JR東海道線、新幹線と乗り継ぎ、東京駅に着いた。東北新幹線が遅れて発車し、野崎駅に着いたのは、AM10:30だった。野崎駅からのバスは廃止されていて、タクシーで前回の終点、佐久山下町バス停に向かう。AM11:00に歩き始める。

その先の左側に正法寺がある。慶長9年(1604)の創建で歴代藩主夫人の祈願寺であった。境内には乳根が垂れ下がったイチョウの木がある。

一里塚迄1.8kmの道標があり、蛇尾川を蛇尾橋で渡る。川を渡り右の道が奥羽道で、5kmゆかりの那須神社がある。街道は左折する。

市野沢小学校入り口バス停の先の左手に「十王堂跡」がある。冥府で亡者の罪過を判定する十人の王を祀ったもの。境内には六地蔵石どう、如意輪観音菩薩像、十九夜塔などがある。

2日目

朝7時にホテルを出発する。街道を進むと「大久保木戸跡標石」がある。大田原宿の北口である。

百村川の流れに対して斜めに架橋されている「筋違橋」を渡り、荻野目バス停先に「護法寺」がある。山門脇に文政9年(1826)建立の題目碑「南無妙法蓮華経 箒川出現 日蓮大菩薩」がある。

2026.3.13~14

相の川を高野橋で渡り、歩くと左の一段高くなったところに「麻疹地蔵堂」がある。最近建て替えたようで、新しいお堂だった。真言宗寶積院跡。境内には馬頭観音、十九夜塔、安政3年(1915)建立の宝篋印塔などがある。

野崎~黒磯

羽田沼入り口バス停を過ぎると「那須塩原市」に入った。その先に「白鳥の羽田沼 1.6km」の看板がある。

県道48号線をしばらく歩くと、左に「養福院」があり、境内には石仏石塔が並んでいる。

左に「蒲蘆碑」(ほろのひ)がある。代官山口鉄五郎の善政を讃えた碑が堂内に安置されている。中国の書「中庸」の一節で、「善政を行えば、水辺に生えている蒲や葦がたやすく繁茂するのと同じ」に由来する。

左側には、薬師堂がある。寛政9年(1793)9代城主大田原庸清(つねきよ)が城の四方固めとして再建した。薬師堂、七重の塔、舎利塔が太田市の有形文化財に指定されている。

大田原城址は現「龍城公園」。蛇尾川を天要塞とする平城。天文14年(1545)大俵資清が姓を「大田原」に改称した。維新を迎えるまで大田原氏の居城であった。

巻川を二本松橋で渡ると、左に「中田原の一里塚」がある。西塚を残している。道路拡幅のため1.5m後方に移築されている。江戸日本橋より38里目。

脇東山道の碑がある。源義家は奥州征伐の際、秋葉山瀬尾神社に戦勝祈願し、那須資晴の子藤王丸を引聞した。家康が五街道を制定するまでは、東山道は奥羽に向かう道であった。

金灯籠交差点には金灯籠が立っている。文政2年(1819)鋳造の灯籠は戦時中に供出され、現在のものは昭和54年に鋳造されたもの。台座は往時のもので、「江戸」「白河」と刻まれている。

左手に「弁天祠」、五輪塔、大乗妙典六十六部供養塔がある。その先の親園警察勘駐在所を右に入ると「八木沢陣屋跡」があるというが、行かなかった。享和3年(1803)から20年間この地は幕府領となり、代官山口鉄五郎高品が支配した。

その先の左手に「幸矢の与一像」が立っている。与一は那須資隆の子として誕生する。源頼朝に仕え、幼いころから弓が達者で、壇ノ浦での戦いで、扇の的を射貫く話が有名。幸は獲物で、矢狩猟用の矢を意味する。

その奥に「湯殿神社」がある。建久6年(1195)那須与一の勧請で、八木沢村の鎮守。1対の石灯篭は文久元年(1861)建立で「湯殿山」と刻まれている。

その先に本陣・問屋・高札場跡があるはずだが、見つからない。印南家が勤め、問屋を兼ねた。本陣脇には高札場があった。

枡形を進むと、龍泉寺がある。往時は大田原城三の丸にあり、大田原市の祈願寺であった。

旗本福原氏5千石の陣屋町として栄えた。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒。

その向かいには「町初碑」が、代々名主を勤めた国井宅内にある。寛永4年(1627)奥州道中の整備に伴い、八木沢村が開かれ、「間の宿」になった。門は八木沢陣屋から移築したもの。

練貫バス停の先の左手に「那須湯道追分道標」がある。宝暦6年(1756)建立の永代常夜燈には「右奥州海道 左原方那須湯道」と刻まれている。那須湯本温泉は那須七湯のひとつ。 その奥に愛宕神社がある。

市野沢交差点の向こうに大きな木が見える。「与一の里おおたわら名木 小滝のコウヤマキ」である。樹高17m、推定樹齢400年で奥州道中三槙のひとつ。市指定天然記念物。

市野沢郵便局の所に「弘法大師の碑」がある。弘法大師がこの地を訪れた時の句と伝えられているが、実際は江戸時代に詠まれたもの。
   蓑に添う市野沢辺のほたる哉

親園交差点のところに「那須与一公の墓」の標識がある。右に矢印があった。

枡形を右折すると左に「正浄寺」があり、境内に芭蕉句碑がある。

佐久山宿

鍋掛交差点の向こうに「清川地蔵尊」がある。延宝7年(1955)の造立で、子育て地蔵として篤く信仰されている。

花の隠 謡に似たる旅寝哉

街道沿いには「御菓子司児島屋」がある。安政2年(1855)創業で、「勘兵衛饅頭」の老舗。

街道沿いに「イトヨ生息地案内標識」がある。どのくらい歩くか分からなかったので、パスして進むと清冽な流れの谷田川があり、そこに祠と聖徳太子像が祀られているというが、祠は壊れ、像は見当たらなかった。川の流れの中に魚がいたが、まさかイトヨでは?

左の畑の奥に「桶沢不動明王」が祀られている。祠の中に明暦2年(1656)造立の寄木造り不動明王像が安置されている。着物を着せられているので、不動様かどうか、寄木造りかどうかも分からない。後に壊れた不動明王の光背があったので、何とか分かった。

何もない道路際に「明治天皇御駐輦記念碑」が立っている。明治9年東北巡幸の際にここで休息した。

羽田沼3.2㎞の道標

左の細い道に入るところに「如意輪観音像」が立っている。この辺りは「首切り山」と呼ばれ、刑場跡とも言われる。

「お城山通り標識」を左折する。右角に「旅籠上州屋跡」。現在は「ホテル那須大田原ヒルズ」になっている。今日宿泊予定の宿である。ホテルの前を右折し進むと枡形が現れる。

暫く百村川に沿って歩き、六本松バス停の先の左に「馬頭観音群」が立っている。明治、大正、昭和の馬頭村の中に文化4年(1807)建立の馬頭観世音がある。

少し先の左手が「御本陣井上勘左衛門」跡。問屋を兼ねた。日本初のフランス語学者であった「村上英俊翁生誕地」碑立っている。
 その先を左に入ると「佐久山城址」がある。文治3年(1187)那須与一の兄康隆が佐久山城を築き,佐久山氏と称した。1563年同族の福原氏が那須氏を滅ぼし城主となり、その後旗本福原氏5千石の陣屋として幕末まで存続した。行かなかった。

その先に、「豊道春海翁生誕之地碑」がある。明治から昭和にかけての書家で、文化功労者に選ばれた。

その先に「鍋塚の一里塚」看板がある。元は愛宕峠の頂上付近にあったが、両塚とも消失、北塚が擁壁上に復元されている。江戸日本橋より40里目。その奥に清川地蔵尊がある。旧愛宕社。昭和30年、諸神社を合祀して「鍋掛神社」と改称した。

桶沢公民館バス停の向かいに「桶沢神社」がある。看板に葛籠石」とある。旧八幡社。境内に「八幡太郎義家愛馬蹄跡石」がある。戦勝祈願にと馬で一気に駆け上がり、あまりの勢いから岩に蹄跡が刻まれたという。奥の巨石は葛籠に似ているところから義家が「葛籠石」と命名した。

十王堂向かいには「板倉追分道標」がある。元禄7年(1694)建立。「右たなくら 左しらかわ」と刻まれている。寛永6年(1629)紫衣事件で幕府の怒りをかった僧侶沢庵と玉室宗伯が流罪としてここまで護送され、沢庵は奥州道中へ、玉室は棚倉道へと分かれた。

瀬尾家の門脇には那須野で詠んだ曽良の句碑がある。
 かさねとは やえなでしこの ななるべし

その先の石段を上ると「大田原神社」がある。大同2年(807)の創建。大田原の総鎮守で大田原氏の崇敬が篤かった。

その先の右に「浅野八幡神社」がある。この地は天保12年(1841)に加勢友助等によって開墾され、その鎮守として安政2年(1855)に勧請された。
 浅香3丁目交差点の先に「佐久山街道標識」がある。

吉沢バス停の手前に「長屋門」の家がある。その先の左手の祠の中に題目碑「南無妙法蓮華経」が安置されている。

コンビニの所に「鍋掛十文字バス停」がある。12:04に黒磯駅行きのバスがあると書かれている。バス停はたくさんあったがバスが走っているのを見たことがない。時間まで待ってみた。時間通りにバスが来た。黒磯駅からJR東北本線で那須塩原へ、東北新幹線、東海道新幹線とと乗り継ぎ帰った。

鍋掛宿続き

畑の中を黙々と歩くと「大野養蜂園入り口」看板があり、風化の進んだ石仏が左手に祀られている。

大田原宿は、大田原藩12千石の城下町として発展し、日光北街道,奧羽道、塩原道の要衝を控え賑わった。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒であった。

大田原宿

駐在所

親園小学校入り口バス停から道は左にカーブしている。その角に「地蔵尊」が祀られている。3体の地蔵尊が安置されている。

すぐ先の左に八木沢家がある。傷薬の家伝薬「運用膏」の老舗で、幕末戊辰戦役の際に評判を一気に高めた。

大田原城址への道標があり、左に「旧奥州道中大田原宿 下町」碑がある。

右側に「樋沢の大沼」看板がある。今はなにもない原っぱになっている。延歴16年(797)坂上田村麻呂は蝦夷鎮圧に向かう途中、人を食う「大ウナギ」の被害を聞くと、沼を掘り抜き干潟として20尋もあるうなぎを退治した。これによってできた干沢が地名の桶沢になった。

室井病院を過ぎると、右側に「大田原宿新田木戸跡」碑がある。大田原宿の江戸口(南口)である。神明町交差点は大々的な道路工事をしていた。左に曲がる道は日光北街道で、右角に忍精寺がある。文政11年(1828)11代藩主大田原愛清(よしきよ)の開祖。

先ほどの枡形を直進すると「光真寺」がある。初代城主大田原資清の創建。大田原氏歴代の墓がある。隣接する保育園の園児の遊ぶ声が聞こえる。

その先に岩上商店がある。「与一味噌の風味」の製造元。まだ開いてなかった。

大田原芦野線をひたすら歩く。左側に「平家之豪族瀬尾家居館跡碑」がある。中田原城跡。石碑には(九世紀後半 当地より二○○間西に瀬尾家居館跡 瀬尾宮 居館跡の周りに十社の神々の鎮座の跡がみられる。)とある。

右に推定樹齢200年のアカマツが立つ。「与一の里名木選 国井家ノ赤マツ」その向かいには薬王寺があり、境内には庚申塔や念仏百万遍供養塔がある。

櫻観音と呼ばれる馬頭観音が6基並んでいる。櫻観音から右の細い砂利道に入り、突き当りを左折すると、県道に合流する。ほんの少しの旧道だ。

箒川を岩井橋で渡る。徒歩渡しであったが、後に箒川土橋が架設された。フクジュソウが咲いている。

その奥の大日堂には樹齢800年のケヤキがあったが、現在は伐採され、看板だけが残っている。

右手の公衆トイレの壁面に「那須与一画」があり、「扇の的」が描かれている。

佐久山宿へ