東海道、姫街道、伊勢街道を歩いた後、しばらくおやすみしていたが、以前から歩いてみたいと思っていた中山道を歩く事にした。
日本橋~浦和 H.27.1.29~30
早朝、家を出て、新幹線で東京まで出て、日本橋まで歩いた。8時5分に日本橋に着き、中山道を歩き始める。日本橋は、東海道をはじめとして、5街道の起点になっている。橋詰には高札場があり、魚市場があった。
大正大学のサザエ堂。道を聞いた女性の娘さんがこの大学に通っているそうで、ぜひ見て行って。と言われたので、寄ってみた。さざえのようにぐるりとまわって上に行くと、聖観自在菩薩が祀られている。正式名称・鴨台観音堂
その先に、「石町時の鐘 鐘撞堂跡」の案内板がある。(江戸時代に江戸市民に時刻を報せる時鐘である。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され代々引き継がれた。現在は、宝永8年に制作された鐘が十思公園に残っている。)その先の長崎屋があったため「石町の鐘はオランダまで聞こえ」と川柳にうたわれたそうです。
滝野川に入ると、野菜の種を商う旧家を残している。埼京線の踏切手前を左折すると、新撰組局長近藤勇の墓がある。近藤は、平尾一里塚あたりで斬首され、遺体はここに埋葬され、首級は京に運ばれ、三条河原に晒された。 新撰組隊士供養塔は、明治9年、隊士の長倉新八が造立したと記されている。
都電荒川線の手前に巣鴨猿田彦大神庚申堂がある。庚申の使いである猿が赤い布を身にまとい旅人を迎えます。庚申塔は、五穀豊穣、無病息災、悪疫退散を願って建立された。
国道17号線に合流した先が旧蕨村である。ガソリンスタンドのところに「中山道蕨宿碑」、右には木戸を模したモニュメントがある。旧道に入ると、所々に古い家が残っている。
埼京線で「戸田公園」に戻り、しばらく迷って、9時30分に前日の川岸3丁目交差点に着き、歩き始めた。少し先の左に下戸田一里塚があるようだが、つつじ幼稚園の前に迎えに出ていた先生方に聞いたが、知らないということで、見つけることはできなかった。 本町一丁目交差点から旧道は斜めに伸びていたが、今は消滅しているので、右折し一本目を左折し、下前公団通りを歩く。先の五差路を斜め左に入り、旧道が復活する。ここに下戸田ミニパークがある。雪が積もり足跡が点々と着いた。
本郷弥生交差点の次の信号が本郷追分である。直進の道は日光御成道(岩槻街道)、将軍の日光社参の御成道で、将軍は岩槻城で一泊し、翌日幸手で日光道中に合流した。 街道は追分を左折する。角の高崎屋は宝暦年間から続く酒屋で、両替商を兼ね、「現金安売り」で繁盛した老舗である。「本郷追分一里塚」がある。日本橋から数えて一里目である。
先に進むと、東大の赤門がある。大学の敷地は加賀藩上屋敷跡である。赤門は御守殿門で、十一代家斉の娘、溶姫が前田家に輿入れする際に建立された。少し行くと、正門があり、奥の方に有名な安田講堂が見えた。
旧道は、鳥居脇の天野屋と冨久無線の間に入る。中山道道標がある。
赤煉瓦に沿って進み、神田郵便局前交差点を右折し、神田川を昌平橋で渡ると再び17号に合流する。神田明神下交差点で左折する。湯島聖堂の築地壁が街道に面している。
橋のたもとには、「日本橋魚河岸跡」がある。(日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする魚河岸がありました。この魚河岸は大正11年に現在の築地に移った。)とあります。
街道沿いに「旧駒込東片町」の案内板がある。(昔は、岩槻街道と中山道に沿って発達した宿駅で、駒込宿の名があった。寛永年間、村内は殆んどが大名屋敷、武家屋敷、寺領になったため、村民は中山道の東側に移った。片側だったので、駒込東片町となる。) その先の小学校前には、「本郷高等小学校跡」がある。
碑を過ぎると、偏照寺がある。往時、境内は馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬が繋がれていた。参道口には、寛政10年建立の馬頭観音がある。中はがらんとして、廃寺になったのかと思っていたが、張り紙がしてあって、再建のため取り壊して更地になっていました。
高架をくぐった先に、熊野神社がある。ずいぶん雪が積もっていた。里人から「おくまさま」と呼ばれ、辻の鎮守様と敬愛されたそうです。
中山道ふれあい広場には、火の見やぐらを模した時計台がある。蕨宿京口には宿碑が立ってる。そこにある駐在所で、これから行く道を聞いた。
「地蔵の小径」の道標のところに萬寿屋がある。10代続く煎餅屋で、昔は茶屋も兼ねていた。雪の道を歩いてきて体が冷えてしまったので、ここで一服することにした。美味しい煎茶と金つば(相棒は蕨もち)でほっと一息。お土産に煎餅を買って親切なおばさんと別れた。
宿に入ると、「歴史民俗資料館 分館」がある。明治時代に買継商であった邸宅を開放している。雪で庭がとてもきれいでした。
土手をおりて進むと、水神社があり「川岸の獅子」の案内板がある。(川岸に住む人々の守り神になっている。祭礼に使う獅子頭は、荒川のそばにあった羽黒大権現に古くから伝えられたものであった。昔は、この年に初めて取れたキュウリを水神社に供え、荒川に流してからでないと泳ぐことができないとされていた。)
仲宿に入る。中山道交差点には中山道板橋宿碑があり、側面には、「日本橋二里半」と刻まれている。
白山に入ると、右側に大圓寺があり、ほうろく地蔵が祀られている。火炙りの刑に処せされた八百屋お七を供養するお地蔵様で、焙烙を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けている。境内には、幕末の洋式砲術家、高島秋帆の墓や明治時代の小説家、齊藤緑雨の墓がある。齊藤の墓はあったが、高島の墓は発見できなかった。
白山上交差点を過ぎると、日本初の男女共学を実施した東洋大学がある。近代的な新しい校舎で、箱根駅伝の活躍のおかげかなと思う。本駒込を進み、千石駅前交差点を横断し、巣鴨に入る。街道左のローソン前に徳川慶喜巣鴨屋敷跡地碑がある。(最後の将軍慶喜は、大政奉還後静岡で謹慎し、復権後、この地で暮らしました。巣鴨邸は、中山道に面して門があり、庭の奥には故郷水戸に因んで梅林があり、「慶喜さんの梅屋敷」と言われた。住んでいたのは4年程で、直ぐわきをJRの鉄道が通ることが決まり、騒音を嫌い小日向第六天町に移った。)
細い路地を入っていくと、T字路に突き当たり、旧道は消滅する。左折して17号に合流する。街道は湯島から本郷に入る。本郷三丁目交差点の左手前に「本郷もかねやすまでは、江戸の内」と言われた「かねやす」がある。兼保祐悦という歯医者が乳香散という歯磨き粉を売り出し評判になった。近くに東京医科歯科大学もある。
済生学舎と野口英世の案内板がある。(済生学舎は、医学者・長谷川泰が、広く民衆の病苦を救うという理念のもとに、 明治9年に本郷2丁目に創設された。その後ガーデンパレスの地に済生学舎が再建された。医術開業試験に合格した英世は、11年湯島の順天堂医院にはいり、その後、北里柴三郎研究所などを経て、アメリカに旅立った。文京は野口の原点である。)
聖堂の向かいには、神田明神がある。祭神は平将門を祀り、江戸城の表鬼門守護であり、江戸総鎮守である。江戸三大祭のひとつ神田祭は江戸城内に入り歴代将軍が上覧したと伝えられている。
元禄3年、徳川5代将軍綱吉は儒学の振興を図るため聖堂を創建、その後寛政9年幕府直轄学校として昌平坂学問所を開設した。築地壁に囲まれた広大な敷地だった。
本間ゴルフのところに「今川橋跡碑」がある。竜閑川に架かる橋で、日本橋をたち,初めて渡るのが今川橋であった。(別名神田堀と言われた竜閑川は昭和25年に埋め立てられた。江戸時代、陶磁器を商う商家が立ち並んでいた。)
神田駅のガード下を進み、須田町の交差点を直進し、17号と別れる。街道は中央本線の赤煉瓦高架に突き当たる。そこに「万世橋と神田祭」の案内板がある。この赤煉瓦沿いの通りは御成道と呼ばれ歴代将軍の上野寛永寺墓参の道筋であった。
街道は国道17号線で北に向かう。10分ほど歩くと、「長崎屋跡」の案内板がある。(江戸時代、長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸参府の折の定宿であった。随行したオランダ人の中には、ケンペルやツンベルク、シーボルトなどの医師がいたため、江戸における文化交流の場として有名になった。区民史跡に登録されている。)
その先には「夜半亭 与謝蕪村居住地跡」の案内板がある。(俳諧師早野巴人が時の鐘のほとりに結んだ庵で、与謝蕪村も内弟子としてここに居住していた。)
岸町から高砂に入ると中山道浦和宿碑がある。浦和宿に着きました。降っていた雪も予報通り12時には雨に変わり、ぐじゅぐじゅの道になり歩きにくかったが、なんとか今回も無事に歩けました。迷ったり、道を聞いたりしながら12時59分に浦和宿に到着です。 浦和駅前のガストで合羽を脱ぎ、濡れた靴下を替え、昼食をとり、JR,新幹線を乗り継いで、無事5時過ぎに帰宅できました。
神明から岸町の県道213号線を歩いていくと調神社(つき)がある。朝廷に調物(みつぎ)を納める倉があったため、搬入の妨げになる鳥居が取り払われている。調神社は月に因み、狛犬はウサギです。手水もウサギの口から出ていました。
神社の手前に、「駒繋のケヤキ」がある。日蓮上人が立ち寄ったという逸話があり、玉垣内に切株と碑が残る。
篠田米店の先でT字路に突き当たり、ここを右折する。街道は17号線を六辻交差点で横断する。街道は上り坂になり、小学校の歩道橋の下に「焼米坂」の標柱がある。名物の焼米を商う立場があったことに由来する。 この辺りは、浦和台地といわれ、その地層は、浅間山の火山灰が堆積して風化したものと言われている。
国道17号を横断して、歩いていくと宝蔵寺があるそうだが、見つけることができなかった。先ほどのおまわりさんも地図に載ってない。と言っていたが。 辻に入ると、東京外環自動車道の高架の手前に、一里塚がある。そばには弁財天が祀られている。往時、この辺りは湿地帯で、通行に難渋したため、水難除けに祀られた。
その先に「歴史民俗資料館」があるが、臨時休館で入ることはできなかった。資料館は西の本陣と呼ばれ、名主、問屋を兼ねた岡田加平衛本陣跡である。
天気予報でも、雪が降るといっていたが、朝から雪がちらつく寒い朝だった。朝食を済ませ、8時に歩き始める。
2日目
旧道を進むと、川岸ポケットパークがあり、旧道解説がある。旧道は菖蒲川に突き当たる。右の川岸橋を渡り、川岸公園の先を左折して、旧道に復帰します。旧道はさつき通りに突き当たる。この先で旧道は消滅しているのでここを左折し、国道17号に合流する。午後5時になり、信号川岸3丁目で今日の行程は終わりにすることにした。 ホテルをとってあった浦和までいけないので、看板の見えた「東横・イン」で聞いてみるが満室で、「赤羽東横イン」を紹介され、埼京線で赤羽に戻り、今日の宿に入った。食事を済ませて午後6時だった。
カーブミラーのところを左折する。この左折する先の擁壁上に「渡船場跡碑」がある。ここからは上がれないので、先を進み上に上がる。(中山道は、木曽街道、木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、江戸と京を結んでいた。宿駅は67、渡る川は大小10以上を越え、荒川は江戸を出るところに位置していました。渡船場の管理は、下戸田村がおこなっていました。渡船場は、舟運の一大拠点の機能も有し、幕府公認の川岸となった。天保3年には5軒の川岸問屋があり、近在の商人と手広く商いを行っていました。明治8年木橋の戸田橋が完成し、「戸田の渡し」は廃止になった。)
倉庫街を抜けると、荒川の土手に突き当たる。右に迂回し、階段で戸田橋にでる。戸田川(荒川)を渡ると、東京都から埼玉県に入る。往時、川幅は55間(約100m)出水時には一里(約4km)にも広がったと伝えられている。荒川は、甲斐国(山梨)、武蔵国(埼玉)、信濃国(長野)三国にまたがる甲武信ヶ岳に源を発する。増水すると、舟止めになり、旅人は川上の岩淵(日光御成道)か川下の千住(日光道中)に迂回した。安永元年戸田川岸場が置かれたが、明治八年戸田橋が架橋されると、戸田の渡しは廃止された。
坂を上りつめると、17号線に突き当たる。この道筋は国道17号と環八通りの敷設により消滅している。志村3丁目の横断歩道を渡り、三清酒店のところから旧道に復帰する。また17号と合流し、新川岸川を志村橋で渡り、右の土手に入る。一本目を左折すると旧道に入る。船渡の板碑がある。 (板碑とは、鎌倉・室町時代に、親の供養や自分の後生供養等の目的でつくられた、石製の卒塔婆である。表には仏を表す梵字や仏画、造立の願文、年号などを刻みます。この辺りにあったものを集めました。)
一里塚先の志村坂上交差点を横断してみずほ銀行と坂上交番の間を進む。清水坂標識から下りになります。清水坂を下り切り、清水坂標識のところを右折する。(日本橋を旅立ち、旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と時代と共にその名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士山を右手に一望できる名所であった。坂の下には、板橋・蕨宿をつなぐ合の宿があり、志村名主屋敷、立場茶屋などがあり、休憩や戸田川の増水で渡しが利用できない時に、利用された。)
その隣には、「志村の一里塚」は道の両側に残っている。江戸より数えて三里目です。
その先に「齊藤商店」がある。説明板によると(欅を主に扱う原木商として明治22年に創業した。現在は竹を材料にした箒や笊等の竹製品も商っている。現在の建物は、昭和8年の中山道の拡張工事に伴い、新築されたものです。下屋庇をまわしたL字型平面の入母屋造り桟瓦葺の平屋に二階部分をのせた複雑な造りになっている。) 一閑張につかえそうな籠を買い求め荷物になってしまった。
環七通りの高架をくぐると清水町に入り、清水町交番のところで、17号線と合流する。その先に、南蔵院があり、八代将軍吉宗が荒川で鷹狩をした際に、御善所になった。境内のしだれ桜は板橋十景のひとつになっている。今は冬なので、葉を落としていました。
街道右には縁切り榎がある。男女の縁を切りたい時には、この榎の樹皮を煎じて相手に飲ませるとその願いが成就するといわれている。現在は、細竹が巻かれ幹が保護されているが、樹皮が削り取られた痕も見られます。狭い境内に絵馬が飾られ、結構真面目に名前が書かれたものもあります。怖いです。皇女和宮通行の際は、縁切り榎の西側を迂回して板橋宿に宿泊している。
橋を渡ると、上宿に入る。(板橋宿は、中山道の一番目の宿で、長さが1.7kmあった。石神井川に架かる板橋から現在の環状7号線辺りまでが上宿であった。)
更に進むと、石神井川に架かる板橋に着く。ここが板橋宿の起点である。橋のたもとには「距日本橋二里二十五町三十三間」と書かれた標柱が立っている。板橋の地名はこの橋に由来している。往時は太鼓橋であったと記されている。
本陣碑の向かいに案内板があるので、行って見ると、「高野長英ゆかりの地 旧水村玄洞宅」とあった。牢に入れられていた長英は火災に乗じて逃げ、彼の門人であった水村家にしばらくかくまわれていた。
ライフ手前の民家の玄関先に板橋宿本陣跡碑がある。案内板によると、(江戸より二里半の近距離にある板橋宿では、宿泊ではなく、主に休憩所として利用され、藩主と江戸の家臣との謁見送迎の場所として機能していた。古くは飯田新左エ門等数軒で勤めていた。)
その先に、板橋宿平尾脇本陣跡碑がある。(豊田家は板橋宿の問屋、脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていた。慶応4年、流山で捕えられた近藤勇は、処刑されるまで、この家に幽閉されていた。)
右に、観明寺があり、参道の庚申塔は寛文元年の建立、青面金剛像が陽刻され、都内最古と記されている。
そろそろ昼食時なので、小さな蕎麦屋に入った。6席しかない店で、気難しそうな店主が迎えてくれ、座りごこちが悪かったが、蕎麦は白馬産のそば粉を使っているそうで、美味しかった。「汁で食べる前に、まず塩でそばを食べてくれ。」と言われ食べたが蕎麦本来の味がして美味しかった。わさびは汁に入れずに蕎麦に付けるとか、ねぎは蕎麦湯に入れるとか、注文が多い店だったが、蕎麦を堪能できた。
山手線を巣鴨橋で跨ぐと、真性寺がある。境内には江戸六地蔵が鎮座している。 旧道は17号線から分岐し、巣鴨地蔵通商店街に入る。すぐ右にとげぬき地蔵尊を安置する高岩寺がある。このお地蔵さまは、ささったとげに御利益があるのではなく、地蔵の絵姿を飲むなり、幹部に貼ればとげを抜いたように痛みがとれるということです。秘仏になっていて、実際に見ることはできません。境内では洗い観音に人が並び、悪いところを手拭いで洗うと治るというので、熱心に拭いていました。
鳥居脇に老舗天野屋がある。案内板によると、(この家には明治37年に造られた麹室があり、現在でも甘酒や味噌などを造る麹製造に使用している。関東ローム層を地下6mまで堀り、天井をアーチ型にした地下室で、壁、天井には煉瓦が張られている。放射状に伸びた室は一部を除いて取り壊された。)
国道17号を渡り、ファミレスのところから旧道に復帰します。ここが、板橋宿江戸口です。板橋宿は、平尾宿(下宿)、仲宿、上宿(本町)の三宿から構成され、仲宿が中心であった。本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠54軒の規模を誇っていたが、明治17年の大火で、上宿、仲宿の宿並は灰塵に帰した。