鳥居杉の大木

名倉川の桜 田峯観音 田峯城

2020.4.3

徳川4代将軍家綱のころ、焼失した田峯山日光寺の再建のため、村人は天領と知らず、段戸山に入り木を切った。御油赤坂の代官・鳥山牛之助が旧暦6月に検分にやってくることになり、「助けてくれたら村が三軒になるまで歌舞伎を奉納します。」と願をかけた。すると、検分の当日、土用というのに雪が降り、代官は引き返し、罪人が出ることはなかった。村人は約束を守り、毎年歌舞伎を欠かすことはなく、田峯観音大祭の日に、歌舞伎を奉納するようになった。

名倉川の桜

新東名 新城ICをでて国道151号線 国道257号線を走り、設楽町名倉地区に入り、道の「アグリステーションなぐら」に着いた。車を止め、桜並を散策する。名倉川沿いに「清水のコヒガンザクラ並木道」が1.2km続く。ちょうど桜は満開だった。前回来たときは人であふれていたが、今回はコロナで自粛期間だったので、人もまばらで、ゆっくり散策で来た。

愛知県北設楽郡設楽町田峯にある「田峯観音」に向かう。文明2年(1470)に田峯菅沼氏の菅沼定信が田峯城を築城し、田峯城鎮護のため高勝寺を建立した。この際に京都から十一面観音を勧請し、松芽観音菩薩と合祀している。

復元された物見台。上に上がれるので、上がって下をのぞく。(本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並みが大蛇のようであったことから「蛇頭城(じゃずがじょう」「竜の城」とも呼ばれていた。)

国指定重要無形民俗文化財・田峯田楽(永禄2年(1559)田峯観音に伝わる民俗芸能で、公開は2月11日。舞は昼・夜・朝の三部に分かれる。中世に流行した田楽踊¥りを今に伝えている。)田峯念仏踊りは、 江戸時代の中頃より、絶えることなく続けられる続けられる盆行事である。

名倉川は2回目で豊根村のハナノキを見に行った時に、行きました。

しだれ花桃の里」県道32号線を走ると花桃の花が目に飛び込んでくる。海老川の両側に約300本の花桃の木が植わっていて、一斉に咲いている。地元のボランティアが植栽し、育てているそうです。植栽から約10年たち、白やピンクの花桃の花が咲き誇っています。

田峯城は、かって愛知県設楽郡設楽町にあった山城である。田峯菅原家(菅原氏)の居城であった。笹頭山の中腹に位置する。天正3年,長篠の戦で大敗した武田勝頼を伴い、田峯城に帰った城主・菅原定忠であったが、留守居の親族・菅原定直が入城を拒否。わずか数騎の勝頼一行は身柄を拘束されそうになったため、更に北方の武説城まで逃避行を強いられた。翌天正4年、定忠は城を急襲し、城にいた謀反の一族96人を惨殺し、首謀者の今泉道善を鋸引きの刑に処した。天正10年、お家断絶により田峯城は廃城になる。

田峯の地狂言舞台 (農村の代表的な娯楽として、江戸時代後期に盛行した地狂言の舞台で、毎年2月12日にここで上演されている。)文久3年(1863)竣工の、茅葺、入母屋造りの木造建築である。 県指定文化財の舞台は、毎年田峯独特の技法で竹組屋根の観客席が作られる。

復元された本丸大手門

「田峯城址」碑

田峯城

復元された本丸御殿

額堂 金的中の額がたくさん掲げられている。

田峯観音(だみね)

余談ですが、田峯観音の売店で「塩羊羹」を買い求めた。家に帰って食べようとしたが、賞味期限が迫っている。製造元に電話すると、新しい羊羹を送ってくれた。新しい羊羹のほうが、今作ったばかりという感じで、しっかりしていた。今度から、賞味期限を見て買わなければと思った。(いつもそうしているけど)