代将軍秀忠が上洛の途次、肱を懸けて休んだとの伝説もある。街道は、斜め左の細い道を下る。
コスモ石油の所を斜め左の草道に入る。平出歴史公園の交差点に出る。国道を横断して県道304号本山床尾線を進む。 ここにも雀おどりの棟飾りの家があった。
延々とブドウ畑やブドウ農園が続く県道305号床尾大門線を歩く。JR中央本線第一仙道踏切を渡る。右側に「KIDOワイナリー」の看板がある。中仙道一里塚の交差点を渡リ宗賀の旧道痕跡を少し歩き「宿食堂宗賀」の前に出る。宿泊3000円と書かれていたが、今でも営業しているのだろうか?
ブドウ畑の中を歩いていくと、左手の奥に「平出遺跡」がある。(縄文時代から平安時代にかけての大集落跡。古墳時代(約1300年前)の竪穴式住居を復元している。)平出遺跡考古学博物館には、大門神社から出土した銅鐸が展示されているらしい。まだ8時過ぎで開いていなかった。
平出の一里塚である。両塚とも残っていて江戸より数えて59里目の塚である。宝暦6年(1756)頃には、この付近に茶屋が二軒あったといいます。(慶長19年に中山道は牛首峠から塩尻峠に変更され、この塚はそのころ作られた。江戸時代塩尻市内には、9か所に一里塚があったが、現在はここ平出と東山、若神子が残り、両塚を残すのはここのみとなった。)
7時15分にホテルを出発する。風花がちらちらする曇り空ですごく寒い。30分かけて昨日の場所まで戻った。途中ガード手前にある「有明山神燈」と道祖神に立ち寄る。 昭和電工の広大な敷地を過ぎると、街道正面に松の木が見える。
この先でJR中央本線のガードをくぐる。右側は昭和電工工場の塀が続き平出遺跡まで何もないようなので、ホテルに行くことにする。道を戻り、迷いながらホテルに着いたのは17時を回っていた。
大門2番町に入ると、左側に「カネホン商店」がある。屋号で曲尺の中に本の字を描いている。カネホン酒店だそうで、立派な蔵もあった。
その隣には「耳塚神社」がある。かわらけが沢山つる下がり、下の方に2つの小さな社が祀られている。(天文17年(1548)桔梗ヶ原の合戦で、武田信玄と小笠原長時が激突し、武田軍が勝利した。討ち死にした将兵の耳を葬ったところと言われ、耳の聞こえに御利益ありと評判であった。)昔の写真よりなんだか立派になっています。 その傍らには、男女双体道祖神が祀られている。
右手に、「大門神社」がある。(若宮八幡と柴宮八幡が合祀し大門神社になった。昭和35年に境内から日本最北の弥生銅鐸が出土した。)境内にはケヤキの巨木が何本もあり、今は葉が落ちているが茂ったら立派なケヤキになると想像された。
突き当りを右折して塩尻橋で田川を渡る。暫く国道を歩く。下大門交差点を右折する道は松本街道である。その向こうに今日の宿の塩尻ルートインが右手の奥に見えたが、まだ16時過ぎだったので、このまま旧道を歩く事にした。交差点の一番左の道に入る。
大小屋交差点の手前に石仏石塔群がある。秋葉大神、南無阿弥陀仏、庚申塔、道祖神、蠺玉大神などが祀られている。 交差点を渡る。、
堀の内にはいると、右側に男女双体道祖神があり、その向こうに「堀内家住宅」がある。(堀内家は、江戸時代に堀之内村の名主を勤めた。文化年間(1804~18)に下西条家から移築された本棟造り、雀おどりの住宅は、この系統民家の頂点を示すものと言える。)国重要文化財である。残念ながら、現在文化庁の修理が行われているため、全景を見ることはできなかった。
塩尻東小学校の前に「是より東 中山道塩尻宿」の道標がある。塩尻宿の京(東)口である。
歩道橋の手前を右手に入る。歩道橋の足元に「鈎の手跡碑」がある。その先に「阿禮神社」がある。延喜式神名張に記載された古社。社殿は享保3年(1718)の再建。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に、戦勝祈願したと言われている。
陣屋跡は笑亀酒造になっている。明治16年に酒造元として開業。国有形文化財に指定された穀蔵は重厚ななまこ壁で覆われている。塩尻宿は慶長10年(1605)以降に天領になり、享保10年(1725)には幕府直轄領になり陣屋が置かれた。
「塩尻宿」の案内板の横には栄泉の描いた塩尻宿(塩尻峠、諏訪ノ湖眺望)が刻まれていた。遠景は八ヶ岳連峰、高島浄、富士山その右手に赤石山脈を描いている。湖面にひびが入っている、湖が全面凍結すると氷の体積が膨張し割れが生じ盛り上がる。この現象を「御神渡(おみわたり)といって諏訪明神が下諏訪の下社に鎮座する女神のもとに通う道と言う。この御神渡が甲州道中の児玉石神社に向かうと豊作と言います。
高札場跡、下問屋跡の向かいには上問屋跡、本陣跡があり、その奥に「明治天皇塩尻行在所碑」がある。
本陣は小口家から平林家に変わり、明和8年(1771)から造り酒屋を兼ねた川上家が勤めた。中山道最大の規模があったが、明治15年の大火で焼失した。
右側にある立派な家は「小野家住宅」で、元旅籠いてう屋跡である。嘉永3年(1850)建築で国重要文化財に指定されている。地味な外観に比べ極彩色の部屋を持つ.。明治16年の大火で宿並の殆んどが焼失したが、小野家は焼失を免れた唯一の建物である。)( その向こうに「飛脚問屋跡」碑が立っている。
その向こうには「五千石街道碑」がある。諏訪高島藩の東五千石領を経て、松本を経由して糸魚川に至る北(裏)塩の道である。
その向かい側には「松本藩塩尻口留番所碑」がある。(塩、米、材木、女人等を取り締まった。)その先には「十王堂跡碑」があり、その先には「庚申塔」や「男女双体道祖神」などの石碑が並んでいる。
交差点の家の前に、いくつかの石碑などがある。道祖神やひげ題目碑など。その向こう側に「阿禮神社御旅宮」がある。(阿禮神社は柿沢の奥の院に祀られているが、祭礼の時だけここまで降りてくる。)その向こうには、三州街道碑がある。伊那飯田を経て三河に至る南(表)塩の道が伸びている。
柿沢村の高札場
火の見櫓をひだりにはいり、四並川を縁並橋で渡り仲町交差点に出る。「柿沢の一里塚」は位置不明であったが、復元された石碑が立っていた。(明治以降の道路開発により塚の手掛かりとなるものは何も残されていない。東山一里塚と平出一里塚から有志が向かい合わせに歩いて出会ったところを、ほぼこの辺りと特定した。)と書かれていた。江戸より58里目である。
入口を出ると向かい側に八幡神社の赤い鳥居と「男女双体道祖神」がある。風雨にさらされて双体が分からなくなってしまっている。
民家の間を歩いていくと、「首塚胴塚案内」があり、路地に入り左折し畑の中に入っていくと「首塚」があり、畑の反対側には「胴塚」があった。(天文17年(1548)武田信玄と松本の小笠原長時が衝突した塩尻の合戦は小笠原勢の大敗で終わった。戦死した千余名の亡骸を柿沢の人たちがここに埋葬した。その後、子の貞慶は家康に見いだされて嘉永9年(1632)古倉藩15万石となり、維新まで続いた。
国道に合流する。しばらく歩き、「神渡看板」を斜め右にはいる。カラマツ林、アカマツ林を進むと、斜面上に「牛馬守護神」の石碑がある。この辺りには、「新茶屋立場跡」があったが、標識や遺構は残っていない。
高ボッチ高原案内のY字路を左に進む。その先に「石仏石塔群」がある。馬頭観音、半僧坊大権現、道祖神がある。
小橋を渡り下っていくと、「東山の一里塚」がある。南塚を残している。元和2年(1616)塩尻峠が開通し、中山道が牛首峠経由から塩汁峠経由に変更された際に築造された。江戸日本橋より57里目である。
下っていくと、親子地蔵が並んでいる。享保元年(1716)の造立、天明の飢饉で行き倒れになった旅の親子を供養したもの。 ここには、伝説夜通道(よとうみち)の標柱が立っている。「いつの頃か、片丘辺の美しい娘が岡谷の男と恋仲になり、男に会うために、毎夜この道を通った。」と記されていた。
向かい側には「明治天皇塩尻嶺御膳水碑」があり、その奥に井戸が残っている。
舗装路を横断して、旧中山道の道標から坂をさがる。数分下がると左側に「上条茶屋本陣」跡がある。本棟造り雀おどりの棟飾りを上げた旧家で、まだ住んでいるようです。(立場、上条源治。寛政8年(1769)建築の本棟造り、門、玄関、上段の間、次の間が残されている。皇女和宮はここで休息した。)
急坂を上りつめると、展望台がある。頂上には塩尻峠史跡群がある。「富士浅間社」の石祠は松本領と諏訪領との郡境の宮として祀ったもの。 「明治天皇野天碑」塩嶺御野点記念祭が、明治天皇が明治13年6月24日、昭和天皇が訪れた昭和22年10月14日に合わせて毎年2回聖駕駐驛記念碑の前で開かれる。 塩尻峠は、太平洋側の「表塩」日本海側の「裏塩」の接点に当たるところから塩の終点地(尻)を意味する塩尻が地名となった。
石船観音が塩尻峠への登り口である。ここを左折する。しばらく行くと「中山の大石」がある。山賊がこの石の後ろに隠れて旅人を襲ったと言われている。峠に着くまでの30分間で、会ったのは上から降りてきたツーリングの2台のオートバイだけだった。なんだか、追剥、ゴマのハエでも出そうな雰囲気だった。大石は、高さ6m、横幅3.6m。
坂を上り切ったところに。「石船観音堂」がある。長い石段を上がった行くと、わらじが沢山奉納された御堂があった。(馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところからこの名がついた。境内を鳴沢清水という水が流れていて、金名水と言われている。和宮や明治天皇も飲まれたという。)この観音様は足腰の弱い人に霊験あらたかと言われてる。
道に沿って歩き、国道20号バイパスを高架橋で渡る。「中山道」の案内板があり、渡り切ったら、左折し坂を上る。坂の途中から、諏訪湖、富士山を眺望できる。栄泉はこの辺りから塩尻宿として凍結した諏訪湖を描いている。
本陣の長い黒塀に沿って歩き,空き地に出ると、「中山道碑」と中山道の案内板がある。その先には斜面の上の方に「不動尊」と刻まれた石碑が立っている。
その向かい側には「今井茶屋本陣」跡があり、「明治天皇今井御小休所」碑がある。(西に塩尻峠を控え4軒の茶屋があり、四ツ家立場と呼ばれた。今井家が茶屋本陣を勤めた。皇女和宮が休息した。主屋等十一棟が国登録有形文化財)まだ住んでいるようである。
左側に「明治天皇御膳水」の碑がある。(明治天皇は明治13年、山梨、三重、京都方面の巡行の際に、茶屋本陣で休息した。)その隣には、「今井番所跡」碑がある。(高島藩が設けた口留番所、ここを通過するには高島藩の通行手形が必要だった。)名主の今井家が番所役を勤めた。
岡谷市消防団第一分団火の見櫓の元に御柱で囲まれた「男女双体道祖神」があり、その奥に「今井観音堂」がある。木造聖観音坐像を安置している。御堂の前には「枝垂桜」の古木があり由来を書いた立札があったが、こわれかけていて読みにくかった。
この辺りには、「建グルミ」という諏訪地方特有の建築が点在する。民家に土蔵を組み込む建築である。
岡谷自動車学校や諏訪湖畔病院を過ぎると右に「常夜燈」「道祖神」が立っている。横河川を大橋で渡ると左側に「石塔群」がある。
交差点を渡りしばらく行くと右側に「雀おどり」の棟飾りを上げた本棟造りの旧家がある。この家の前に「中山道標石」が立っている。 出早口交差点の先の右側に「東堀の一里塚」碑がある。江戸日本橋より56里目である。
その先の長地中町交差点の向こう側に道標がある。寛政3年(1791)の建立で、「右中仙道左いなみち」と刻まれている。飯田を経て松本に至る道で、百万遍供養塔を兼ねている。
右側に平福寺」がある。日限地蔵尊は、願いをかなえてくれる「おひぎりさま」と呼ばれている。境内の植木は雪除けの藁がかぶせてあったが、暖冬のため、まだ雪はない。
しばらく行くと左側に「旧渡辺家住宅」入口の標識が立っている。中に入っていくと藁ぶき屋根の家がある。(高島藩の散居武士(城下ではなく在郷の村々に住んだ武士)の住宅跡で、村々の治安や警備を担った。)この一家から渡辺国武、千秋、千冬の三人の大臣が出ている。外観は茅葺、寄棟造りで11月から3月まで閉館と書かれていた。
道を進み、富士見橋に出る。橋の架け替えで仮橋が架けられている。その橋を渡り、元の街道に戻る。この辺りには旧道跡があるということだったが見つけられなかった。今日は最初から道を間違えたり、見つけられなかったりで、さい先が悪い。旧道は砥川の土手に出るということで昔はここから川を渡ったのだろう。これから所々に出てくる「中山道」の道標が心強いです。
道を横断するべきだったが、左に行ってしまった。角に四方を御柱で囲まれた「道祖神」が立っている。しばらく歩き間違いに気付き道を聞いて元に戻る。さっきの道を直進すると、また、四方を御柱に囲まれた道祖神があり、正月飾りで埋め尽くされていた。
しばらく歩き道の反対側に「一之宮常夜燈」がある。右を向くと「諏訪大社下社春宮の大鳥居が見える。青銅の鳥居で、大門のサワラの並木があったが伊勢湾台風で倒れた。
下諏訪駅前交差点に出て、左に歩き、Y字路を左に入る。すぐに「魁塚」がある。(東山道軍先鋒の赤報隊は偽官軍の冤罪で隊長相良総三以下幹部八名が慶応4年斬首された。)官軍は各所で献金を強要し、これらの罪を赤報隊に被せ、処刑した。昭和3年に靖国神社に合祀され、汚名をそそがれた。石碑には名前が刻まれ、地元では祭りを欠かさないと書かれていた。
塩尻宿碑の隣には脇本陣跡碑がある。川上喜十郎が勤めた。敷地跡には庭石等を残している。
坂を下っていくと、突き当りの手前に「中山道と善光寺街道の分去れ」があり、常夜燈が立っている。(この常夜燈は安政4年(1857)の建立で、洗馬宿を行きかう旅人は、この灯を見て善光寺へ、伊勢へ、御嶽へ、京へ、江戸へと別れて行った。)左折すると、その先で先ほど別れた道に合流する。そこに「中山道と善光寺街道のわかされ」があり、道祖神や道標が立っている。(左側の道を50m行くと、常夜燈のある枡形がある。そこがわかされであった。道標は昭和7年の大火以降、新道が開設された折、ここに移された。)と書かれていた。先ほどのわかされが本物の様です。
右側に、「邂逅(あふた)の清水入口の標識がある。少し先の石段を降りると、あふたの清水があり、水が流れ出していた。今日は寒すぎて水を飲む気にもならなかったが、夏ならよばれたのに惜しいことをしました。 傍に石碑がある。(挙兵した木曽義仲はここで家臣今井四朗兼平とであう。これが邂逅(あふた)(会うた)の由来である。兼平はここで疲弊した義仲の愛馬の足を洗うと、たちまち元気を取り戻した。これが洗馬の地名由来である。
国道20号を地下道で横断し、伐採されてしまったヒノキ並木を右に見ながら坂を下る。柿沢歩道橋からは下を走る長野自動車道とみどり湖PAが見える。階段で降りるとサービスエリアが利用できるようです。橋の上からは乗鞍岳が見えるそうだが、今日は晴天にも関わらず、山の方角には雲がかかって見ることはできなかった。その先の右側には、嘉永6年(1853)建立の馬頭観音がちょこんとあり、お供え餅が供えられていた。
駅前には御柱が立っている。(諏訪大社で7年ごとに行われる御柱祭は神殿の御造営と共に霧ヶ峰高原に続く東俣国有林で伐採の樅の巨木を氏子が曳行し、社殿の四隅に建立する祭りである。この御柱は冬季オリンピックに建てられた御柱である。)曳綱のレプリカも飾られていた。
「高札場跡」と「秋葉大権現」碑があり、丘の上には大きな「本山宿」の看板があり、「上木戸跡」で本山宿は終わる。
2日目
塩尻宿は、伊那街道(三州街道)五千石街道(糸魚川街道)松本街道(善光寺西街道)の要衝で、東に塩尻峠を控えて大いに賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒であった。文政11年(1828)と明治15年の大火で宿並は焼失してしまった。