5日目
船が三峡ダムを通過するには、「双方向五段式ロックゲート」を通る。最大高低差113mのダムを船舶が航行する為に設置された「船の階段」である。船が第一の閘室に入る。→後ろの扉を閉める。→第一閘室の水を第二室に移して水位を下げ、前後の水位を同じにする。→進行方向の扉を開け、船を第二閘室に進める。これを4回繰り返す。午前2時頃から2時間くらいでここを通り抜ける。と言う案内だったが、4時頃に起きるとまだ、最後の閘室で水位が下がり、船が下がっている最中だった。しばらくして、船は広い川に出た。
6日目
豚の頭や、豚足、カエル、鶏の足、など何でもある。そういえば、一度も餃子を食べなかった。お土産にプーアール茶を買った。
ちょうどこの場所のあたりに「赤壁」の石刻がある。
翼江亭・元々は東呉の大朝刊である周瑜の最前線哨兵所である。赤壁山が鯤と鵬の翼が斜めに川の中に刺したようで名付けられた。民国時期に辛亥の元老、国民党の将領・蔡漢卿によって建て直された。柱に蔡の書いた詩が残されている。赤壁の戦いの際に、周瑜が曹軍を破る時の指揮をした所である。
赤壁摩崖石刻・赤壁山の西の絶壁に面して赤壁という2文字が描かれている。縦150cm、横104mである。赤壁の戦いの後、長江沿いの断崖が日に照らされたように真っ赤になるのを見た周瑜が自らの剣で「赤壁」と刻んだと伝えられている。赤壁という字。 今回は長江の水位が上がっていて、この石段を下りていくとみられるのだが、通行止めになっていた。
周瑜の石像・高さ8.58mで、26個の花崗岩を彫って積み上げた。後漢末期の武将で、赤壁の戦いをはじめ、多くの戦いで戦功をたてる。知略、武略に優れ、曹操や劉備からも恐れられる程であった。
拝風台・別称は武侯宮で、当時諸葛孔明が東南の風を呼び起こしたとされる古い遺跡である。現在の遺跡は明代の1610年に再建され、1963年に赤壁道人が建て直され、その時に「拝風壇」という3文字の不完全な石碑も掘りだされた。
昼食後、長江の中流に位置する港湾都市・荊州市内観光に出かける。荊州市は、中国湖北省南部に属する地級市である。かって荊州と呼ばれた地方の一部で、当時の中心都市・江陵は、荊州市内に「荊州�古城]として残っている。歴史上、様々な武将たちの争奪の場となり、特に後漢末期から三国時代にかけて、激しい戦いが繰り広げられた。
関帝廟は、関羽を祀る廟である。大殿には、清の同治帝から下賜された「威震華夏」の扁額がかかる。奥には、劉備、関羽、張飛の像が祀られている。庭には関羽の、「青龍句偃月刀」が飾られている。
翼江亭から長江を望む。
6日目
茅坪で下船して、世界最大の水力発電ダム{三峡ダム」にバスで向かう。センターで手荷物検査を受け、歩いても行けるが強い日差しで歩く気も失せ、カート(10元)でダムに向かった。
朝時j20分にホテルを出て、空港に向かう。朝食はお弁当にしてもらい、バスの中で食べた。長江には九つの長江大橋がかかっている。たくさんの橋を渡って空港に着いた。9時15分に武漢空港を離陸し、成田空港に14時5分に着いた。無事に荷物も出てきて、宅配に預け、家路に着いた。
ドリアン
ハミウリ
サカナ
餃子
大きなスーパーで買い物をした後、「湖北料理」の夕食をいただいて、ホテルに帰った。
炎天下歩いて、消耗し、帰りはカートに乗る。歩きの人もいたので、彼らが来るのを待って、バスで武漢に戻る。武漢は大きな湖がいくつもある。「東湖」「南湖」「北湖」「後湖」「墨水湖」「砂湖」などがあり、少し走ると大きな湖があり、まるで海のようです。
赤壁の戦いの図
この舞台で、諸葛亮と周瑜の閲兵式の様子が演じられることもあるそうです。
中国の火炉「重慶」からもう一つの火戸「武漢」に来て朝から猛烈に暑い。おまけに湿度が高いので、ムシムシする。 武漢は、湖北省の東部に位置する都市で、長江とその最大の支流である漢水を挟んで、武昌、漢陽、漢口の三鎮が並立している。人口は約1000万人。
観光後、4時間かけて武漢まで走る。夕食はチベット料理店の「武漢料理」だった。今まで食べた中華料理との違いは分からなかったが、美味しくいただいた。その後、初日に泊まったホテルに入った。
荊州古城は、1646年に再建されたもので、城壁の高さ9m、厚みは10mで、周囲は9,3kmの大きさである。城壁、城門などが保存されている。後漢の末期、関羽が江陵城を築いたのが始まり。戦略上の要衝だったことから、争奪戦が激しく、関羽はその攻防で、呉の孫権の破れ、命を落とした。その後何回か破壊と修築が繰り返され、清の順治帝の時に再建された。
旅行中、いろいろな名前の付いた料理を頂いたが、どこが違うのか分からなかった。少しずつ出てくるものが違うが、だいたいは同じだったような気がする。でも、中華料理は3食いただいても飽きない。
温めた皮の中に味付け肉を入れて食べる、「長崎の角煮饅頭」のようなものも出た。
再びクルーズ船に戻り、三峡最長の西陵峡を楽しむ。西陵峡の東の出口に当たる「宜昌」の郊外の船着き場で船を下りる。バスでに向かう。途中で「荊州料理」の昼食をとる。毛沢東が好きだったという、魚料理も初めて出た。
長いエスカレーターで上に向かう。
今回、初めて「クルーズ」に参加した。3日間だったが、どんなものか分かった。乗客400人の大半は中国人で、私達日本人が11人、あと外国人が数名で、ほかの日本人はいなくて、観光地でも会わなかった。鬼城のガイドさんが「日本語を2年間しゃべっていないので、忘れてしまうよ。」と言っていた。日中の関係によって観光客の数が増えたり、減ったりするのは仕方がないことかもしれない。三峡はダムができる前に、遺跡・名所が沈んでしまうということで、随分ツアーが出ていたようだが、出来てからはダムが観光資源になっているようです。暑くて参ってしまったが、火炉を体験出来て良かった。
長江を泳いでいる人たちがいる。何人か集まって、オレンジ色の浮きを付けて、そのあとを小舟が着いて行っている。ガイドさんによると、「長江横渡り」と言って7月16日に毛沢東が泳ぎ渡ったことを記念して、水泳が行われるそうです。ガイドさんも泳いだことがあるが、川が汚いので、泳いだ後、体に土や砂が付いて気持ち悪かった。と言っていました。
山頂は公園になっていて、左に先ほどと通って来た「ロックゲート」が見える。右側にはダムが見える。ダム建設により「住民の強制移住」や「文化財、名所・旧跡の水没」などの弊害もあったが、電力問題や大型船舶が航行できるようになったり、ダム自体が観光名所になったりしている。