石見銀山
世界遺産とは一度失ったら、二度と再現することが不可能で、人類共通の未来に伝えていくべき価値があり、民族、国境を越えて国際的に協力して保護する必要のある文化財や自然として、世界遺遺産条約に基づく世界遺産リストに記載されている物件を言います。 石見銀山遺跡は、環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行なっていたことが評価されて、2007年7月に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、鉱山遺跡としてはアジアで初めての世界遺産に登録されました。
入り口
3日目
出雲から大田市へ 8:13の山陰線で海にそってくねくねと走り、太田市に8:58着いた。
銀山祭りの料理
花見弁当
法事の料理
間部番号 460
間歩番号 461
大森のバス亭まで戻り、一分銀飴をお土産に買い、15:33のバスで大田駅に戻った。16:05浜田行きの電車に乗り、17:27浜田に着いた。駅前の食堂で夕食をとった。恐ろしく安かったが、結構美味しかった。18:05の益田行きに乗り、益田で電車を乗り換え、20:05東萩に着いた。 ホテルのあてがなかったので、電車の中でガイドブックを開いていた私達と同年輩の御夫婦にガイドブックを借りて宿を探した。携帯を出したりしていると、前に座っていた女性が2,3軒の旅館を教えてくれた。結局その御夫婦が泊まるという駅前のホテルに泊まることにした。雨が降り出していた。
妙心寺 ・ 日蓮宗妙覚寺派のお寺で、もと清水谷にあったものを1514年本身山妙心寺として、再興した。
大安寺跡 ・ 大久保石見守の菩提寺として建てられた。
銀山大盛祈願道場碑 ・ 鉱山の発展を祈願する場所として、佐毘売山神社とともに龍昌寺と観世音寺が指定された。
新坑道の右壁には「石見銀山絵巻」を電照板で展示している。
豊栄神社
駅で写真を撮っていると、おじさんが話しかけてきて、「銀山にいくなら、大久保間歩までいくといいよ。」と教えてくれた。大久保間歩は最大の坑道跡でツアーがあるのだが、残念ながら12月から2月までは出ないのだ。3月から11月の金、土、日限定で出ているツアーです。
明治時代に建設された精錬所遺跡。当時の先端技術を駆使して銀生産を行なったが、わずか一年半で閉鎖された。階段状の遺構は銀選鉱施設の一部です。
清水谷精錬所跡
江戸時代採掘操業の場所を「山」、坑道を「間歩」と呼んでいた。石見銀山の間歩は元禄4年(1691年)には92ヶ所でしたが、文政6年(1823年)の古文書によると新旧あわせて279ヵ所とされ、最近の調査では、空気抜きをあわせると、500ヵ所を超える坑道が確認されている。 新切間歩は代官所直営の「御直山」の一つで、最初は疎水抗として掘ったものです。最も大森の町に近く、標高も低い場所にあったものです。現在、中に入ることは出来ませんが、常時出水していることから、水抜き抗であったことが分かる。
基本的には歩いてまわるが、レンタサイクルやこのような、ベロタクシーもある。
佐毘売山(さひめやま)神社
出口
龍源寺間歩
甘南備抗(かんなびこう)
石見銀山御料銀山町年寄山組頭遺宅 ・ 文献によれば、天保14年(1839年)ころ、当家の高橋富三郎が町年寄山組頭を勤めたことが分かっている。山組頭は代官所と鉱山経営者である銀山師との取次ぎなどを勤める役職で、銀山師のなかから選ばれた。 また町年寄は周囲に拡がっていた銀山経営に携わる人達が住む町の運営に係る役職である。 建物は通りに面して主屋があり、北に茶室、南に離れ座敷を設けている。
高橋家
大久保石見守の墓所
渡邊家
石見銀山御料郷宿泉屋遺宅 ・ 泉屋の主人川北氏は文政7年(1810年)まで「波積組(現在の江津市の一部)」の郷宿を勤めたことで知られる。建物は外観を漆喰で塗り籠め、軒瓦には家紋を入れるなど堂々たる風格を備えている。 敷地は寛政12年の大火を免れた位置にあり、町並みのなかでももっとも古い建物の一つである。
安倍氏初代の清兵衛は甲斐国出身で初代大久保石見守に銀山附き地役人として召抱えられた。子孫は代々、銀山支配に携わった。現存する建物は武家屋敷のなかでも最大規模のものである。 主屋の天井板には寛政元年の年号と大工名の書かれた墨書が見つかっており、大火前の建物と考えられる。
三宅家
石見銀代官所山地役人遺宅 ・ 代官所の銀山方役所に勤務する銀山附き地役人田邊氏の居宅であった。田邊氏の初代彦右衛門は甲斐国(山梨県)出身で、初代奉行大久保石見守に銀山附き地役人として召抱えられている。五代彦左衛門が半田銀山(福島県)、六代目金衛門が足尾銅山(栃木県)に派遣されるなど、ひろく鉱山開発に携わった。 寛政12年の大火以降の建築と思われるが、通りに面して、土塀や露地門を構え、前庭を配置して大戸口の右手に式台を設けるなど、武家屋敷の形態を保っている。
町並みの特徴 ・ 大森の町並みは、武家と町家が混在している。上層の武家の場合、通りに面して門・塀があり主屋との間に庭を設けている。町家は通りに面して主屋を建てている。
石見銀山御料御宿田儀屋遺宅 ・ 江戸時代、石見銀山付き御料百五十余村は支配のうえで6組に分けられていた。18世紀中ごろには、大森には6件の郷宿が設けられ、公用で出かけてくる村役人等の組ごとの指定宿して、また代官所から村方への法令伝達などの御用を請け負った。 この田儀屋は、もと上熊谷家で大森町の重宝衆(有力商人)の一人であり、文政年間から、「津茂五カ所(現在の益田の一部と津和野の一部)並びに久利組(現在の大田市の一部)郷宿」を勤めた。 建物は切妻造りの桟瓦葺で、町並みの中では、珍しい妻入りである。
青山家
熊谷家住宅
16世紀から20世紀まで約400年間にわたって採掘されてきた世界有数の鉱山遺跡です。16世紀半ばから17世紀前半の全盛期には、世界の産銀量の約3分の1を占めた日本銀のかなりの部分が石見銀だったと考えられています。石見銀は高品質で、海外にも多量に輸出され、アジア諸国とヨーロッパ諸国を交易で結ぶ原動力になっていました。
出口事務所にあった鉱石
間歩番号 474
間歩番号 519
間歩番号 518
間歩番号 517
現在、修復復元中です。
建造物、敷地と共に、3300点にも及ぶ家財が大田市に寄付され、すべての家財調査を、平成13年から17年まで行なった。 日常の生活で使っていた道具、季節ごとに用いた道具など、当時の暮らしぶりを伝える家財を展示してある。 台所など、今風に改造して暮らしていたので、建てたころのように復元してある。
太田市駅前から9:32のバスで石見銀山まで。10時に公園からガイドが案内するツアーが出ているということだったが、着いたのが10時でもう間に合わない。ゆっくり歩くことにした。
江戸時代中期に開発された大坑道で全長900mのうち、約三分の一を公開している。あちこちに掘り勧められた横穴や排水のための竪抗などの複雑な坑道の仕組みを見ることが出来る。
この間歩(坑道)は採掘にあたった山師の自分山である。坑口が3箇所あり、上段は空気抜き抗、下段の2抗は中でつながり、仙ノ山の逆方向に坑口が開いているめずらしい間歩である。
間部番号 459
この建物は代官所の銀山方役所に勤務する銀山附き地役人坂本氏の居宅であった。 初代清兵衛は石見国出身で慶長九年(1604年)初代銀山奉行大久保石見守に銀山附き地役人として召抱えられ、子孫は代々銀山の支配に携わった。 通りに面して土塀をめぐらせ前庭をもうけ、武家屋敷の特徴をよく伝えている。廊下続きに土蔵がある。旧銀山町に残る唯一の地役人の居宅である。
石見銀山代官所地役人遺宅 ・ 代官所銀山方役所に勤務する銀山附き地役人河島氏の居宅であった。初代三郎衛門は安芸国出身で、初代奉行大久保石見守に銀山附き地役人として召抱えられ、子孫は代々、銀山の支配に携わった。 寛政12年の大火以降の建築であるが、主屋を敷地奥に建て、通りに面して、土塀を廻らせ前庭をもうけ、大戸口の右に式台を設けるなど、武家の住まいの基本形をよく残している。 大森町役場や、警察駐在所、農協支所などに使われた後、平成2年に太田市所有となり、半解体修理を行い平成4年に竣工した。
旧河島家
17世紀、石見銀山の経営に携わり、その後掛屋、郷宿、代官所の御用達を勤めた。当主は代々、町役人(年寄職)を勤めた。 主屋は寛政12年の(1800年)大火災の後享保元年(1801年)の建築。
新切間歩
別名、「山神社」 工夫や里人は山神さんと呼んでいた。お祭神は鉱山の守り「神金山彦命」である。
間歩番号 477
栃畑谷 昆布山谷
ここは、入り口から約150Mの地点で、坑道は左にカーブしながら195M地点で落盤のため、塞がっています。ここから奥は、高さ約2M、幅約90CMで、大人がやっと通れる大きさで、江戸時代に掘られたものです。
龍源寺間歩は正徳4年(1715年)の開発で、永久、大久保、新切、新横相間歩とともに代官所の直営で「五か山」と呼ばれていた。江戸時代の開掘の長さは600mにも及んでおり、石見銀山では大久保間歩につぐ大坑道です。 この時代、間歩の坑口前に四ツ留役所が置かれていた。坑口の右側には役人の詰所があり、左側には鏈置場(鉱石を置く小屋)があった。山を閉じたのは昭和18年と言われ、実に228年も間歩の開発が行なわれた。
間歩番号 462
吉岡出雲の墓
医院の看板。今でも週に何回か診察をしているそうです。
建てた頃の台所や井戸が復元され、小学生が体験学習で使っているそうです。
代官所跡にある資料館
勝源寺
町並み交流センター(旧大森裁判所)
安部家
金森家
大森五百羅漢