南仏&イタリア北部ツアー

H.27.10.14~20

モナコ公国は、ニースとマントンの間に位置し、公用語はフランス語。面積は2㎢で、モナコ国籍を有するモネガスク(モナコ人)は総人口3万7000人のうち6000人で観光立国としてのスケールは驚くほど大きい。ベルエポックの香り漂う高級ホテルやカジノ、国際イベントなど日常をわすれさせ、夢の世界へ誘ってくれる。そのモナコを車窓から眺める。

岩山にきずかれた旧市街地(モナコ・ヴィル地区)には、大公宮殿がある。中世から続く旧市街地は細い石畳が迷路のように走っている。

マラローナから2駅戻り、ヴェルナッツァに戻る。私達の前に座った夫妻は南山大学に留学していたというアメリカ人だった。日本語も上手で楽しい会話ができた。旅行に来たそうです。「お元気で!」握手をして別れた。

マラローナの駅

断崖絶壁に家が建ち並んでいる。

海の見えるレストランで、海鮮パスタとカジキのソテーの昼食をとる。

マナローラの駅は、トンネルの中にあり、トンネルを歩いて外に出た。かっての漁村の雰囲気をよく残す町で、港に通じる細い路地には名物のフォカッチャの店やジェラードの店が並ぶ。フォカッチャはイタリアの平たいパン。昼食にでた硬いパンがそうかなー。

ホテルの前で

8:15にホテルを出て、リヴィエラ海岸をドライブして世界遺産チンクエレッテ観光に向かう。学校があり、親が子供を学校まで送る姿を見かけた。フランスからイタリアに戻ったがまた看板だけだった。

 

1820年から続く老舗のお菓子屋さん。この地方の名物のフリュイ・コンフィ(果物の砂糖漬け)を売る。

ガイドと合流して、旧市街地や海岸を散策する。19世紀から第1次世界大戦にかけての「ベルエポック(良き時代)」と呼ばれる時代には、北ヨーロッパの王侯貴族が避寒に訪れ、華やかな社交を繰り広げた。彼らが冬の宮殿として建てた豪華な別荘は、今も各地に残っている。現在高級ホテルになっている。「ネグレスコ」はベルエポックを代表するホテルである。

リヴィエラはイタリア語で海岸と言う意味。、フランスのトゥーロン付近からイタリアのラ・スペーツィア付近までの地中海沿岸地方の名称。  イタリアン・リヴィエラはリグーリァ海岸、フレンチ・リヴィエラはコート・ダジュール。   19世紀初頭、保養地としてのコート・ダジュールの魅力に注目したのはイギリス人だった。彼らの名はコート・ダジュールで一番有名な海岸通り「プロムナード・デサングレ(イギリス人の遊歩道)」に残ることになった。

細い石畳の道を、左右の店を見ながら歩いていくと「エズ庭園」に出る。12名で半額になると先に行った人たちが待っていてくれた。10名だったが添乗が交渉してくれて半額の3ユーロで入ることができた。

コート・ダジュールにある鷲の巣村のひとつ「エズ」は、海抜420m。海から垂直に切り立った崖の家から見る地中海は美しい。エズの村は山の下からは見えないが、これはサラセン人の攻撃を防ぐため海から見えないように造られたからである。中世の家々の間の細い道を上がり下りする。多くは手工芸品のアトリエ兼ショップなっている。

1297年、修道士に変装したフランソア・グリマルディがジェノバ人の築いた要塞を占領したのが始まり。ジェノバ共和国、サヴォワ公爵家、フランス王国などの強敵に囲まれ、700年以上もの間独立を守りに抜いた。100年前まで何もない岩山だったモナコが現在の観光立国に転身したのは、19世紀半ばのシャルル3世の功績が大きい。地中海と陽光に恵まれたモナコは、カジノや高級ホテルを次々と建設し、「ヨーロッパの社交場」として名をはせるようになった。1956年、レニエ公は女優・グレース・ケリーを妃に迎え、モナコの華やかなイメージを印象づけた。

岩山にきずかれたモナコ旧市街

イタリアには、2回行っているが、ヴェネツィアが抜けてしまっていた。今回の「てるみくらぶ」の行程を夫が見つけて申し込んだ。「てるみくらぶ」で行くのは初めてで、不安があったが行って見てびっくりしたことが沢山ある。中部国際空港で、添乗員とおち合い11:55の大韓航空機で仁川国際空港へ出発した。

今回は17名の参加者だったが、中部から行った私達は関西空港からの4人と共に仁川空港からミラノ・マルペンサ空港に向かう。成田組はアリタリア航空で、ミラノへ。羽田組はドバイ経由でミラノへ。後で聞いた話だが、2時間のミラノ観光がついていたそうだ。ミラノのホテルに集合した17名で観光が始まった。

チンクエレッテはリヴィエラの終点ラ・スペツィアの西にほぼ等間隔で並ぶかっての5つの漁村の総称。ジェノバよりから、モンテロッソ・アル・マーレ、ヴェルナッツァ、コルニーリア、マナローラ、リーマッジョーレと続く。この一帯は交通手段が船に限られた時代が長かったため、時代の波にとり残されたひなびた集落が残り、独自の文化が育まれた。切り立った丘には、何世紀にも渡り、人の手により石組みが組まれその総延長は7000kmのも及ぶ。レバントの駅でガイドと合流し、電車でマナローラに向かう。電車の中ではすりに用心するように添乗に何度も注意される。イタリアの駅には改札が無い。切符は買うがそのまま電車に乗り込む。時々検札の人が乗ってきて無賃乗車の人は多額の罰金を支払う。

また電車に乗り、レバントの駅に戻る。バスに乗りジェノバに移動し夕食を海岸にあるレストランでとる。「ジェノベーゼパスタ」と「イカとポテトの煮込み」だった。ジェノベーゼとは、ジェノヴァ生まれのソースで、バジルペーストに松の実、チーズ、オリーブオイルを加えたもの。

ニース名物の「ニースサラダ」の夕食をとり、ホテルに入った。本格ニースサラダは野菜だけだそうですが、これにはゆで卵とツナが載っていました。

近くのレストランで昼食をとる。ラタトゥイユパスタだった。ラタトィユは、ニースの野菜煮込み料理で、玉ねぎ、ナス、ピーマン、ズッキーニの夏野菜をニンニクとオリーブオイルでいためトマトを加え香草とワインで煮込む。

モナコF1グランプリは、一般道路で行われるため、観光客すぐ脇で観戦できる。

熱帯公園は何千種類もの熱帯植物の緑が石灰岩の白い岩とコントラストを見せる。また地下60mの深さの鍾乳洞もある。

切符

ガイドさん

黄色の建物の最上階にはマチスが住んでいた大きな窓の部屋がある。

プロムナード・サングレでインラインスケートをする人。

エズ

2日目

モナコ公国

4日目へ

ジェノバの夜景を見ながらバスに戻り、ホテルに入った。

ジェノヴァは、ミラノの南145kmに位置する。リグーリア海と緑の丘に挟まれ、海岸線に沿うように広がる。海洋貿易で栄え、ヴェネチアとともに二大海洋共和国として権を競った。この町が全盛期を迎えた16~17世紀には、豪壮な館が競うように築かれた。添乗は学生の頃ここを訪れたそうだが、今は治安も悪く、コースに入れる旅行社はあまりないとのことでした。「コロンブスの家」や世界遺産の「レ・ストラーデ・ヌオーヴェ」と「ロッリ」の邸宅群などがある。

ヴェルナッツァは石畳の路地や柱廊が中世の雰囲気を残している。坂を下った小さな湾に面して教会と展望台がある。

3日目

花市のかたずけをしているサレヤ広場には、海鮮の店が沢山あり、呼び込みの人が立っている。日本人の人もいました。店先には魚、海老、蟹、貝が並んでいる。

モナコの街角

熱帯公園

所々にあるエレベーター

7:45にホテルを出発する。国境を越えてモナコに移動する。国境と言っても看板が立っているだけで検問もパスポートチェックもない。車窓からモナコの海岸線が見えてくる。大きな船が沖に停泊している。

コート・ダジュール紺碧の海岸)の中心地であるニースは、サルディア王国の支配下にあった頃のイタリア文化の名残、19世紀より貴族たちを虜にしてきた高級リゾートとしての歴史、まだ漁港だった頃の素朴さが溶け合って、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。温暖な気候、降り注ぐ陽光は多くの芸術家を魅了した。マティス、デュフィ、シャガールといった画家はここで多くの作品を完成させている。海沿いの遊歩道プロムナード・デサングレには高級ホテルが立ち並ぶ。旧市街に入ると細く入り組んだ路地の合間に庶民の暮らしが息づいている。

ジェノバを境に西側のフランス国境までを西リヴィエラ、東を東リヴィエラと呼ぶ。東リヴィエラのさらに東側がチンクエレッテである。西リヴィエラは美しい砂浜が続くが、東リヴィエラは山が海に迫る険しい地形で岩場の深い入り江を臨むリゾート地が点在している。

ニース

市街地を走るトラム

サボテン公園を登っていく。古い城跡に造られたもので、空気の澄んだ冬にはコルシカ島も見えるという。

昼食の時間までに時間があったので、「フラゴーナ香水工場」を見学する。香水を作る工程を見学して、香水やグッズを買う人もいた。工場内は香水の香りでむせ返るようだった。