投入堂〜石見銀山
H.20.12.2〜12.5

 12月3日からインド旅行を予定していたが、同時テロ勃発で中止になった。その代わりというわけではないが,夫がまえから行きたいと思っていた鳥取県にある「投入堂(なげいれどう)」に行くことになった。12月から3月までは雪のため入山できないとあったので、寺に電話すると「雨や雪が降らなければ登れます。」と言うことだった。三朝温泉にある国民宿舎を、天候を考え念のため3泊予約して出かけた。  12月2日の早朝家を出て6:20掛川から新幹線に乗り、新大阪に8:13着いた。9:20発の倉吉行きの高速バスに乗り換え、三朝温泉口に12:40着いた。バスの運転手にタクシーを頼んであったので、待っていたタクシーで国民宿舎「ブランナールみささ」に向かった。チェクインをして、荷物をフロントに預け、登山靴に履き替えてタクシーで三徳山三佛寺に向かった。

 奥院である投入堂へは、本堂裏手の登山事務所で入山受付をして、入山料を支払い入山届けに記入し、「六根清浄」と書かれた輪袈裟を身に着けて、裏の宿入橋から山道を登る。山道は非常に険しく、登山に不向きな服装や靴を着用しているものは入山を拒否される。このような厳しい対応にもかかわらず、滑落事故が後を絶たないため、一人での入山は拒否されている。 山岳信仰の中心地らしく、山の麓から投入堂までの道程のうち、鐘楼までは、起伏に富んだ自然の山道が殆ど改良されず、以前のままで残されているため、非常に過酷な部分が多い。

14:16  牛の背馬の背の岩の上をバランスをとって歩いて越すと、観音堂、納経堂が見えた。

銅鏡(中台八葉院鏡像)

経典

三徳山入峰修行心得が書いてあった。

三徳山三佛寺

14:27 投入堂 (国宝

 13:10 寺に向かって歩き出す。13:18寺の受付をして靴のチェックを受ける。今日は鳥取県警の遭難救助訓練があるということで、20人くらいの警察官が装備をして山に上がっていった。受付の方に「今日は遭難しても直ぐに救助されます。」と言われた。 今日は一組入山したがもう下りたので、私達だけが山にいることになる。

 三佛寺鳥取県三朝町にある天台宗の仏教寺院。山号を三徳山(みとくさん)という。 開山は慶雲3年(706年)役行者が修験道の行場として開いたとされている。役行者が三枚のハスの花びらを散らし「仏教に縁のあるところにおちますように」と祈ったところその一枚が伯耆の三徳山に落ち、この地を修験道の行場として開いたのがはじまりである。その後、慈覚大使円仁により嘉祥2年(849年)に本尊釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来が安置された。堂舎38宇、寺3千軒、寺領1万町歩、3千石を領していた。 

 参道 麓から本堂に至る300mの石段の両側には、皆成院、正善院、輪光院の三つのお寺が並んでいる。 本堂は現在解体修理中だった。

13:25 輪袈裟を掛け、宿入橋を渡り登山が始まる。

13:27 野際稲荷(十一面観音堂)江戸中期

 本堂裏の宿入橋から高低差200M、全長約700Mの行程は、すべて難所といってよく、鉄の鎖やロープ、むき出しになっている木の根にしがみついて、足場を確保しながら登り下りすることになる。

かずら坂の木の根道

くさり坂 文殊堂に上がる道で、この脇に回り道があって下る道だが、今日は二人しか入山していないので、わき道をよじ登った。

 室町時代後期。標高440mに位置し、入母屋造、柿(こけら)葺き。内部は通常非公開だが、2006年に草創1300年を記念して地蔵堂とともに公開された。岩上に建立された舞台造りとなっていて廻り縁に立つと三徳谷が遠望できる。帰りに縁をぐるりとまわりました。  桃山時代の建築とされていたが、永禄10年(1567年)の墨書が堂内から見出された。

14:04 地蔵堂 (重要文化財)

文殊堂と地蔵堂の途中には、第三の難所通称「平岩」がある。大きな岩(駱駝のコブのような)の上を歩くのだが、周囲に掴まるような木々はなく、左右の幽谷を見下ろしてすがるものもない岩伝いの道は、修験者が一心に念仏を唱えながら通ったのではと思われます。

14:10 鐘楼(県保護指定文化財)

 鎌倉時代の部材を残す。鐘楼脇の大岩をよじ登ったが、上に上がると、岩伝いに鐘楼の中に入ればよいことが分かった。こんなに大きな鐘(重量2トン)をどうやって険しい山道を揚げたのだろうと不思議です。

馬の背、牛の背 両側が切れおちた尾根道は、今は歩きやすくなっているが、改良したとあるのでまえはもっと切り立っていたのを、上を削って安全に歩けるようにしたようだ。

観音堂 (県指定保護文化財)

納経堂 (重要文化財)

お堂は岩穴に包まれた形で建っている。前は通れず、後をまわって向こう側にいくようになっている。

 鎌倉時代の春日造りで、本殿建築、投入堂と同じ慶雲三年(706年)の創建。法華経、華厳経の写経が多数収められている。

      元結掛堂

14:19

 奥院(投入堂)−平安時代。附(つけたり):愛染堂 棟札、古材(43点) 国宝指定名称は「三仏寺奥院(投入堂)」。流造、檜皮葺き、正面一間、側面二間の建物で、正面と右側面に高欄付きの縁をめぐらす。三徳山の北側中腹の断崖絶壁のオーバーハングした岩窟の中に、絶妙なバランスで建てられており、左隣に付属する愛染堂、棟板一枚、古材43点とともに国宝に指定されている。  参拝者は投入堂をはるかに見上げる地点までは立ち入りができるが、堂に近づくことは禁じられている。堂の正面も側面も入り口らしきものはなく、崖伝いに堂の床下を通って縁に這い上がるしかない。  2007年11月14日には100年ぶりの修復を記念し、1日限り3人のみの拝観が認められた。(このニュースは私もTVで見たが、もうお堂の中に入っていて、どうやってお堂に上がったかは見ることが出来なかった。)  創建以来たびたび修理され、多くの部材が取り替えられている。2006年には屋根葺き替えを主とする保存修理が行なわれた。

文殊堂を平岩から見おろす。

地蔵堂は、 文殊堂と建築様式は殆ど同じで、室町時代の建築様式を表している。 長押内側に「当山退転6年寺中野原となり申し候慶長4年6月」の墨書きがある。

かずら坂を下りる。

15:27 野際稲荷に下りてきた。役行者の石像があった。

15:28 無事に下山出来ました。下山届けを書いて、タオルを一枚買い求めた。登山用の靴を履いていない人のために草鞋を売っています。

木造蔵王権現立像(重要文化財)

宝物殿

投入堂の正本尊像と、正本尊と共に安置されていた6躯の蔵王権現像

慶雲3年(706年)役の行者により、末代雌伏の衆生救済のため、三徳山修験道場の中心的建物 国宝投入堂の本尊として安置されていた。。  降魔を表す忿怒形相にて足を上下に踏まえ天地偏現相を示す。体内 ら発見された願文により康慶の作と判明した。

宝物殿の前にある石仏達 石階段を修理した時の古い で彫ったもの

16:20 上まで上がれない人のために、麓の車道からも遠望できる場所がある。「投入堂よう拝所」として望遠鏡が完備されている。

16:31 遥拝所から戻り、三徳山三佛寺の参道入り口に戻った。16:40のバスで三朝温泉に戻り、国民宿舎まで10分ほど歩いた。

山陰地方には、このような石州瓦の立派な家が多い。黒く光った瓦にシャチホコが乗っている。

 室町時代後期。入母屋造、柿(こけら)葺き。文殊堂から岩に手をたずさえて歩めば、地蔵堂に着く。規模、構造とも文殊堂に良く似たお堂です。
本尊十一面観音菩薩。正保5年(1648年)鳥取藩主池田光仲により再建。
 蔵王権現を安置するためのお堂だが、屋根形式は神社本殿に多く見られる流造(切妻屋根の正面側の軒を長く伸ばし、側面から見ると「へ」の字に見える屋根形式)で、形態的には神社建築である。内部には7体の木造蔵王権現立像を安置していたが、山下にある宝物殿に移されている。

しばらく、投入堂の圧倒的な存在感に見とれていたが、こちらから、向こう側にいくのも大変なのに、大工さんたちは、どうやって建てたのか不思議です。役行者が投げ入れたという伝承もありえるかなと思えます。なごり惜しいが、下山を始めたが、険しい道は下山のほうがもっと困難になる。慎重に一歩一歩下山しました。

地蔵堂の縁に上がり、周囲を見渡す。

遭難救助訓練を終えて帰っていく、県警の方達。

13:54 文殊堂(重要文化財)

(町指定保護文化財)本尊 悉多太子

観音堂を振り返ってみる。

不動堂が建つ岩角をまわると、オーバーハングした岩窟に、投入堂(なげいれ堂)が姿を現した。

 修験道の開祖、役小角はその法力でもって建物ごと平地から投げ入れたという伝承が語り継がれている。  平安後期の木材が使用されていることが判明し、現存する神社本殿形式の建築物では日本最古級のものである。

不動堂

のぼりは鐘楼の横の大岩をよじのぼったが、まっすぐに鐘楼の中に入る道があった。

上部の岩にスズメバチの巣がある。

のぼりには気がつかなかったが、枯れた木の幹に貼り付けてあった。

2日目へ

 国民宿舎ブランナールみささは、インターネットで検索し、「三徳山入山チケット付き快適国宝探索平日限定宿泊プラン」を申し込んだ。入山料400円に宝物殿入館は含まれているが、登山料200円は登山事務所で支払った。下山後、フロントで、翌日の予定を話すと、足立美術館の2名分の優待チケットをくれた。