4日目
今朝も6時15分から、太極拳に参加した。相変わらず参加者は多くない。隣の船では室内で多くの人が太極拳をやっていた。この船の中国人は太極拳をやらないのか?今日で終わりということで、 先生が,通しで型をやってくれた。
龍門峡は、小三峡の入り口で両側から山が向かい合う。峡内には184mの龍門橋があり、龍門のように見える。
13時15分にロビーに集まり、しばらく歩き、小舟に乗り換え、今回の旅のハイライト「小三峡クルーズ」が始まった。
船頭さんが中国語の歌を歌うが、意味が分からない。チップを渡すように言われた。
滴翠峡は、全長20kmで。、両側の絶壁に小さな穴があり、そこを流れ出る水は鍾乳石を伝って落ち、6mほどの滝になる。
長江三峡下りの中間、巫峡に差し掛かる大寧河は小三峡と呼ばれている。全長143kmで、長江との合流地点から「龍門峡」「巴霧峡」「滴翠峡」と呼ばれている。三峡ダム完成後、水位が上昇し、浅く険しかった流れが改善した。世界最古とされる龍門峡の桟道が沈んでしまったが、以前は船でいけなかった滴翠峡まで遊覧できるようになり、絶壁に置かれた「懸棺」も見やすくなった。
川には、釣り船らしき船が浮かんでいる。バスに戻る道の両側には、色々な種類の干し魚が売られている。バスを降りて、エスカレーターに乗り、階段を下りて船に向かう。
レストランで朝食をとり、午前8時にロビーに集まり、下船した。バスに乗り「白帝城」まで行く。
夜になると、船は全長66kmの大産の「西陵峡」に入った。両側は険しい岩の嶺に囲まれ、幾つかの寺院や集落がある以外は人の姿はなく、七つの渓谷と二つの急流がある。三斗坪はかって三斗の米を元手に店を開き、旅人に食事や宿を提供したとの言い伝えから来ている名前だが、この場所に幅2309mの三峡ダムが建設された。船はダムを迂回する閘門を経て航行する。
断崖絶壁の岩穴に「懸棺」が見える。
ダムができる前は水位が低く、船でいけなかったが、馬渡河入口で小舟に乗り換えて翡翠色の川をさかのぼる「小小三峡クルーズ」が始まる。断崖の壁面には鍾乳石がぶら下がる。
全長10kmの峡内の川を巴霧河という。色々な形の鍾乳石が垂れ下がり、水位上昇前は、東側の絶壁に戦国時代の巴国人の鉄製の棺桶見られたことから、巴霧峡は「鉄棺峡」ともいわれる。
船は出航し、直ぐに全長8kmの「く塘峡」通過する。左手に先ほどの白帝城が見える。両側の岸壁は1000m~1500mあり、迫力がある。20分ほどで、峡は終わり、昼食をとる間に全長45kmの「巫峡(ふきょう)」を通過する。
懸棺葬は古代梵人の葬式である。亡くなった後、棺に入れて、断崖絶壁にかける。棺を絶壁に懸けて人間の魂が早く天国に着くように思った梵人は秦の時代に中国の西南に居住していた民族で、古称山都掌で百越の一族でした。
劉備が後を諸葛亮に頼んだ「頼み堂」
毛沢東の揮毫「李白」の詩
島に渡るため、廊下のような橋を渡ると、広場には諸葛亮の像が建っている。昨日よりは少ないが400段余りの石段を上るということで、駕籠屋さんが待っていた。グループの1人がかごに乗った。10元ということだった。
三国時代、蜀の建国者・劉備が夷陵の戦いで呉に敗れ、逃れたのが白帝城である。劉備は後事を諸葛亮に託し、この城で没した。後の唐時代の詩人・李白は「早発白帝城(早に白帝城を発す)」)という詩を残している。2006年の三峡ダムの開発により、島になった。
観星亭
白帝城の門・扁額は郭沫若の揮毫
白帝廟
クルーズ最後の晩餐ということで、船長主催の晩さん会で、いつものバイキングではなく、普通の中華料理は円卓に並んだ。
船着き場では、大きな魚のから揚げが売られている。
く塘峡は絶壁に挟まれた川幅は100m程しかなく、細い廊下を通り抜けているようです。、