2019.11.17~18
日本橋~獨協大学前(東武スカイツリーライン)
今日から日光街道を歩き始める。東京駅から日本橋に向かって歩く。AM.7:42日本橋について、日光街道を進む。橋のたもとには「日本道路元標」がある。左手には「三越デパート」がある。元呉服店越後屋です。この辺りには上方商人の江戸店が軒を連ねていた。
駒形一丁目交差点を過ぎると、左手に「諏訪神社」が鎮座している。承久の乱(1221)後に諏訪大社(上社)の分霊を勧請したもの。 駒形二丁目交差点を越すと左手に「駒形どぜう」がある。享和元年(1848)創業のどじょう料理の老舗。店前には久保田万太郎句碑「神輿まつ まのどぜう汁 すすりけり」がある。開店を待つ客が椅子に座って待っている。
梅島駅高架下をくぐると梅田から梅島に入る。梅島三丁目交差点を右に入る。左手に小右衛門稲荷神社が鎮座している。小右衛門新田を開発した渡辺小右衛門が故あって同僚の高橋伴右衛門を討ち、伴衛門の霊を慰めるために建立し、蔵稲魂(うかのみたま)大神を祀ったという。
2日目
「大喜 新大阪屋 当主為成喜太郎は俳句を良くし、俳号を為成菖蒲園といい、高浜虚子に師事し「やっちゃ場句会」が生まれた。」
東参道交差点を左折すると右手に花川戸公園内に「姥が池跡」がある。(姥と娘が旅人を泊めて、夜中に石を落として殺し、金品を奪っていた。ある時観音が若者に化身して宿泊した。娘がこの若者に惹かれて寝床に入り、姥が石を落とし娘は死んでしまった。姥はこの池に身を投げて果てた。)公園内には、「履物問屋発祥碑」「助六歌碑」がある。助六は九世団十郎である。
「日本の道百選 日光街道」の碑がある。この形は埼玉県の形だそうです。奥の細道「矢立の初めとして」にちなむ「矢立橋」を渡る。草加松原遊歩道歩道橋である。
右手の「おせん公園」には、木製の灯篭モニュメントがあり、「従是草加宿」の銘板が取り付けられている。ここが草加宿の日光口である。芭蕉の弟子・河合曽良の像が立っている。左側には「草加せんべい発祥の地碑」がある。(草加松原で茶屋を営む「おせんさん」が「売れ残った団子をつぶして天日に干し、焼くといいと」教えられたのが草加せんべいの由来とされている。
十字路の左手はスカイツリーライン草加駅である。十字路を越すと右に「草加町道路元標」がある。その先の右手奥に「八幡神社」がある。享保年間に稲荷社として祀ったのが始まりで、安永6年(1722)八幡神社が創建された。草加宿下三町の鎮守。
道を挟んで「草加せんべい 池田屋」がある。江戸後期創業の老舗で、せんべいをお土産に買った。 先を斜め左の道に入る。ここには「今様草加宿碑」が立っている。ここが草加宿の江戸口である。
谷津交差点の右手には「瀬崎浅間神社」が鎮座している。瀬崎村の総鎮守。本殿は天保13年(1842)の再建。社殿裏には富士塚や力石がある。力石は若衆の力比べが始まりといわれ、5基の力石が奉納されている。名前と貫目が刻まれている。
セブンイレブンが左手にある交差点を右折する。ここは西保木間旧道の南口である。左に回り込むように進み、竹の塚中学校交差点で県道に合流する。すぐ先の右手に「法華寺」がある。小塚原刑場の刑死者を弔っている。境内には無縁塚がある。
その先の左手には「横山家住宅」がある。伝馬屋敷の面影を残し、地漉き紙問屋であった。建物は江戸後期のもので、上野の戦いで敗れて敗走する彰義隊が切りつけた玄関柱の傷跡や、焼夷弾が貫いた屋根など歴史を物語る建物である。その向かいには「千住絵馬屋吉田家」がある。絵馬をはじめ地口行燈や凧などを描いてきた際物屋。千住絵馬は縁取りした経木に胡粉と美しい色取りの泥絵の具で描く小絵馬である。当代の絵馬師は八代目で、足立区登録無形民族文化財保持者である。
「千住大橋」解説板によると(千住大橋は日光道中初宿、千住宿の南と北を結び、江戸の出入り口として多くの旅人が行き交った。松尾芭蕉もここから奥の細道に旅立った。現在の鉄橋は昭和2年に完成した長さ92,5m、当時としては総アーチ型という最新式の橋だった。)橋を渡り終えると、橋詰の公園に「奥の細道 旅立ちの地」と芭蕉と曽良の絵が描かれている。「奥の細道矢立初めの地碑」もある。
右手の三重テラスを進むと「福富神社」がある。徳川家康は江戸入府直後に参詣。慶長19年(1614)家忠も参詣し、「福富とはめでたい神号だ。」と称賛した。室町三丁目交差点を右折する。往時は薬種店が軒を連ねていた。「本町薬問屋発祥の町」標柱が立っている。
左手に「かどや」は業昭和27年の槍掛けだんごの老舗である。先の十字路の右手が水戸街道で、この分岐には「追分道標」がある。この先には清亮寺があり、松が街道いっぱいに張り出していた。参勤交代の水戸藩がここを通りかかり槍が松に遮られ通行できない。槍もちはいかなる時も槍を横に倒すのは許されなかった。この松に槍を立てかけ向こう側に行ってから槍を取り直せば槍を横に倒したことにならないと粋な計らいをした。それ以来この松は「槍掛けの松」と称せられた。樹齢350年の松は昭和20年に枯れてしまった。
神明町交差点を横断し、左に進み、伝右川を六丁目橋で渡る。渡り詰で右の「札場河岸公園」に入る。綾瀬川に沿って進むと「正岡子規句碑」がある。「梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで」明治17年正岡子規は高浜虚子を伴って草加を訪れた。川沿いに「札場河岸」の石段や常夜燈が復元されている。札場屋野口甚左衛門の私河岸で、江戸との舟運が盛んに行われた。
左手に「草加宿神明庵」がある。旧久野家住宅。安政2年(1855)江戸大地震に耐えた町屋である。「お休み処」になっているが、今日は閉まっていた。 神明庵先は右にカーブしている。枡形跡である。その左手に「神明宮」がある。草加宿の総鎮守で市神社、「六斎市」が立った。
その向かいに「大川本陣跡碑」がある。宝暦4年(1754)まで大川家が勤めた。その先には「清水本陣跡碑」がある。清水家が大川家より本陣職を譲り受けた。 先の左手奥に「氷川神社」がある。南草加村渋沼の鎮守であったがこの地に移り4丁目の氏神になった。。
谷塚入り口交差点を右折すると「善福寺」がある。本堂の阿弥陀如来像は運慶作である。山門前には元禄4年(1691)と正徳3年(1713)建立の青面金剛像庚申塔がある。吉田五丁目交差点の手前右に「火あぶり地蔵尊」がある。(奉公中の娘が母の危篤の報せを受け、主の家が火事になれば家に帰れると思い放火してしまい、「火あぶりの刑」となった。村人が哀れみ、地蔵を祀った。)
島根2丁目交差点の左手に安穏寺参道の題目碑が対である。右手の題目碑の傍に「将軍家御成橋・御成道松並木跡」標柱がある。参道を進むと「安穏寺」がある。
エルツソフィア前交差点には追分道標がある。「右旧日光道中」「左東武鉄道旧線路跡」と刻まれている。16時を過ぎたので、その先の梅島駅から電車に乗り今日の宿がある「草加駅」まで行く。ホテルに入ったのは16時30分を回っていた。もう辺りはすっかり暗くなっていた。
石段を下り、川田橋交差点を横断し、旧道に復帰し、旧梅田村を進む。この地は海に面した河口でした。そこを埋め立て新田が開かれたところから埋田と言われ、転じて「梅田」になった。左側に「石不動尊」が祀られている。堂内にも耳の病に霊験あらたかな石造不動尊が安置されている。
変則Y字路のところに「道標」がある。「下妻追分」である。この辺りが千住宿の日光口である。「北へ 旧下妻道」「北西へ 旧日光道中」そのまま進むと、「骨つぎの名倉」でしられた「名倉医院」がある。関東一円に知られた骨接ぎで、駕籠や大八車で運ばれる骨折患者でひしめき、門前の広場にはこれらのたまり場になっていた。
その先を右折すると「森鴎外旧居跡」があるが、現在は大きな工事をしていて標石はどこかで保存されているようだった。鴎外は陸軍軍医に任官し、明治27年、ドイツに留学するまで、ここから三宅坂の陸軍病院に通った。
千住宿は飯盛り旅籠が軒を連ね、「愛想よき千住女郎衆に袖ひかれ、わらじとくとく泊まる旅人」と賑わった。水戸街道や下妻道の分岐を控え大いに賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒であった。そばに「千住掃部宿』の看板がある。(掃部宿は千住の堤外河原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿された。)
千住河原町から千住仲町に入ると左手に「源長寺」がある。将軍鷹狩りの際に「御膳所」となり、日光門跡日光参拝や勅使下向の際は脇本陣を勤めた。
通りの左手に「千住宿歴史プチテラス」がある。門脇に芭蕉句碑がある。「鮎の子の しら魚送る 別哉」 その先に「やっちゃ場北詰」がある。
「元青物問屋 柏屋 」「やっちゃ場最大の特徴 投師の存在 店を持たず仲買人の店先を借り、セリに参加して大八車に商品を乗せいち早く東京市内の全市場に駆け付け売りさばく。」
「谷清 谷塚屋 江戸後期やっちゃ場で両替商を営み、その後青物商となる。
足立市場前交差点を横断し、東京都中央卸売市場足立市場前の筋に入る。このY字路に「右 国道四号」「左 日光道中」道標がある。足立市場の並びには「日光道中 千住宿」石柱と「芭蕉像」が立っている。
公園脇を左に進むと「橋戸稲荷神社」がある。延徳2年(1490)創建。拝殿の前扉に名工伊豆長八による鏝絵(こてえ)の白狐が彫刻されている。白くて良く分からなかったが、今でもしっかり残っている。
先の左手には誓願寺がある。奈良時代末期の創建で、本尊は聖徳太子作の阿弥陀如来像である。境内には天正19年(1591)家康がこの地を巡覧した際に腰かけたという榎が2本あったという。庚申塔の青面金剛像、青面金剛供養塔がある。その先に「千住の河岸」の解説板がある。(千住大橋の袂には江戸時代、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれた材木を取り扱う家が並んだ。材木問屋は熊野神社の門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。)
回向院からの道は「コツ通り」と呼ばれている。南千住交差点を横断すると左手に「スサノオ神社」がある。この地の鎮守で「天王様」と呼ばれている。社殿前に天王社の大銀杏がある。この皮を煎じて飲むと乳の出が良くなると伝わっている。境内には瑞光石がある。この塚を古塚といい「小塚原」の名前の由来となっている。芭蕉句碑(行く春や 鳥啼き魚の 目は涙)がある。
吉田松陰の墓がある。伝馬町牢牢屋敷で斬首され、罪人として回向院に葬られた。橋本佐内は安政の大獄で開国派として危険視され、同じく斬首された。
門の脇には「吉展地蔵尊」が祀られている。誘拐事件で命を落とした吉展ちゃんを祀っている。その先の左手に「回向院」がある。壁には「観臓記念碑」がある。明和8年(1771)蘭学者杉田玄白等は蘭語の「ターヘル・アナトミア」を検証するため、ここで刑死者の腑分けを行い、安政3年(1856)解体新書を著した。
街道に戻り浅草交番前交差点から2本目を左折すると「駿馬塚」がある。源義家が陸奥へ出征する際にこの地で愛馬「青海原」は絶命し、ここに葬った。 1本目を左に入ると「春慶院」がある。新吉原の名妓2代目高尾太夫の墓がある。墓石には遺詠「寒風にもろくもくつる紅葉かな」が刻まれている。仙台藩主伊達綱宗の意に従わなかったために斬殺された。
山谷堀に沿って右に進み2本目を左に入ると右手に「今戸神社」がある。康平6年(1063)奥州征伐に向かう源頼義、義家父子はこの地に京の岩清水八幡宮を勧進し「今戸八幡宮」とした。縁結びの神様ということで、若い女性がたくさん参拝していた。境内には「今戸焼発祥之地碑」がある。社殿の招き猫は今戸焼きである。 並びに「沖田総司終焉の地碑」がある。労咳を患い、この地で亡くなった。享年25歳。
浅草7丁目交差点を過ぎると街道を斜めに「山谷堀」が横切っている。今は埋め立てられて「山谷堀公園」になっている。吉原への遊客を乗せた「猪牙舟」は隅田川から山谷堀に入り吉原大門に着けた。
駒形西詰交差点の右手に「駒形堂」がある。天慶5年(942)の創建で、祈願する際に駒の形をした作り物を奉納したところが名前の由来になっている。境内には綱吉が建てた「浅草観音戒殺碑」がある。駒形堂から十町余りの川筋での魚介の殺傷を禁じた。この地は浅草寺の観音像が隅田川から示現した霊地であった。通りに出ると、竹でできた聖火台がある。マラソンコースだったこの場所に作ったが、札幌に移ってしまったので、残念ということだった。
厩橋手前を左に入ると、右手に赤い鳥居が見える。入っていくと「蔵前神社」が鎮座している。五代将軍綱吉が江戸城鬼門除けの守護神として京の岩清水八幡宮を勧請した。「力石」を持ち上げる力士の絵が描かれている。往時は境内で勧進大相撲が興行された。両国回向院、深川八幡宮が三大勧進相撲工業地であった。
街道に戻ると、蔵前一丁目交差点手前の左手に「天文台跡解説」がある。伊能忠敬の師匠天文方高橋至時(よしとき)はここで天文観測を行い、正確な暦の制作に従事した。「旧浅草蔵前」の名前由来説明版がある。(この付近に幕府の米蔵があったことから名づけられた。この米は幕府の非常備蓄米としての役割と、領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米であった。)
JR総武線高架を浅草橋架道橋でくぐると、すぐ先の左手奥に「銀杏岡神社」が鎮座している。永承6年(1051)源義家は奥州出征の際に、隅田川の川上から流れ着いた銀杏の枝を拾い上げ、地面にさして「朝敵退治のあかつきに枝葉栄うべし」と戦勝の祈願をした。奥州平定後戻ると銀杏が大きく繁茂していた。この神恩に感謝して八幡宮を勧請した。この時の大銀杏は文化3年(1806)の大火で焼失し、境内の大銀杏は後世のものです。
神田川を浅草橋で渡る。寛永13年(1636)の架橋で、当初は浅草御門橋と呼ばれた。屋形船や遊漁船が係留されている。神田川は三鷹の井之頭公園内にある井之頭池の源を発し、隅田川に落ち合う。新吉原が盛んになると、この辺りから柳橋にかけて船宿が軒を連ね、チョキ船と呼ばれる吉原への舟が往来した。橋を渡ると「浅草見付跡碑」がある。江戸城外の城門で「浅草御門」と呼ばれた。振袖火事の時、伝馬町牢屋敷から囚人が脱獄したとの誤報を信じた役人がこの門を閉じたため、2万人以上の犠牲者が出た。
ビルの壁には「日本最大の問屋街を探検しよう」の看板が出ている。この辺りは「横山町問屋街」で今も衣料繊維問屋が軒を連ねている。浅草橋南交差点を越えた左手の交番の並びに「郡代屋敷跡」がある。関東の幕府直轄(天領)の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東東郡代の役宅跡である。代々、伊奈氏が世襲した。
その後も元に戻れず、広い道を「浅草橋交差点」まで進んだ。
その先の地下横断歩道で横断する。地下道を出ると左手に「小津和紙」がある。伊勢商人の小津清左衛門長弘は江戸随一の商業地であった大伝馬町に承応2年(1653)創業した。幾多の事業を経て「紙商小津」として現在に至っている。店を左に回り込むと「於竹大日如来井戸跡」がある。大伝馬町馬込の下女「お竹」は大日如来の化身であった。
「鮒平と千住 川魚問屋鮒平は初代平次郎によって明治初頭に創業された。現在千住の名物となっている鮒のすずめ焼きを調理して新橋の老舗佃煮店に卸していた時代もあった。」
「天文台跡」の先を進むと右側に「鳥越神社」がある。この地の産土神。「千貫神輿」は江戸一の重さを誇る。
「椙森神社」に行こうとして、道が分からなくなり、いろいろな人に聞きながら道を探す。(大伝馬本町通りを進み、右手の日本橋大伝馬町プラザビルを右折すると、先の左手に神社があったようだ。)文正元年(1466)太田道灌が雨乞いに霊験があったとして山城國稲荷山五社大神を勧請して祀ったところから「椙森稲荷」とも呼ばれた。境内には大正8年建立の「冨塚」がある。湯島天神、谷中天王寺とともに江戸三富である。江戸はしばしば大火に見舞われ、その再建費用捻出のため、富興行が行われた。
当寺の八世日芸上人が宇都宮城釣天井事件を予言したことから徳川家祈願寺となり葵の紋の使用が許され、寺号の国土安穏寺を賜った。将軍専用の御成門、御成道が造られ、松並木が植栽された。境内には家光の御手植の松がある。
ホテルを出て、スカイツリー線草加駅から梅島駅に戻る。AM、7:50歩き始める。少し経つと、霧雨が振り出し、そのうちに本降りになった。今日の天気予報は曇りだったのにと傘を挿して歩く。
社殿の前には「碁盤の儀」と書かれ、碁盤が置いてある。皇室では、七五三に当たる碁盤の上から飛び降りるという儀式が行われる。「碁盤の目のように筋目正しく育つ」「運を自分で開く」「ひとり立ちする」という願いがこめられているそうです。
鼠小僧の墓
今回はここまでにして百代橋を渡らず、左折する。百代橋のところに「日光街道草加松原」碑が立っている。13時46分だった。東武スカイツリーライン獨協大学前から電車で上野まで行き、東京に出て新幹線、東海道線で藤枝に帰った。
ハーブ橋を過ぎると左手に「奥のほそ道の風景地草加松原碑」がある。ドナルド・キーンの揮こうである。百代橋手前に松尾芭蕉奥の細道碑」がある。「月日は 百代の過客にして 行きかう年も又旅人也」が刻まれている。
望楼に上ると草加の町が一望できる。望楼前には「松尾芭蕉像」がある。深川から舟で千住に着いた芭蕉は見送りの人に別れを告げて草加に至った。綾瀬川に沿って遊歩道を進むと「高浜虚子句碑」がある。「順礼や 草加あたりを 帰る雁」虚子は正岡子規に師事した。 大雨の度に川筋が変わるところから「あやし川」と呼ばれた。伊那忠次によって堤が整備され流路が安定した。綾瀬川は隅田川に落ち合い江戸に通じる重要な水路であった。
その先の右側に「藤城家住宅・店舗・内蔵・外蔵」がある。国登録有形文化財である。店舗は昭和初期の建築、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの内蔵と外蔵は明治初期の建築である。 先の左手に石標がある。「三丁目橋」と刻まれている。流れに板橋が架設されていた。
交差点を越し1本目を右折し突き当りを左折すると「三峰神社」がある。火伏盗賊除けの守護神。街道に戻り右手の銀行前に道標がある。「日光街道」「葛西道」と刻まれている。
左手の草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡。主の浅古半兵衛は江戸店を出し、全国2位の質屋であった。地蔵堂は屋敷神で、「子育地蔵菩薩立像」を安置している。その続きに古い家と蔵があったが浅古家であろうか。
当初、この一帯は沼地が多く街道は大きく迂回していた。大川図書は幕府に願い出て千住~草加間をほぼ一直線に結ぶ新道を開削し、草加宿を創設した。本陣1軒、旅籠67軒であった。宿並は天明4年(1870)の大火で灰塵に帰してしまった。
毛長川橋前交差点を横断し、国道4号線をくぐると左手に「保木間水神宮」がある。(ある剛の者が釣りをしていると蛇が襲ってきた。これを一刀両断にする。しかし剛の者は蛇の毒臭に冒されて亡くなってしまった。水神宮は切り殺された蛇を祀っている。)突き当りの県道49号線を左折し、毛長川を毛長橋で渡る。(ある女性が嫁いだが折り合いが悪く、川に身投げをする。その後長い髪の毛が見つかり、これを祀ったのが毛長神社で、以来この川を毛長川と呼ぶ。)毛長川は足立区と埼玉県草加市の堺である。
街道に戻り、左手に入ると「十三仏堂」がある。行基作といわれる「虚空蔵菩薩像」が安置されている。厨子内の飯綱権現像は明治6年高村東雲の作であるが、堂は閉まっていて何も見えない。(旧保木間村の三ノ輪厨子によって守られている。三ノ輪厨子13戸の人々によってこれだけの仏像を守護し、今でも講中による行事が行われている珍しく貴重な存在である。)
鷲神社を境に島根から六月に入る。六月郵便局で入金し局印を押してもらう。郵便局先の右が成田道口である。草原の先に成田道道標があり、傍らに小社がある。増田橋交差点手前の右に増田橋跡標石がある。標石には「北へ旧日光道中」「西へ旧赤山道」と刻まれている。増田橋は千住宿と草加宿の中間に位置し「立場」があった。
街道に戻り島根鷲神社前交差点を左折すると「鷲(おおとり)神社がある。文保2年(1318)の創建で島根村の鎮守。享和2年(1802)建立の明神型石鳥居は区有形文化財指定。社殿脇には享保6年(1721)に八代将軍吉宗が腰かけた「将軍石」がある。境内には富士塚もある。
荒川の堤下に突き当たる。左折して千住新橋をくぐり、先のらせん階段で千住新橋上に出る。荒川は大正13年に開削された人工河川で、往時はこの辺り一帯は草原だった。千住新橋で荒川を渡る。渡り詰を左折して土手道を進む。対岸のビル群とスカイツリーが良く見える。
その先のビルの前に「芭蕉木像」が立っている。このお顔のほうが先ほどの石造より芭蕉さんらしい。その先の左側に「問屋場跡・貫目改所跡」碑が立っている。貫目改所は問屋が扱う荷の重量を検査した。
京成本線ガード手前の左手に「元やっちゃ場南詰解説」がある。この先には30軒の青物問屋が軒を連ね「やっちゃいやっちゃい」のせり声が響いていた。
千住大橋の手前を左に入ると左手に「熊野神社」がある。永承5年(1050)源義家の創建。奉行伊奈備前守忠次は荒川(現隅田川)に千住大橋を架ける際に当社に成就を祈願した。文禄3年(1594)無事に橋が完成すると、社に残材で社殿の修理を行い、以後大橋の架け替えごとの祈願成就と社殿修理が恒例となった。
橋本佐内の墓
南千住駅前歩道橋・跨線橋を渡る。左手に延命寺があり、境内は小塚原刑場跡である。東海道の鈴ヶ森刑場と並ぶ2大刑場跡である。処刑された死体は放置され、骨が散乱していたことから「骨ヶ原」と呼ばれた。南無妙法蓮華経題目碑がある。「首切り地蔵」は刑死者供養のため造立。
その奥に「東禅寺」がある。境内に江戸六地蔵のひとつ、宝永7年(1710)造立の鋳造地蔵菩薩が安置されている。 東浅草を抜け、明治通りが交差する所が「泪橋」で、小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをした。「思川と泪橋」の解説板が立っている。
参道口に「池波正太郎生誕の地碑」がある。大正12年に浅草区聖天町で生まれた、時代小説作家である。
境内には「築地塀」が残されている。江戸時代の名残をとどめる唯一のもので、貴重な文化遺産で、全長25間(約45.5m)。広重の錦絵にも描かれている。
厩交差点を左折すると「榧寺」がある。本堂の扉には葵の紋があしらわれている。かっては、境内に樹齢千年の大木があったが、享保の台風で倒れてしまった。寺の前には「葛飾北斎の榧寺の高燈籠」図がある。
須賀橋交番前交差点を右に進むと、左手に「第六天榊神社」が鎮座している。境内には「浅草文庫跡碑」がある。明治7年創立の「官立図書館跡」がある。
柳町二丁目交差点を越した左手に「須賀神社」が鎮座している。推古天皇御代(600)の創建で、蔵前の総鎮守。病が平癒すると団子を奉納したところから「笹団子天王」と呼ばれた。
駒形橋西詰交差点正面のY字路を左に進むとに「浅草寺雷門」がある。門の前は観光客が溢れ、道を通るのも大変でした。数十年前に来たときはこんなではなかった気がする。
蔵前1丁目交差点を反対側に進み、一本目を左折すると、「楫取(かじとり)神社」がある。御蔵造営用の石材を運ぶ遠州灘で遭難しかかった時に現れた稲荷を祀っている。
左側に「元祖源平せんべい」があり、店先でせんべいを焼いていた。焼きたてのせんべいを買って、食べながら歩く。
初めのうちは東京都区内を歩き、浅草の混雑ぶりにあきれたが、だんだん街道らしくなり、草加松原遊歩道は歩いていて気持ちよかった。今回もいろいろ間違ったり、転んだりしたが、天気も良く快適なウオーキングでした。東京の私鉄事情が良く分からないのでしばらく緊張が続くと思います。
その先の右手に「おせん茶屋公園」がある。名前は草加せんべいの伝説上に創始者「おせんさん」にちなむ。公園内には「せんべいのできるまで」解説板がある。公園前には「日光街道道標」がある。
その先の「草加住吉郵便局」で入金し印を押してもらう。郵便局手前を右折し突き当りの道の反対側に「明治天皇草加行在所」がある。大川図書の子孫で谷古宇村の名主を勤めた大川弥惣衛門家に明治天皇は2度宿泊した。この記念碑は複製で本物は歴史民俗資料館に保存されている。 街道に戻り、右にきんざんじ屋の脇に明治44年建立の「道路元標」がある。ここが草加宿問屋場跡である。ヒビが入っていて鉄鋼で支えられている。
吉田松陰の墓
芭蕉・奥の細道碑
その先を左に入ると奥に「東福寺」がある。慶長11年(1606)草加宿開祖大川図書の創建で墓がある。墓は探したが見つからなかった。山門は桟瓦葺四脚門で、本堂の欄間彫刻も市有形文化財に指定されている。
「車茶屋 現在の駐車場で第八車の預かりと茶屋を兼ねたもの。」
草加市役所交差点手前に「草加神社社標」が立っている。交差点手前の右手に「回向院」がある。元禄14年(1701)創建。旅籠武蔵屋が抱えた飯盛り女の墓がある。
竹の塚から保木間に入り、右手の淵江小学校手前を右に入ると「保木間氷川神社」がある。保木間村の鎮守である。淵江領を支配した千葉氏の陣屋跡で、当初守護神の天神社を祀ったものである。脇宮の「保木間稲荷神社」は文化年間の創建で、祭神の疱瘡大神は天然痘に霊験あらたかである。境内には立派な富士塚がある。