備後北交差点右に「備後の一里塚跡碑」がある。江戸日本橋より8里目。その先の右手に「善ぎょう寺」があり、境内には親鸞聖人旅姿の像がある。

2021.10.21~22

左側に「不二山浄春院寺標」がある。その先で杉戸町に入る。春日部市と杉戸町の堺には、「北緯36度線地球儀」モニュメントがある。

獨協大学前~東武動物園前

コロナで2年間出来なかった街道歩きに出かけた。東海道線、新幹線、東京メトロ、スカイツリーラインと乗り継ぎ、9時まえに「獨協大学前駅」に着いた。予報通りの雨で、駅前で、カッパを着たり、旅支度をする。お酒を飲んでいるおじさんに絡まれながら、街道に急ぐ。百代橋は、奥の細道草加の章段にちなんで命名された。この辺りは、「草加松原」と呼ばれ、松並木が続いている。天和3年(1,683)に関東郡代伊那半右衛門が綾瀬川を改修した際に植栽したもの。千本松原と呼ばれ、名所であった。

右側に奥に「香取神社が鎮座する。大沢の総鎮守。慶応2年(1866)建立の奥殿外壁には紺屋の作業風景が成功に彫刻されている。越ケ谷は染物業が盛んであった。社殿奥にまわると、御神木のイチョウの木があり、拝殿前に「ご自由にどうぞ」と銀杏の袋が置いてあった。

南越谷1丁目交差点手前の左側の奥に「天皇田植御覧之處碑」がある。明治9年、奥州巡行の際に田植えを上覧した。並びに大山巌書「忠勇碑」や「用水完成記念碑」が立っている。

橋を渡ると「蒲生の一里塚」があり、東塚が残っている。塚上には榎が繁茂し、愛宕社が祀られ、塚下には地蔵尊が並ぶ。江戸日本橋より5里目。塚の前には旧道跡が残る。

2日目

東武スカイツリーライン高架をくぐると、「古奥州道道標」がある。青面金剛庚申塔は道標を兼ね、「右じおんじ のじま道」と刻まれている。道を進むと、左手の奥に立派な門がある。地図から行くと「宮内庁埼玉鴨場」の様だ。その先の左手の奥に「大林寺」がある。門前にある「大乗妙典一千部供養塔」は元文5年(1740)の建立。

堤根南歩道橋手前を斜め左に入る。右手には「堤根立場跡」がある。高野家が立場茶屋を営んだ什器類が残されている。その反対側には「九品寺」があり、街道沿いに道標を兼ねた庚申塔「左日光 」「右江戸」がある。

大林村の鎮守である「香取神社」を過ぎると、地蔵尊や青面金剛庚申塔などの石塔のある墓地が何ヵ所かある。

清地3丁目交差点の先に「関口酒造」がある。旧屋号「豊島屋」創業文政5年(1822)銘酒「杉戸宿」の蔵元。その先には「伏見屋」がある。寬延元年(1784)創業の「伏見屋久五郎」跡。造り酒屋であった。

元和2年(1616)近郊の郷村を集めて宿場を創設した。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒であった。日本武尊が東征の際に杉の茂る湊に上陸。これを「杉門」と呼び、「杉戸」となった。

本郷交差点を右に入ると田んぼの中に「香取神社」が見える。境内には寛政6年建立の青面金剛像庚申塔等がある。

信号交差点を左折すると、右奥に「八坂香取稲荷神社」がある。元旦の歳旦祭には千貫神輿の渡御が行われる。隣の仲蔵院にある松の木がこちらにまで枝を伸ばし、支柱で支えられていた。その先のY字路を左に進むが、追分道標がある。

新町西交差点手前に「佐渡屋跡」がある。戦前まで浜島家が米穀商を営んでいた。明治時代前期築の土蔵(国登録有形文化財)を残している。太落古利根川にかかる新町橋を渡る。

交差点を奥に入っていくと「東八幡神社」がある。遠くからイチョウの大木が見える。粕壁宿の鎮守。新田義貞の鎌倉攻めに功があった春日部時賢が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したもの。境内には、樹齢約600年の大ケヤキは御神木である。本殿の周囲には立派な彫刻が施されている。

八幡神社を出て、交差点を左に進む。すぐに「東陽寺」がある。「芭蕉宿泊」の碑があり、本堂前には「廿七日夜 カスカベ二泊ル江戸ヨリ九里余」と刻まれた碑がある。

東武野田線ガードをくぐると、左側に「東町大下稲荷神社」がある。その先の一宮交差点のところに「八坂神社」がある。粕壁宿の市神として信仰され、牛頭天王社と呼ばれた。境内には文政2年(1819)建立の猿田彦大神塔等がある。

上間久里辺りは、「間久里の立場」で8軒の茶屋が軒を連ねていた。「秋田屋」は参勤の秋田半藩佐竹侯が必ず立ち寄り「鰻蒲焼」に舌鼓をうった。秋田屋には藩主専用の座敷「秋田炉(しゅうでんろ)」があった。

蒲生大橋を渡り向こう側に行く。大橋からは復元された「藤助河岸跡」が見える。江戸への年貢米の積み出しが行われ、維新後も舟運が盛んであった。高橋藤助の私河岸である。蒲生大橋は、大橋土橋と呼ばれ、足立郡(草加市)と埼玉郡(越谷市)の堺であった。

越谷宿

しばらく川沿いを歩くのが街道だったのだが、間違えた道を歩いてしまい、地元の人が産業道路と呼ぶ道まで歩いてしまった。教えられた通り歩くと県道49号線の「蒲生駅入り口」の交差点にでた。ここからまた街道を歩く。

瓦曽根2丁目交差点を過ぎると、右手に「照蓮寺」がある。秋山家墓所に「千徳丸供養五輪塔」がある。天正10年(1582)武田勝頼が自刃すると、家臣が千徳丸を瓦曽根村に連れて帰り、潜居したが、.早世した。  街道はその先のY字路を左に入るが、その交差点に「里程標」があり「東京雷門 大宮」への距離が刻まれている。

堤根中交差点手前に「馬頭院」がある。文政5年(1272)建立の「板石塔婆」がある。明治の世に、新知学校となった。堤根交差点を斜め左に入る。「三本木の一里塚」跡がある。江戸日本橋より10里目。北塚は堤根村地内、南塚は清地村地内で塚木はともにエノキであった。

粕壁宿は古利根川の舟運により江戸と結ばれ、諸物資の集散地として栄え、毎月四と九の付く日に「六斎一」が立ち賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4軒であった。

備後交差点の手前に「称名寺」がある。境内には「生信忍譽」と刻まれた「金精様」と呼ばれる男石がある。石は見つけられなかったが、境内には立派なイチョウの木が立っている。

中町に入り、左に曲がると「浅間神社」がある。境内のケヤキは樹齢600年で、市指定天然記念物になっている。立派なケヤキだ。その先の路地を入ると黒板塀内に樹齢400年のタブノキがあり、市指定天然記念物になっている。とあったが、屋敷はなくマンションが建っていた。その時に切られたのか、木は主幹だけが残り、枝が全部切られていた。

橋の袂には、「松尾芭蕉文学碑」がある。「奥の細道」の一節「その日ようやく草加という宿にたどり着にけり」と刻まれている。雨の中を進むと、左側に「水原秋櫻子句碑」がある。「草紅葉 草加煎餅を干しにけり」秋櫻子は高浜虚子に師事した。

「日光道中 粕壁宿」図

春日部駅から電車でせんげん台駅に戻り、街道歩きを再開する。新方川(元は千間堀と呼ばれた。埼玉県越谷市と春日部市の堺である。)を渡り、会之堀川に沿って歩く。左手に「大枝香取神社」と「歓喜院」がある。

雨が止まないので、今日はここまでとし「せんげん台駅」から電車に乗り今日の宿がある「春日部駅」に向かった。

大袋駅入り口を過ぎると、右の奥に「下間久里香取神社」がある。下間久里村の総鎮守。例大祭の奉納される獅子舞いは太夫獅子、中獅子、女獅子の三頭一組で舞う「祈祷獅子」の形態を保っている。県指定無形民俗文化財で、神社前の案内板に写真が載っていた。

杉戸宿

ヒイラギの古木。葉のギザギザがなくなり丸くなっている。

左側に「観音寺」がある。本尊の聖観音は「こぶとり観音」とも言われ、イボ,コブ、アザにご利益がある。楼門は市指定有形文化財。境内には、芭蕉句碑がある。「毛のいへば 唇寒し秋の空」 芭蕉は当寺に宿泊したとも言われる。

その先に天保5年(1834)建立の「道標」がある。「西南いハつき(岩槻)北日光 東江戸 右之方陸羽みち」

公園橋交差点手前に田村荒物店」がある。裏に豪勢な家屋と蔵を残している。その先には「永嶋庄兵衛商店」がある。慶応年間創業の米問屋で、屋根に鍾馗様像を乗せている。

この辺りには「本陣跡」「脇本陣跡」があるが、見落としたのか、見つけることができなかった。関根本陣跡がある路地を右に入っていくと川沿いに「碇神社」があり、神社にはかって下喜蔵河岸があった。境内のイヌグスは樹齢600年。船頭にとって、河岸の目印になっていた。かっては樹高12mだったが、台風の被害により現在は7mである。

粕壁宿

正善小入り口交差点を右に入ると「建御雷(たけみかづち)神社」がある。元は雷電社と称していたが、明治になって現在の社号に改めた。境内には富士浅間宮大権現を祀る「富士塚」がある。

右側に「市神社」が鎮座する。本町の鎮守で、二と七のつく日に「六斎市」が立った。その先の左側には、「大松本本陣跡」「虎屋脇本陣跡」「玉屋脇本陣跡」、右側に「問屋場跡」と続くが、何も残っていない。 その先の左側に「照光院」がある。梵鐘は安永8年(1779)の鋳造。明治10年、大沢小学校が開校されその碑がある。。

右手には「塗師屋(ぬしや)」がある。「太物荒物店塗師屋市右衛門」跡。蔵造りの商家と蔵を残している。漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商った。その横には「鍛冶忠」があり、蔵造りの商家を残している。

街道に戻ると、左手に「木下半助商店」の案内板がある。(日光街道に面して店を構える商店で、店舗、土蔵、石蔵 主屋稲荷社など多くの建物が建られている。)とあったが、現在はその面影はない。

本陣、1軒、脇本陣 4軒 旅籠52軒であったが宿並は、明治7年の大火で灰塵に帰してしまった。

その先の左側に「石仏石塔」が祀られている。祠の中に、青面金剛像庚申塔、寛政7年(1795)建立の馬頭観音像が安置されている。

東京外環自動車道の高架ガードをくぐると、「奥の細道壁画」(タイル絵)が描かれている。草加にたどり着いた芭蕉と曽良の旅姿が描かれている。その先の左手には「金明愛宕神社」が祀られている。

中曽根橋」を過ぎると、草加松原の北端に石の公園のようなものがあり。モニュメントの水環が置かれている。人と自然が環となり治水に取り組む姿を表現したもの。

今回は、ここで終了とし、本陣跡地前から左に曲がり、「東部動物園前」からスカイツリーラインに乗り、帰途についた。今回は、初日は雨、翌日は風に悩まされたが、2年ぶりに歩けて、良かった。見どころはあまりなかったが、街道歩きを満喫できた。

その先に復元された「杉戸高札場がある。奥には「近津神社」があり、清村の鎮守。見事な彫刻の施された社殿は平成13年に焼失した。