日出塩~藪原

H.28.05.07~08

来た道を戻って街道を歩く。右側に「秋葉・津嶋神社」があり、隣には水場がある。

藪原宿は、難所鳥居峠飛騨街道追分を控え、名産「お六櫛」の生産地として賑わった。明治17年の大火で、宿並の大半が焼失してしまった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒だった。

左側に「防火高塀跡」がある。(藪原宿は元禄8年(1695)の大火で全焼、その教訓から広小路を設け、防火壁を設けた。)塀の上には「明治天皇駐輦所」碑がある。

深澤家の先で、右折する。ここは枡形跡で、突き当りを左折する。本来はここを直進するがJRで分断されているので、跨線橋を渡り19号に出る。

祠の中に安置された「延命地蔵尊」の前を通り、畑の中を歩いて行く。今日はもうこの辺りで終わろうと、ガードをくぐって「藪原駅」に着いた。14時30分だったが、電車は25分に出てしまって、次の電車まで55分も待った。木曾福島でも40分くらい待って、「ワイドビュウ信濃」で名古屋に出て新幹線東海道線を乗り継ぎ20時15分に藤枝に着いた。

その横に「お六櫛問屋」がある。(妻籠のお六は頭痛に悩み、御嶽権現に祈願し、お告げ通り、ミネバリの木で櫛をつくり、髪をすいたところ頭痛が完治した。「お六櫛」と評判になり、妻籠の名産になったが、ミネバリが枯渇し、藪原の名産となってしまった。

お六櫛」の看板の店の隣に「朴葉巻き」の幟があり、買いたかったので中に入った。愛想のないおばさんだったが、二個買い求めた米粉を練った餅にアンを朴の葉に包んだもの。朴の葉に包んで蒸すことで香り豊かに仕上がるそうです。5月末から7月初旬限定商品。

その先に「飛騨街道追分」道標がある。野麦峠を越えて飛騨高山に至る。日本海の幸が運ばれた。この後、ガイドブックでは跨線橋でJR中央本線を跨いでいるが、観光協会の「中山道を歩く」は線路の脇を進み、JRのガードをくぐるようになっている。私達はガードをくぐった。右に曲がれば、本陣跡米屋旅館を見ることができたが、左に曲がってしまった。

原町清水」と書かれた水場がある。(この水は峠を越える旅人の喉を潤した水で、今も飲み水として使用されています。)と書かれていた。その先に「尾州鷹匠役所跡」がある。毎年春になると、巣山に入り、鷹の雛を捕獲し飼育調教した。

文化年間建立の供養塔を過ぎると、九十九折(つづらおり)の急坂で、未舗装の旧国道を横断すると、石畳道になる。

その先に「丸山公園」があり、「鳥居峠古戦場碑」や「芭蕉句碑」が並んでいる。刻まれた字が良く読めず、どれがどれだか分からなかった。

御嶽神社がある。石の鳥居にひびが入っていて立ち入り禁止になっている。回り道をして神社に行く。御嶽山(3063m)の遥拝所である。裏手には、霊神石像が40基あまり林立している。雪をかぶった御嶽が見えたが、写真には写らなかった。木曽路で最初に御嶽が見えるところである。

この辺りには、栃ノ木が多く、「天然記念物鳥居峠のトチノキ群碑」があり、「右側には「子産の栃」がある。(昔、この穴に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が育てて幸福になった事から、この実を煎じて飲めば子宝に恵まれると言い伝えられた。)という子宝伝説がある。

休憩所の先の左の坂を上ると「明覚霊神碑」がある。御嶽講の碑で、御嶽を信仰する講社が建てた碑である。碑を過ぎ、丸太の階段を降りると、「明治天皇駐輦碑」がある。この辺りには三軒屋の立場があった場所で、少し広くなっている。鳥居峠の案内が無いので、戻ってみると、丸太階段の上のビニールひもに「ここが鳥居峠」と書かれていた。

休憩所があり、ちょうど12時10分だったので、中に入って持っていたパンなどを食べた。水場があり、きれいな水が流れていた。看板に「鳥居峠」と書かれていたが、ガイドブックは少し先が鳥居峠になっている。ここは、「中利茶屋跡」で、中村利平兵衛の茶屋があった。平成11年に宿泊施設を新設した。中はとてもきれいだった。

道祖神

くるみ坂を上がっていくと木橋がある。その先に展望台があると書いてあったので、寄り道をして行って見たが、東屋はあったが、木が生い茂って何も展望がなかった。

しばらく草道を歩くと、舗装道路に出る。車道をしばらく行くと、中山道の石標があり、石畳の道が始まる。石畳が600m残されている。

その先に「楢川歴史民俗資料館」があるが、張り紙があり、閉館していた。石仏石塔郡を過ぎると、石標があり、「右上鳥居峠、左下奈良井宿」と書かれていて、石段を上ると、中北道標がある。「鳥居峠2.3km、奈良井宿100m」

奈良井の鎮守・鎮神社がある。(元和4年(1618)悪疫が流行った時、これを鎮めるために下総国香取神宮から「経津主神」を勧進して祀った。夏祭りには、宿の各家は建具を外し、街道と一体になる。)

その先には、高札場がある。昭和48年の復元で、傍らには、宮の沢水場がある。現在、宿には6か所の水場があり、それぞれに水場組合をつくり、整備、管理している。

右側に、「中村邸」がある。建物は天保年間築で、塗り櫛の創始者・中村恵吉の分家に当たる櫛問屋跡。この建物は、奈良井の民家の中で最も古い形を残しており、この民家の保存をきっかけに奈良井宿の保存が始まった。間口三間二尺、奥行き九間半の二階建てで、一階より二階が張り出した、「出梁造り」である。猿頭をあしらった鎧庇、入口から中庭まで土間が通っている。シトミを揚げ、柱を外し、框で客と応対したという。

更に進むと、中町と上町の境の道が鍵の手になっていて、街道屈曲し水場と道祖神がある。角には、荒沢不動尊が祀られてる。

その先で、右に入っていくと「長泉寺」がある。「茶壺道中」の本陣に使用された。拝領の茶壺が残されている。山門は奈良井宿本陣の門を移築したもの。本堂には飛騨の匠・田口権之正の「龍の大天井絵」がある。長さ20m、巾3,5mで、30年ほど前まで「鳴き龍」と呼ばれていたが、今は真下で手を叩いても老朽化のため鳴かない。

その横に「日野百草本舗」があり、おじさんに誘われて中に入った。奈良井宿では至る所で「百草丸」を売っている。「藤枝から来た。」と言うと、杏林堂にも百草丸を卸しているとのことだった。「食欲不振、食べ過ぎ、腹痛」などに聞く生薬が入っている。百草丸の試供品をもらい、 さるなしぜりーを買った。

その向かいには「越後屋」がある。寛政年間創業の旅籠で、現在も旅館を営んでいる。元々はシトミと大戸だったが、現在は格子の引き違い戸が入っている。

大宝寺の咲で横路を入っていくと「本陣跡」がある。公民館のあたりが母屋であった。標柱と嘉永2年(1849)建立の常夜燈がある。 その先に神明宮がある。

向かいには「旧徳利屋」がある。延宝3年(1675)創業。現在は郷土館になっている。と言うが呼びかけても返事はなく。まだ開いていなかった。七間間口を誇る大旅籠で脇本陣も勤めた。

右手に、大宝寺がある。天正10年(1582)この地を領した奈良井義高が菩提寺として建立。木曽義昌が武田勝頼の軍と鳥居峠で戦ったとき、義高公はおおいに武勲をあげた。 墓地には「マリア地蔵尊」が祀られている。(キリシタン禁制の江戸時代、仏教の子育て地蔵になぞらえて作られた石像である。役人に発覚し、破壊され、わずかに胸の十字架だけが残っている。昭和7年に地元の人が藪に埋もれているところを彫り出した。胸の男児が持つ蓮華の先が十字になっている。)

街道にもどり歩いて行くと、右手に水場(横水)があり、その後ろに立派な松の木と祠があり、庚申塔があった。

寄り道をして、「木曽の大橋」を見に行く。1億創生事業の一環として3.3億円で造られた総ヒノキ造りの大橋。

7時50分に宿を出て、少し戻る。駅の前の坂を左に入っていくと、「杉並木」がある。これは江戸時代の中山道で、橋戸の一里塚から平沢に通じていた。その横には二百地蔵が祀られている。地蔵堂の前に観音様が194体集められている。同じ境内に奈良井宿の鬼門除けの「八幡様」が祀られている。

宿場は、間口によって税金をとるので、間口が狭く奥に長く続いている。特にかとうさんは、一番長いということで、線路まで続いているそうです。線路の向こうもかとうさんの地所だそうです。

2日目

街並みを見ながら、今日の宿「かとう民宿」を探す。電話をしておいたので、店の前で御主人が待っていてくれた。宿に着いたのが午後6時を回っていたので、直ぐ用意してくれた夕食をとり、お風呂に入って、休んだ。 今日の泊り客は私達だけだった。

左手にはJR中央本線が通り、ちょうど電車が着いた所だった。JR奈良井駅はトラス小屋風の屋根がかかった建物です。その横「木曽五木」が植えられている。左からヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキが植栽されている。コウヤマキ以外は葉が良く似ていて区別が難しい。

奈良井宿は、木曽路最大の難所鳥居峠(標高1197m)を控え、また桧物細工、漆器、塗櫛等の木工業が盛んで、「奈良井千軒」といわれ「木曽の奈良井か藪原か、麦もとらずに飯を炊く」と言われた。木曽路の中で最も標高(940m)が高く上町、中町、下町で構成され、宿機能は中町に集中していた。宿並は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒であった。

奈良井宿

国道に合流する。自然石に「右中山道左国道」と刻まれている。奈良井橋を渡ると奈良井宿に入る。右側に馬頭観音が祀られている。

漆工房巣山」は国登録有形文化財

創業300年の巣山漆器店

街道に戻り、旧平沢村を進む。平沢の街並みの特徴は、建物が雁行し、前面にアガモチを持つ。中山道が湾曲しているため、地割が街路と直角でないので、建物は雁行し、側面が連続して見えることになる。また、街路と建物の空地は寛延2年の大火の後、尾張藩によって3尺づつバックさせられた。所有はあくまでも私のもの「吾持」と言う意味でアガモチと呼ばれている。 漆器店が軒を連ねる町並みは、「重要伝統的建造物群保存地区」になっている。

塩尻市贄川支所敷地から諏訪坂を上がる。境内には建てたばかりの四本の御柱が立っていた。この神社は御柱祭が済んだばかりなのです。今年は5月3日から4日に行ったようです。

「平沢1.1km、贄川駅2.3km」の中北道標で国道に合流する。平沢北交差点で県道に入る。「木曽漆器の街 平沢」の看板がある。 平沢は木曽漆器の町であるが、往時は奈良井が本場であった。享保9年(1724)奈良井には塗物師44軒、桧物師が99軒あった。そのころ平沢には桧細工に漆を塗るものが十数軒しかなかった。塗師に執着した奈良井は次第に寂れ、平沢は漆器で発展していった。

奈良井川を桃岡橋で渡ると、その先の空地に材木が4本置いてある。各材木に「麻布廼神社一之柱」~「四之柱」と書かれている。2km先に置いてあるという麻布廼神社の御柱に違いない。思わず興奮してしまった。この奈良井川でみそぎをして神社まで曳いていくのだ。

その先に、「押込めの一里塚跡」がある。東塚が復元されている。江戸から63里目の塚である。

左側にある「木曽民芸館」を少し覗き、前を通って金網の仮設歩道を進み、突き当りの仮設階段を上り、土道の旧道に合流する。馬頭観音中山道碑を過ぎると、川を渡り、津島神社に出る。地蔵尊、南無阿弥陀仏名号碑、石仏石塔が祀られている。

観音寺の奥には「麻布廼神社」がある。諏訪神社を本社とし、7年に一度(寅年と申年)に御柱祭が執り行われ境内に御柱が4本並んで建てられる。今年は来週祭りがあるということで、数人の人が準備をしていた。柱はもう取り払われ、石段には柱を引き上げる丸太が敷かれていた。2km先に、4本の柱が準備されていて、川に落とし、ここまで曳いてくるそうです。見ることができず残念です。「麻布廼」は木曽の枕詞になっている。

神社の脇の細い道を通ってJRの跨線橋を渡り19号線の向こうに「観音寺」がある。大同元年(806)に創建された真言宗の古刹。山門は寛政4年(1792)の建立で、市の有形文化財。。本尊は十一面観音。

水場の隣には「秋葉神社・津嶋神社」があり、この辺りに本陣があったようだが、標識はない。木曽家の子孫千村家が勤め、問屋、庄屋を兼ねた。また皇女和宮が千村本陣で昼食を摂っている。 またこの辺りに脇本陣もあり、贄川家が勤めた。

橋を渡ると宿の北入口に昭和51年に復元された「贄川番所」がある。もとは、道を隔てた反対側に位置していた。豊臣秀吉の時代に、木曽材木の監視のため、南の妻籠番所とともに設置され、関ヶ原の戦いの後、福島関所が設置されると、その副関として置かれた。「白木改め・出女」に目を光らせていた。明治2年に宿駅制度廃止とともにその機能を停止した。

関所橋歩道橋でJR中央線を跨ぐ。橋の欄干には「柳沢京子」の切り絵による「大名行列」が描かれている。橋に吊るされた金属パイプを叩くと「木曽節」のメロディーを奏でることから「メロディー橋」ともいわれる。

贄川宿は木曽路の東端、温泉があったところから熱川とよばれたが枯れてしまい、麻衣廼(アサギヌノ)神社の本社である諏訪神社の神事の贄としてこの地でとれた鯉や鮒を献じたところから贄川となった。明和5年(1930)の大火で宿並は全焼してしまった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒であった。

国道19号に合流する。本来の中山道はJR中央線を横断して贄川番所の前に出たが、鉄道敷設により旧道が消滅してしまった。水場が現れると贄川駅が近い。

「JR贄川駅1.3km、桜沢1.8km」の道標を右の上り坂に入る。「JR贄川駅1.0km、桜沢2.1km」の中北道標を右の草道に入る。大木の根元に石仏石塔群がある。道祖神らが十数基並んでいる。ここは、雀の宮があったところで、関所を通ろうとする旅人が身繕いをしたという伝承がある。眼下に国道19号線やJR中央本線を見ながら歩く。

神社の前には石仏石塔群があり、天文3年建立の道祖神、明和2年建立の「廿三夜待供養塔」、「馬頭観音」などが祀られている。

「JR贄川駅1.7km、木曽路碑1.8km」の中北道標を右に入ると、旧若神子村である。水場があらわれる。水場の屋根裏には「津島牛頭天王」が祀られている。

しばらく国道を歩くと右側の擁壁上に若神子の一里塚がある。こんもりした西塚を残している。江戸日本橋より62里目である。(東塚は中央本線の鉄道敷設時に取り壊され、西塚も19号線の拡幅工事により切り崩され、現在は直径5m、高さ1mを残すのみとなっている。)

斜め右の片平旧道に入る。「JR贄川駅2,2km、木曽路碑1.3km」の中北道標がある。その先には「鶯着禅寺(おうちゃく)」がある。飛梅山、永平寺の末寺、延命地蔵尊を安置している。 19号に合流し、歩道橋を渡って向こう側に渡ると「男女双体道祖神」がある。

立ち入り禁止になっていたが、そっと渡ってみた。向こう側には道はなく、どのように繋がっているか分からなかった。

片平橋を渡ると、向こう側に旧片平橋が見える。土木学会推薦土木遺産で、橋前後が旧道痕跡であるが現在は通行不可。

右側の高台に「白山神社」の鳥居が見える。白山比咩神社を総本山とし、人に和を与える神を祀っている。

を流れる奈良井川に、片平ダムが見える。治水目的で昭和57年に竣工した。

右側の桜沢バス停の傍には、茶屋本陣を勤めた百瀬家がある。住宅前には「明治天皇桜沢御小休所碑」「明治天皇御駐輦跡碑」があり、池のほとりには「明治天皇桜沢御膳水碑」がある。ツツジがきれいに咲いている。本陣には、上段の間と次の間を残している。

碑の向かいから「桜沢旧道」に入る。この山道は村人が開削して通行料を徴収していた。眼下には国道19号線が望め、馬頭観音が人々の安全を見守っています。祠に納まった馬頭観音を過ぎると旧道は下り坂になり国道19号線に出る。祠の中には「三面六臂馬頭観音」傍らには明和9年建立の「南無阿弥陀仏」名号碑、道祖神がある。

「木曽暮らしの工芸館」に立ち寄り、県道木曽平沢線を歩く。物見坂を上がると「諏訪神社」がある。(大宝10年(702)の創建。天正10年(1582)鳥居峠で木曽義昌に敗れた武田勝頼は敗走の途次、社殿に火をかけ全焼、朱塗りの本殿は享保17年(1732)の再建。

高札場跡」の右の下り坂にはいる。段上に石仏石塔群がある。

朱塗りの原町神社が右手の斜面に祀られている。神社の周囲は、シロバナエンレイソウの群落になっていた。

丸太の階段を下り、右折した舗装路を戻る、道標があり�、「クマよけの鐘」があり、鐘を鳴らして旧道を歩き始める。

中庭の奥には「土蔵」があり、櫛が展示されている。

更に進むと「上問屋資料館」がある。手塚家が勤め庄屋を兼ねた。上段の間が残っていて、明治天皇行在所の木札がかかっている。食事の様子などが書かれていた。 前には、「明治天皇駐輦所碑」「史蹟明治天皇行在所碑」がある。

はす向かいには「伊勢屋」がある。文政元年(1818)築の旅籠で、脇本陣を勤め下問屋を兼ねていた。現在も旅館を営んでいる。看板には「諸旅人・牛馬御休み御泊まり所」と書かれている。

藪原宿
贄川宿

早朝家を出て、富士駅で身延線に乗り換え、甲府まで行き、中央本線「スーパーあずさ」に乗り換え、塩尻で下りた。しばらく待って、各停に乗り換え「日出塩駅」に午前11時に着いた。前回バスに乗った「桑崎口バス停」まで歩く。11時35分に中山道を歩き始める。「是より南木曽路」の道路標識が見える。

その向かいには、「深澤家住宅三棟」がある。(深澤家は屋号を「加納屋」と称し、名字帯刀を許された贄川宿屈指の商人であった。主屋は、嘉永3年(1854)大火後の再建。北蔵は文政4年(1821)築、南倉は文久2年(1862)築、江戸時代末期の木曽地方における宿場の町屋建築の到達点を示す建物。国重要文化財。)大火で焼け残った建物である。

源流の里」二又水道組合と書かれた水場がある。その隣に「宮川家史料館」がある。漆器店でもある宮川家は店の奥の土蔵が史料館になっている。「奈良井宿のお店に行っています。」の張り紙が貼られ留守だった。

鳥居前の土道を下がっていくと「御嶽手洗水鉢」があり、(この水500m先の峠山の湧き水である。この上に「義仲硯水」がある。)と書かれていたが、硯水を見るのを忘れた。現在は水たまりのような水があるだけだそうです。平家追討の兵を挙げた木曽義仲が願書に使ったという水で、御嶽山に奉納したという。

木橋を越えると、「葬沢(ほうむりさわ)」の看板がある。(天正10年(1582)木曽吉昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝をおさめた鳥居峠の古戦場である。武田方の戦死者は五百余名でこの谷が埋もれたといわれる。戦死者を弔った場所として「葬沢」と言われる。) その先には、「中の茶屋」跡がある。(菊池寛の「恩讐のかなたに」の舞台となった。「いつとはなしに信濃から木曽へかかる鳥居峠土着した。そして昼は茶店を開き、夜は強盗をした。」)

JR中央本線を奈良井踏切横断する。右手に「大谷石造り三階建」の丸山漆器店がある。丸山漆器店大谷石蔵は、「国登録有形文化財」に指定されている。

津島神社の境内には、道祖神、御嶽山三社大神などの石塔群が祀られている。その先の左側の坂を上がる。墓地の手前でまた県道に出る。しばらく歩き、JR中央本線のガードをくぐり、奈良井川の土手道を進む。

JR中温本線のガードをくぐり、黒木木曽漆器店を過ぎ、龍門堂の手前を左に入る。「平沢1.8km、贄川駅1.6km」の中北道標がある。旧長瀬村に入った。道沿いの畑にはブドウ畑のような光景が広がる。ブドウでもないし、キウイでもないしなんだろうと思って通り過ぎた。散歩中の夫人に話しかけると、「サルナシの畑」と言う。この辺りで何軒か栽培しているそうです。よく見ると粒粒の実がなっている。

桜沢橋を渡ると、右側に「是より南 木曽路碑」がある。(この地は木曽の北の入り口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。石碑は桜沢の藤屋百瀬栄が昭和15年に建立。碑の裏には、「歌ニモ絵ニモ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」と刻まれている。

若神子村の鎮守である「諏訪神社」が右手にある。境内の水辺には咲き終わった「水芭蕉」の花があり、クリンソウが咲いていた。

古戦場碑は、木曽吉昌と武田勝頼の戦いを漢文体の長文で刻んだもの。

サルナシは、標高600m以上で自生するマタタビ科のつる性落葉植物。花は白色で、実はキウイフルーツを無毛にして小さくしたような緑色の2~3cmほど。味はキウイフルーツに似ている。ツルは「祖谷のかずら橋」の材料にも使用されている。

藪原宿続き

今回は、雪で通行止めだった鳥居峠を無事通ることができました。また、御柱を2か所で見ることができて、諏訪大社の御柱祭りと合わせて、今年は御柱祭を楽しむことができました。エンレイソウなどの花にも出会えて楽しい旅でした。

その先に「天降社」があり、村内唯一の大モミジがある。(木祖村天然記念物)樹高14m、幹周り2.45mで途中から二股に分かれている。

舗装された旧国道に合流し、消防署のある交差点を直進すると、「JR藪原駅1.3km、鳥居峠1.7km」の中北道標がある。

曽の栃 うき世の人の 土産かな(栃塚
雲雀よ里 うへにやすらふ 嶺(とうげ)かな
(雲雀塚)

ここが鳥居峠

中北道標「鳥居とうげ100m、奈良井宿2.0km」があり、振り返ると少しだけ、石畳が残っていた。

木橋を二つ越えると「鳥居峠の一里塚跡」がある。江戸から数えて65里目である。(鳥居峠は標高1197mで、木曽川と奈良井川の分水嶺である。奈良井宿と藪原宿の境をなし難所であった。戦国時代に、木曽義元が松本の小笠原氏と戦った時、この峠から御嶽を遥拝し、戦勝を祈願した。その功あり勝利を得ることが出来、峠に鳥居を建てたので、鳥居峠の名前がある。)

シロバナエンレイソウ

猿頭(さるがしら)と鎧庇

駒屋」で、団子と五平餅を頂く。奈良井の御平餅は、黒ごま、荏胡麻、山椒味噌の三色で、丸いお餅です。

栄泉の木曽街道 藪原 鳥居峠 硯 清水 御嶽

下町の水場

奈良井川の歩道橋を渡り、向こう岸に、「橋戸の一里塚」がある。街道の付け替えで残されたもの。江戸日本橋より64里目。付近は公園になっていて、グランドゴルフの練習場になっていた。街道に戻ると、右側に木造の「木曽楢川小学校」がある。給食の食器は木曽漆器が使われているという。

その先には「桜宮跡」がある。地蔵尊、観音菩薩、馬頭観音等の石仏石塔群が並び、奥に枝垂れ桜の古木がある。桜は終わっていたが、咲いているのを見たかった。

街道の右手に長野県天然記念物「贄川のトチ」がそびえている。推定樹齢1000年、樹高33m、根元周囲17.6mの巨木である。あちこちに瘤をつくり、勢いがある。周囲を一周できるようになっている。

国道沿いの石垣には「オダマキ」が石垣の石の間から花を咲かせている。