
銘菓落雁「樺山錦」の紙屋があるが現在落雁は作っていない。その先には創業250年の萬家(現ささや呉服店)がある。枡形跡を歩き台町交差点を右折する。

ここには追分道標があったが、向かいの台町集会所に移設された。享保9年(1,724)建立の追分道標、「右奥州海道 左在郷道」と刻まれている。内川を金竜橋で渡る。


御廟の中は、檜皮葺総桧造りの立派な宮殿で足利尊氏公像を模刻した像が安置されている。。






2016.1.31~2.01
その先を左に入ると「大手門」があり、そのなかは「お丸山公園」になっている。


その先の右側に武藤酒店がある。江戸時代後期の創業で、裏庭には元市境辺りにあった延享3年(1746)建立の馬頭観音が祀られている。声を掛けると、ご主人が私たちが持っているガイドブックを持って出てきた。前に訪れた人がこの本に載っていると教えてくれたので買い求めたそうだ。


街道の方から神社へ行くと石段の両側に樹齢300年の大きなケヤキが立っている。
本町交差点まででて、道の反対側に入ると、寒竹囲いの家が3軒ある。6代藩主が板塀より費用が掛からず経済的と奨励した。毎年7月、天王祭の1週間前に締め直しが行われる。
勝山城が廃城になると、禄を失った旧臣{平岩佐渡守等36人衆」が宿形成に尽力した。阿久津河岸の集積地で、宿内には諸藩の蔵が並び、会津中街道、会津西街道、原方街道の要衝をひかえ賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒であった。



なまこ壁の蔵の家を左折し、用水を大橋で渡ると、佐久山下バス停がある。バスで野崎駅まで行く予定だったが、バスはデマンドバスで予約しないと乗れないバスだった。タクシーを調べたりしていると、おじさんが話しかけてくれ、困ったら車で送ってくれると言ってくれた。。さっきは出なかったタクシー会社が出てくれて、20分くらいで来てくれることになった。さっきの方が用事を済ませて帰ってきて、車に乗る様に言ってくれたが、丁寧にお礼を言ってタクシーを待った。野崎駅まで3500円かかった。


農産物直売所きらり佐久山のY字路を左に入る。右は福原道で那須氏の居城福原城に至る。
佐久山宿に入った。佐久山前坂交差点を直進する。右に観音堂がある。正保年間(1,644~48)福原城主那須資弥の創建。

右の岡上に「木の股地蔵尊」が鎮座している。堂内には3体の地蔵様が安置されている。ここからつぶれ坂と呼ばれる坂を上がっていく。

JAしおのやを過ぎ、左折すると「ヤマギシズム生活那須実顕地」がある。右の砂利道に入る。大規模な養豚場があり、臭いに難渋するとあるが、今日は風もなく、少し臭いがヤマギシ農場の脇道に沿って進む。

街道に戻ると、本陣跡が右側にある。現「街の駅本陣」で、上野太郎平が勤め問屋を兼ねた。建物は大正15年築の旧喜連川警察署である。前の広場には突抜井戸がつくられている。


ホテルからタクシーで龍光寺に向かう。足利尊氏の開祖で、喜連川氏の菩提寺。墓所には歴代藩主の墓がある。



「史跡奥州街道(古道)」標識を右の道に入る。山道をだらだら下がっていくと、「高塩背山墓道標」がある。(代々喜連川神社の神職を勤める家の生まれ。歌人を志し若山牧水と信仰があった。)ここを入っていくと墓があるらしい。山道が終わるとまた標識がある。
昔はこの道を歩いていたが、崖崩れなどで不通になるため、付け替えられた。

狭間田新田村地内で「坂本宅」に狭間田の一里塚南塚が現存している。どこにあるのかと門のところでうろうろしていると、坂本家の方が出て来て案内してくれた。少し小高くなったところに祠が祀られている。江戸日本橋より32里目.で、北塚は取り壊されてしまった。





弥五郎坂に入ると、右手の奥に三基の「勝善神」が祀られている。その先に「馬頭観音」「二十三夜供養塔」が祀られている。







右側に「高久宅のツツジ群」与一の里名木選。推定樹齢200年のツツジだが、今は花もなく寂しい。
消防団の建物を過ぎると、右側に庚申塔が3基祀られている。

その先の右の石段の上に「温泉神社」がある。文治3年(1187)那須湯本の温泉神社を勧進し、この地の鎮守とした。石段を上ると小屋はあるが神社らしくない。

田町に入ると右に「突抜井戸」のある家があり、声をかけて庭に入れてもらった。三段式の自噴井戸で、今はお風呂に水を入れているので、勢いがないが普段は勢いよく水が出ているとのことだった。飲ませていただいたが、水は暖かかった。冬は温かく、夏は冷たいとのこと。近所でも何軒かこの井戸はあるとのことだった。水質検査もしていて、飲料水になるという証明書も見せていただいた。

下河戸村地内の手塚宅の敷地に一里塚の痕跡を残しているというが、手塚家は応答が無く、敷地内にもそれらしきものは見当たらなかった。そのそばに小さな石仏が3体並んでいる。
大田原市に入った。


土道を行くと鶴ヶ坂の一里塚の近くに茶屋があり「楢木茶屋」と言われた。廃材が積まれているが、その楢の木なのか、廃屋になった茶屋のものなのか分からない。南和田の一里塚は見つけることはできなかった。馬頭観音を過ぎると、県道に出る。


右手に昨日タクシーを呼んでもらった「和い話い広場」(旧喜連川興行銀行)があり、その先に旧旅籠(旅籠山田屋徳平)現かぶらぎ時計店がある。
その先に喜連川神社がある。喜連川の総鎮守。塩谷氏、喜連川氏の崇敬社であった。南参道口には若山牧水と高塩背山の歌碑がある。



その先に御用堀があり、きれいな水が流れている。堀は細長い玉石を二つに割面を現して積んだ玉石割積(公方積)である。
喜連川宿は喜連川藩の陣屋町として発展した。藩主の喜連川氏は足利尊氏の流れをくむ「古河公方」のため、幕府はその格式を認め参勤を免除した。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒であった。
木製道標を左折すると、「河東碧梧桐句碑」に行く。「坂を折りて左右に藪あり 栗おつる」正岡子規門下の秀才であった。傍には弥五郎坂開削の碑がある。私たちは直進する。

山道が終わるところに愛宕山神社がある。元羽黒山神社で地名の由来となった。境内には天保10年(1839)建立の御神燈がある。
街道に戻り、歩くと、左に二十六夜塔、二十三夜塔、十九夜塔が並んでいる。その少し先には、十九夜塔と馬頭観音が並んでいる。
その先の左に八幡神社社票があり、その奥の方に神社が見える。櫻野村の鎮守。疲れていたが、本殿が総ヒノキ白木造りで見事な彫刻が施されていると書いてあったので、行くことにした。実際は、本殿は覆い屋の中で、見ることはできない。窓にカメラをくっ付けて少し見る事ができた。





その先の松山交差点を右に行くと「薬師堂」がある。廃仏毀釈で廃寺となった。境内には文政2年の名号碑「南無阿弥陀仏」等がある。「奥都城」と書かれた墓石が数基あるので、調べると(神道におけるお墓の名称)とあった。「おくつき」と呼ぶらしい。

櫻野中交差点を過ぎると、左に「村上家棟木門」がある。櫻野村の庄屋を勤めた。門には1683年に起きた地震の五十里湖決壊による洪水の水位が残されている。門は300年前に建てられたもので、1.8mまで来た洪水の跡を残す。





上江川郵便局の向かいに「長屋門」がある。曾根田交差点を右折すると「天皇御小休止之際御膳水碑」がある。

JR東海道、東海道新幹線、東北新幹線、宇都宮線と乗り継ぎ氏家駅に着いた。前回の続きから歩き始める。街道に行く前に「西導寺」がある。建久2年(1191)氏家公頼創建で、氏家氏の菩提寺である。

その隣には「滝沢家住宅」がある。紡績業で財を成した旧家で、鐵竹堂は明治天皇の休息所となった。その中には、天皇のために作られた、厠が残されている。敷地内の蔵屋敷には、望楼がある。是も天皇のために作られたそうです。
長屋門、蔵屋敷、鐵竹堂が瀧澤住宅として栃木県文化財に指定されている。
10分くらい歩くと「さくら市 日本三大美肌の湯 喜連川温泉 3.6km」の看板があった。今日泊まるホテルのある温泉だ。あと少し頑張ろう。弥五郎坂の手前に二体の大黒天が祀られている。土台には明治時代の水準点の記号が刻まれている。(標高158m)当時この辺りは水田で不朽物が大黒天以外に見当たらなかった。

西導寺を回り込むと「蔦地蔵」が祀られている。この地は地方歌壇であった。藤原定家の七回忌に面影を模した地蔵が造立された。
分岐のところに「金鶏神社」がある。祭神は猿田彦命で鶏権現ともいう。分岐を右に入る。

分岐に昭和63年建立の男女双体祝言道祖神が立っている。佐久山喜連川線に合流し、坂を上ると右に馬頭尊が立っている。「日支事変之為軍馬出征」と刻まれている。



街道に出て、氏家交差点に向かって戻ると、平岩本陣跡がある。現「平岩歯科」。御本陣平岩六右衛門跡で、氏家村の名主を兼ねた。邸内には弥五郎坂にあった領界石「従是西宇都宮領」が移築されている。



上町交差点を右折すると「光明寺」がある。宝暦9年(1759)の鋳造、高さ3mの青銅不動明王が岩の上に鎮座している。
櫻野交差点の先に手打ちそば「うちだ」がある。瀧澤住宅の案内人おすすめの蕎麦屋で昼食をとる。







五行川を五行橋で渡り、思案橋を渡ると、左に薬王寺がある。応永2年(1191)の創建。本尊は金剛界大日如来。

街道を挟んで、石井脇本陣跡、村上脇本陣跡がある。村上脇本陣跡は現「村上自動車」村上保助が勤めた。石井脇本陣跡は旧「烏山信用金庫」で代々孫兵衛を襲名した。

氏家交差点にある「黒須病院」敷地内に鶏権現が祀られている。御神体は、2本の棒で、上部に男女の顔面が彫られている。小児の咳に霊験あらたかという。


江川を宮下橋で渡り、大沢用水を合柄橋で渡ると公園入口に「史跡明治天皇引田原御小休所跡碑」奥に「明治天皇御休輦之碑」がある。明治9年巡幸の際にここで休息した。








その隣の空き地が脇本陣跡。永井家が勤め、「明治天皇御小休所」碑がある。
荒川に沿って、土手下の道を歩き、連城橋で川を渡ると喜連川宿に入る。宿沿いのホテルは2軒とも閉館していたので、喜連川温泉の亀の井ホテルにタクシーで向かう。1400円だったので、宿の近くにあるようだ。
2日目



しばらく歩くと、左に愛宕山神社があり、参道口に二十三夜塔がある。
その先には大小様々な勝善神が祀られている。
坂の途中には日帰りの早乙女温泉があるが、今は閉鎖されている。
坂一帯は「早乙女古戦場」跡。1549年宇都宮尚綱軍と那須喜連川塩谷軍が激突し、鮎瀬弥五郎実光が尚綱を討ち取り勝利した。弥五郎は祠を建て、尚綱を供養するため五輪塔を安置した。祠は「弥五郎殿」坂は「弥五郎坂」と呼ばれる。
庭には、「天皇御駐輦之所」碑が立っている。

