4日目

バローロ

本の形をしたワインボックスと平たい形のワインボトル。ロウで蓋をしてある昔のワイン。

サンマルコ広場の北側にある時計塔。15世紀にコドゥィチによって建てられた。頂にブロンズ像の二人のムーア人が乗り、大きな鐘を打って時を告げる。鐘が鳴った時腕が少し動いたのを見た。

自由時間の後、イカ墨のパスタとシーフードフリッターの昼食をとる。フリッターは美味しくて写真を撮るのを忘れた。

1096年に始まる十字軍の遠征は、ヴェネチアにパレスチナ地域への商業網を広げる機会を提供した。同時期にライバルのピサやジェノバもこの地域への進出を果たし、地中海を舞台にヴェネチアとの間に熾烈な闘争を繰り広げることになる。

2.フランク軍を打ち破る

今日は少しゆっくりと9:00にホテルを出て、ワインで有名なビエモンテ地方にバスで向かう。ワイン畑が広がり、黄葉しているブドウの木もある。ヨーロッパの紅葉は黄色が多い。

トルコの進出により地中海では2流の地位に転落したが、イタリア国内では、列強のひとつとして16世紀半ばまで繁栄を維持することができた。ヴェネチアは1797年まで、独立を保持した。工業も順調に繁栄し、ガラス製品の製造、モザイク、金銀宝石細工、織物業などは大きな富をもたらした。

バローロはビエモンテ州クーネオ県にある人口700人の町で、この地域の特産品である「バローロ」はイタリアの最高級のワインのひとつである。ワインの王様バローロ(赤)のワイナリーでビエモンテワインや郷土料理のランチをいただく。

 

ヴェローナは、アルプスに源を発したアディジェ川が町の中央をS字型に流れる古都である。北イタリアの要衝として、ゲーテの「イタリア紀行」にも登場するこの町は、北はアルプス、南はローマ、西はジェノヴァ、東はアレクレイアを結ぶ3本の道路の交差する町であった。「ロミオとジュリエット」のイメージがあちこちに残る町である。

エルベ広場と建物を挟んで向かい合わせにシニョリー広場がある。広場の左側には、初期ルネッサンス様式のコンシリオの回廊、ヴェローナの名門スカラ家の館がある。右の市庁舎に付属するランベルディの塔へは上がることもできる。

沢山の種類のパスタ

810年、フランクの脅威がヴェネツィアを襲った。カール大帝の長子でイタリア王のピピンがヴェネツィア攻めを行った。フランク軍をアルトの泥湿地帯へ誘い込んで座礁させ、打ち破った。翌年、ヴェネチアの東ローマへの帰属が決定した。これはヴェネチアの独立を意味していた。首都をリド島のマラモッコから防衛の容易なリアル島に移した。現在のヴェネチアの起源である。

バルコニーには料金を支払って入ることができる。

ヴェローナ

ヴェネツィアの歴史

ホテルの窓からジェノバの街

1104年、国営造船所(アルセナーレ)が設立される。現在その跡は海洋博物館になっている。これを機に、ヴェネチアの海軍力は質量ともに飛躍的に充実した。

この時代のヴェネチアやイタリア諸都市の繁栄は、ヨーロッパの状況にも助けられていた。12,13世紀の農業の発展と人口の増加は穀物やワイン、塩などの取引をこれまで以上に重要なものにした。またこの時代の航海技術の進歩も重要で、1270年頃ヨーロッパに羅針盤がもたらされ、冬の曇天での航海が可能になった。1280年頃には、遠洋航海用の大型船が登場した。

ヴェネチアは人口26万人の町で、中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄え、「アドリア海の女王「水の都」「アドリア海の真珠」ともいわれる。

1571年、スペインとヴェネチアの連合軍はレパント沖でトルコ海軍を破った。1573年、ヴェネチアはキプロスをとr湖に奪われ、これ以降、トルコとの戦いはますます防衛的なものになった。1600年に設立されたオランダ東インド会社は、香料貿易の主役を完全にヴェネチア奪った。しかし一方で、没落期のヴェネチアは、カーニバルなどの祝祭に見られるように、その文化を洗練させることにエネルギーを費やした。18世紀のヴェネチアでは、音楽のヴィヴァルディー、演劇のゴルドーニ、絵画のティエポロ、カナレット、ロンギらが活躍した。

13.ヴェネチアの没落

13世紀から14世紀の初めにかけて、ヴェネチアは貴族による寡頭支配体制が強化された。この様な統制の強化は14,15世紀のヴェネチアを政治的、経済的に安定させ、フィレンツェやジェノバのような内部対立による混乱を回避させた。

バスを降りて、外壁沿いに歩きブラ広場に出る。広場の前には、ローマ時代の円形劇場(アレーナ)がそびえている。1世紀の建築で、ほぼ完全な形で残されている。長さ152m、幅128m、高さ30mで、1万8000人の席が用意されている。毎年6月から8月まで開かれる野外オペラ祭は有名。広場の一角には、18世紀のネオ・クラシック様式の市庁舎がある。

ドゥカーレ宮殿の前でガイドと合流し案内してもらう。ヴェネツィア共和国総督の政庁として9世紀に建てられた。何回か火災に遭い、現在の建物は15世紀の物。いくつもの評議員の部屋、大会議場、ティントレット、ヴェロネーゼなどの絵画が飾られている。2階会議場にあるティントレットの「天国」は7×22mあり、世界最大の油絵と言われる。

ジュリエットの像。右胸に触ると願いが叶うといわれ、金ぴかに輝いていた。

カン・グランデ1世を頂に置くスカラ家の廟。廟を囲んでいる鉄格子の模様はスカラ家の家紋。スカリジェリー(スカラ)=階段の名の通り、四弁の花の中央には階段のようにゴシックの尖塔が配置されている。

手にアコーデオンを持ち、足のひもで後ろの太鼓とシンバルを打ち、頭を振って帽子の鈴を鳴らすおじさん。

1204年、ヴェネチアは第4回十字軍を先導してコンスタンティノープルを占領、東ローマを滅ぼし、ラテン帝国を打ち立てた。これによって、黒海沿岸へ進出する可能性が開けた。ヴェネチア人マルコ・ポーロの大旅行は、この黒海ルートの繁栄を背景に理解できる。

823年には、ヴェネチアの商人がエジプトのアレクサンドリアから聖マルコの遺体を持ち帰った。これ以降、ヴェネチアは聖マルコを守護聖人に戴き、発展の道を歩むことになる。

港には8隻以上のマンションのような大型クルーズ船が停泊していた。

楽隊の演奏

寺院の前には、サン・マルコ広場がある。正面にサン・マルコ寺院、その右にはドゥカーレ宮殿、その前にある翼をもったライオン像はヴェネツィアの守護神、聖・マルコの象徴として造られている。寺院正面にはコッレール博物館と新政庁がある。広場には教会とは対照的にシンプルな鐘楼がある。

裁判所(ベニスの商人が裁判を受けた所)

24時間の時計

入口階段天井のフレスコ画

ドゥカーレ宮殿、サン・マルコ寺院、鐘楼は96.8mあり、16世紀のもので、1912年に再建された。

ホテルを8:00に出て、世界遺産水の都ヴェネツィアに向かう。本島入口まで行き、船で歴史地区に渡る。

ヴェネツィア

エルベ広場には、白いパラソルの下の屋台には、果物、野菜、花などがられている。エルベ(野菜)が売られていたのでこの名前が付いた。ローマ時代にはフォロ・ロマーノと呼ばれ、市民が裁判や政治活動を行った公共広場だった。広場を取り囲む建物は中世からルネッサンス期にかけて建てられた豪壮な館や塔である。

アレーナ

アディジェ川

ビエモンテのワイン畑を眺めながら、世界遺産の歴史的都市ベローナへ向かう。

昔、この樽を背負いブドウを収穫した。

6日目へ

サン・マルコ寺院は、9世紀にエジプトから運ばれた聖マルコの遺体を納めるために建てられた。入り口上部の4頭の青銅馬像(コピー)は13世紀にヴェネツィアの十字軍がコンスタンティノープルより持ち帰ったもので、紀元前400~200年の作品と言われている。ナポレオンが戦利品としてパリに持って行ったが、戻された。オリジナルは内部に展示されている。丸天井のモザイク絵は旧約聖書よりテーマをとっている。今日は日曜日で、ミサが行われていて中に入ることはできなかった。

アレーナから東北に走るマッツィーニ通りは、ヴェローナきっての繁華街で、10分ほど歩くとエルベ広場に出る。広場を南東に走るカッペット通りを50mほど歩くと「ロミオとジュリエット」のヒロイン「ジュリエッタの家」がある。シェークスピアは実際にはここに来たことはなく、作品中の二人は創作された人物である。

中から中庭を覗くと、ブロンズ製の井戸がある。

裁判所のある宮殿と牢獄は溜息の橋でつながっていて、橋には窓があり、この橋を渡ると2度とこの世に戻ってこられないといわれ、橋の小窓からこの世に別れを惜しみ溜息をついたという逸話が残っている。

大評議の間

ティントレットの天国

町の所々にあるものは、水が上がって来た時に敷き詰めて通路として使用する。

溜息の橋

左端に溜息の橋

ドゥカーレ宮殿とサン・マルコ寺院

行政長官府と鐘楼

ボート乗り場

すっかり暗くなったヴェローナの旧市街を後にして、ホテルに入る。ホテルのレストランで「ポーク料理」の夕食をとった。

ランベルディの塔

北イタリア湖水地方のストレーザに向かい、豪華なホテルに着いた。ホテルディナーを楽しんだ。

翼をもったライオンの像

ダンテの像

1.誕生と興隆

宿敵ジェノバを蹴落とした時、ヴェネチアの衰退が始まった。1453年、オスマントルコがコンスタンティノープルを占領したとき、ヴェネチアはこの都市の防衛にあまり熱心でなかった。1460年には、ヴェネチアの海外領土であるアルゴスを占領、1470年にはネグロポンテへの攻撃を開始した。1479年、平和条約でネグロポンテをトルコに譲ったことは地中海においてヴェネチアが2流の位置に転落したことを意味していた。

9.ルネッサンスのヴェネチア

10.芸術と学問の都市へと変わる

4.十字軍とヴェネチアの繁栄

5日目

市庁舎

衰退が確定したこの時期以降にヴェネチアは、絵画を中心とした文化を開花させた。絵画では、15,16世紀にかけて、ベッリーニ兄弟、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼらが、建築では、サンソヴィーノやパッラーディオが優れた作品を残している。この時代にヨーロッパで吹き荒れた宗教抗争に巻き込まれることなく、ヴェサリウスは解剖学を、ガリレオは天文学をバドヴァ大学で講じることができた。

11.平和な国内の繁栄

12.農業の発展と保守化傾向

クレタ島や1489年にヴェネチア領となったキプロスではワインや木綿が生産され、本土でも農業生産が伸びたが、このことがヴェネチアの活力を奪うことになった。富裕層が事業から手を引いて、資金を土地購入に充てるようになったからである。

6.東西貿易の発展とヴェネチアの繁栄

伝説では、アッティラに率いられたフン族の侵攻を避けるため本土の住民が干潟に移り住んだ425年がヴェネツィア誕生の年とされている。初め漁業で暮らしを立てていたが、製塩業と水上運送業を発展させ、下線交易に乗り出した。697年には、住民投票によって最初の元首(ドージェ)が選出された。

8.組織の勝利とヴェネチアの繁栄

7.コンスタンティノープルの占領

5.国営造船所の設立

3.守護聖人サン・マルコのもとに

マリオネット

カーニバルの仮面

ヴェネチアガラス