H.26.06.15~17
薬師堂は1693年に阿弥陀堂とともに建築される。薬師堂の薬師三尊と眷属である十二神将は、重文である。 本尊はヒノキの寄木造、宝眼、肉身部は金泥彩、着衣部は漆箔。両脇侍は本尊と作風が異なり、鎌倉時代の作である。
瀧水寺大日坊(山形県鶴岡市大網入道)
3日目
芭蕉の句碑 五月雨の 降り残してや 光堂
菅原道真を祀る天満宮、
前泊したホテルを早朝出て、東京駅に集合し、7時16分の「はやて111号」に乗り、9時52分に北上駅に着いた。駅前からバスに乗り、中尊寺に向かった。
不動堂(東北36不動霊場第一番)
釈迦堂
出羽三山は、崇峻天皇の御子である蜂子皇子の開山である。皇子は蘇我氏の難を避け、出羽の国に入られた。三本足の霊鳥の導くままに羽黒山に入り、難行苦行の末、羽黒権現の御示現を拝し、羽黒山頂に羽黒山寂光院を建て、権現に奉仕した。次いで、月山、湯殿山を開き、羽黒三所大権現と称した。
山号は湯殿山。本尊は湯殿山権現、重文の「銅造如来立像」。寺伝によれば、空海が開山し、その弟子の渡海が開基と伝えられる。出羽三山参道のうち大網口に位置している。大日坊、注連寺では空海を開祖としている。かっては、春日局の寄進で1640年に建てられた3間四方のお堂に徳川家光の武運長久を祈願した本尊が安置されていた。
この寺には、1786年に96歳で没した真如上人の即身仏が祀られている。
奈良時代に聖武天皇の勅命により開基されたと伝えられる古刹である。江戸時代には、本堂、薬師堂、三重塔などが立ち並び、寺領は二万八千石で東北随一だった。平安・鎌倉時代の仏像群は重要文化財の指定を受けている。 1618年、山形城主最上氏により再建された本堂は、茅葺で桃山時代の様式を残す。奥の間正面には、本尊前仏の弥勒菩薩、左に阿弥陀如来、持国天、右に聖観音、多聞天が安置され、これまで公開が6回という33体の秘仏が収められている。 今回は、今世紀初の御開帳ということで、狭い厨子に安置されていた仏像群が表に並べられ、拝むことができた。
慈恩寺(寒河江市大字慈恩寺地積)
現在、本堂(国宝)は修理中で、非公開だった。入母屋造り、本檜皮葺で、慶長9年から5年をかけて完成した。
中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関)
仁王門(平成12年に修復のため、屋根裏を捜索したところ、公安2年仁王像運慶作と記された棟札を発見した。仁王門は鎌倉時代の創建であることが証明された。)
水車小屋や水を流して臼の中を搗く仕掛けが復元されていた。
2日目
大崎八幡宮(宮城県仙台市青葉区八幡)
特別公開の庫裡(禅宗寺院の台所。大屋根の上にさらに煙り出しが載っている。本来実用本位の建物に唐草や花肘木の彫刻が施されている。昭和34年国宝指定。)
出島石組みと池中立石(池の東南の位置に出島が造られている。その先端の飛島には約2.5mの景石が建てられ、周辺には中小の石を荒々しく散らし、玉石を敷き詰めている。湖水に洗われるその景観は荒磯の風情を表現している。)
ガイドさんによると、立石が水に移ると鶴が羽を広げたように見えるということでした。その向こうには亀石があります。
寺伝によると、850年に比叡山延暦寺の慈覚大師円仁より開かれた。その後、12世紀の初めに、奥州藤原氏の初代清衡公により大規模な堂塔の建設・整備が行われた。 中尊寺建立の目的は、11世紀後半に続いた戦乱で亡くなった人々の霊を慰め、「みちのく」と言われ辺境とされた東北地方に、仏国土を建設するというものだった。清衡は「中尊寺建立供養願文」で中尊寺は「諸仏摩頂の場」であると述べている。二代基衡は毛越寺を造立し、三代秀秀衡は無量光寺を建立した。
出羽三山神社(上山市鶴脛町軽井沢)
出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)には、以前に訪れ参拝しているが、今回は、蜂子神社の御開帳と羽黒山三神合祭殿正式参拝ということで、山伏のほら貝を聞きながら本殿に入って、お祓いをしていただいた。
勝常寺念仏踊りは「会津念仏踊り」と言われ、空也上人の頃から始まり、一遍上人の頃に盛大になった。念仏を唱えながら踊り狂うのが本来の姿である。一遍上人の世に無辜の民衆に伝え広めようと、太鼓、鉦に調子を合わせ、 手を舞、足を踏む踊りを信仰と供養に導き、天下泰平、五穀豊穣を祈願する。
白水阿弥陀堂は、県内唯一の国宝建築物に指定されている。国宝指定名は「阿弥陀堂」。正式名称は願成寺阿弥陀堂で、その領域は白水阿弥陀堂境域として国の史跡に指定されている。
平安時代末期の1160年、岩城則道の妻・徳姫(藤原清衡の娘)により建立された。阿弥陀堂は方三間の単層宝形造りで屋根は杮葺。内部には、阿弥陀如来像を中心に、観音菩薩像と勢至菩薩像が安置されている。
また三方を池に囲まれて、正面にあたる南から中ノ島を経由して御堂に至る参拝道が設けられ、北・東・西は山に囲まれ、平安時代末期に盛んだった浄土式庭園の様をなし、平泉の寺院の構造に影響を受けている。白水という地名は「平泉」の平をとり、白と水に分けたという説もある。
参道入り口
(宮城県角田市高倉寺前)
3.11津波到達地点の標識が建つ。ガイドさんによると、この付近の人は山門を入り、寺に向かって走ったそうです。山門から見て左側は、海水がなかなか引かなかったので、杉が枯れてしまい、広場のようになっていました。
中尊寺経蔵は、創建時の古材を用いて再建したものであり、道内には平安時代の彩色文様が確認できる。国内最古の(1122年)の棟札が伝えられる。本尊の騎師文殊菩薩、四眷属像、紺紙金字一切経(国宝)などは讃衡蔵に安置収納されている。
総門跡
本堂(中尊寺というのはこの山全体の総称であり、本寺である中尊寺と山内17ケ院の支院で構成されている一山寺院である。本堂は中心となる建物で明治42年に再建された。本尊は阿弥陀如来。本尊の両脇にある灯籠は「不滅の法灯」といわれる。宗祖伝教大師最澄が点して以来消えたことがない天台宗の象徴的な灯で総本山延暦寺から分けられ護持している。
峯薬師堂
山門は、1736年に建立された三間一戸の八脚門で、頭貫木鼻の絵様や蟇股の造形もよく、江戸中期を代表する楼門。伽藍を守護する仁王尊が祀られているため、「仁王門」ともいう。一切経会では奉奏する舞楽の楽屋としても使用する。
平安時代、東夷征伐に際して、坂上田村麻呂は、武運長久を祈念して守護神である宇佐八幡宮を岩手県奥州市水沢区に創祀した。その後、室町時代に奥州探題大崎氏は寺領の大崎市に移した。その後、伊達政宗が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、現在の地を神域と定め、仙台藩総鎮守として鎮座された。
仙台駅前のホテルに入り駅地下で夕食をとった。今日は朝早く東京を出発して、盛りだくさんの行程をこなし一日が過ぎました。
雲版(レプリカ)(禅寺で食事時や非常時を報知する法楽器。原本は宝物館に展示。)
襖絵のレプリカ
山門
蜂子神社
国宝・五重塔は、素木造り、杮葺、三間五層の優美な姿で杉木立の間に建っている。現在の塔は、約600年前に、庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられる。
本堂
大きな草鞋の下がった仁王門
勝常寺(福島県河沼郡湯川村勝常代舞)
白水阿弥陀堂(福島県いわき市内郷白水町広畑)
高蔵寺の境内は公園になっていて、一角に「旧佐藤家住宅」がある。(江戸時代中期の仙台藩領の中規模農家の典型的な建物です。建坪は35坪、直屋様式(すごやようしき)、屋根は寄棟造り、茅葺。天井は、煙り出しと藩の禁止令のため設けられず、太く荒削りの柱は鳥居建という古式の構造で、木材の曲がりを利用して組まれている。元は、高倉川下流1kmにある佐藤源氏の所有であった。)
阿弥陀如来は、西方極楽の教主で、本像は平安末期の作とされ、御堂建立の翌年安置されたと推定される。像高2.7mの漆塗りの尊像で、舟底形の天井につかえるばかりの大きな透かし彫りの飛雲光背を背にして蓮華座に安置されている。
神馬舎(八幡宮の御神馬の厩として大正時代に建造され昭和20年ごろまで神馬がいたという。近代和風の優れた厩建造物として国の有形文化財に指定されている。
(曲水の宴の舞台となる遣水「日本唯一の平安庭園。」の遺跡は、大泉ヶ池の向こう側にあります。)と書かれていたが、時間がなくて向こう側に行くことはできなかった。
鐘楼(1343年、金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。撞座は長い年月にわたる打撞で窪み現在この鐘が撞かれることはない。鐘身の銘文には1337年、山上の堂塔が火災により焼失したと記し、奥州藤原氏以降の歴史を伝える資料としても貴重である。)
ガイドさんによると、阪神淡路大震災と東日本大震災の時は鎮魂の鐘を撞いたそうです。
金色堂は、1124年に上棟された。堂の内外に金箔を押してある「皆金色」の阿弥陀堂である。中央の須弥壇の中には、中央に初代清衡、左側に基衡、右に三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されている。血筋の明らかな親子四代の御遺体の存在は世界にも例がない。 須弥壇の上には、御本尊阿弥陀如来、その前に観音菩薩と勢至菩薩、左右に三体づつ地蔵菩薩が並び、最前列には、持国天、増長天が仏界を守護している。この仏像構成は金色堂独特のものでほかに例がない。
芭蕉翁像
奥の細道碑
瑞巌寺(宮城県宮城郡松島町松島)
実際に芭蕉がこの地を訪れたことはないそうです。左の小さな碑は芭蕉の直筆と言われている。
毛越寺(岩手県西磐井郡平泉町平泉大沢)臨池伽藍と浄土庭園
大日堂
明治以来、秘中の秘とされ、幻ともいわれた皇子の御尊像を拝顔した。「蜂子皇子御尊像掛け軸」も飾られていた。皇子の姿は顔が醜く、口は大きく裂け、鼻は下に下がって一寸もたれ、顔の長さは一尺もある異様な姿で伝えられているが、これは、人々の苦悩を一身に引き受けたからだとも言われている。公開された、皇子の僧形の姿は、絵とはあまりにも違っていた。
勝常寺は、平安時代初期の弘仁年間に法相宗の学僧・徳一により開かれたといわれている。木像薬師如来坐像、日光菩薩像、月光菩薩像の三尊は平安初期の作。もともと三体は、薬師堂に安置されていたが、収蔵庫ができて、両脇侍は収蔵庫に移された。薬師如来像は、領脚部を含む頭、体の大部分を1本から刻み、前後に切り離して内ぐりをして剥ぎ合わせる一本割剥造と呼ばれる技法で製作されている。下から見上げているので、盛り上がった下顎が下唇のように見えたが、写真を見るとその様子がわかる。額が狭く、眉間の白毫相を表さない点が特徴である。国宝に指定されている。
中尊寺ハスは、別名康衡ハスともいわれる古代のハスである。大賀博士が昭和25年の金色堂の調査で、泰衡の首桶からハスの種を発見し、平成10年に開花に成功した。ピンクの花が咲くそうですが、今回はまだ咲いていませんでした。 道を隔てた反対側には「大池ハス」の説明板があり、(この辺りは、大池跡で、平成13年の発掘調査で、12世紀後半秀衡公時代の堆積土からハスの実が出土した。以前中尊寺ハスを開花させた長嶋時子氏により平成17年に開花に成功し、大池ハスと命名された。)とあった。
阿弥陀堂
門前の「いしい」でそば定食をいただく。2日とも昼食はバス内でのお弁当だったので、おいしくいただいた。
郡山駅から19時30分の「やまびこ156号」で東京駅へ、新幹線、JRを乗り継いで、藤枝の家に着いたのは、深夜だった。 今回は、羽黒山、立石寺など以前に行っ多ことのあるところも多かったが、蜂子神社の御開帳、慈恩寺の御開帳など個人で行くのは難しい所に連れて行ってもらえた。私は、中尊寺にまだ行ったことがなかったので、金色堂を見られたことはよかったと思います。
今回のタッチに似ているユニークな添乗員にツボを教えてもらったり、締めの祝詞を挙げてもらっらりしながら、てんこ盛りのスケジュールをこなしました。二日目の旅館での不手際などがありましたが、無事に帰って来れました
弥勒菩薩坐像は、五仏宝冠を着け、袈裟を着けて禅定印を結ぶ。脇侍の降三世明王・不動明王は金剛界大日如来との組み合わせで醍醐系の「尊勝曼.荼羅}の構成になる。釈迦如来、地蔵菩薩、弥勒菩薩の組み合わせは、過去、現在、未来の3「三世」救済仏を表す。
勝常寺薬師堂
土井晩翠ウォルナー碑
経蔵
阿弥陀堂と阿弥陀像は国の重要文化財に指定されている。
三之鳥居(1718年五代藩主伊達吉村公によって寄進された。篇額の文字は当時のもので、八幡宮の三文字の周囲は、伊達家の家紋である「日の丸」「竹に雀」「丸の内に三ツ引両」「九曜」「蟹牡丹」「竜胆車」の六紋の装飾紋で飾られている。)
江戸中期の作と言われる神輿。重量は約500㎏であるが霊代を遷すと1トン以上になると言い伝えられている。
社殿は、拝殿と本殿とそれらを結ぶ石の間の三殿が一体となった権現造りの現存最古の建造物として、社殿全体が国宝に指定された。内陣中央には応神天皇、右に仲哀天皇、左に神功皇后をお祀りする。
五大堂は、松島の海岸にある小島で、透かし橋でつながっている。伝承によると、807年に坂上田村麻呂が奥州遠征の際に毘沙門堂を建立したのが始まりとされる。その後円仁が延福寺を創建した際に仏堂を建立する。不動明王を中心に五大明王を安置し五大堂と呼ばれるようになった。現在の堂は正宗が瑞巌寺を再興に先立って再建した。五大明王は33年に一回御開帳の秘仏である。
陽徳院御霊屋(特別公開)
(陽徳院の背後の高台にある伊達政宗公の正室陽徳院田村氏愛姫の墓堂で、1660年に孫の綱宗によって造営された。平成18年から3年かけて創建当時の豪華絢爛な姿に復元した。須弥壇には、念寺仏と正宗・愛姫の位牌が安置されている。)
仮本堂(大書院)には、正宗公、忠宗公の大位牌、御本尊、三代開山木像などが拝見できます。
光雲観音(この観音は、宮城電鉄が松島まで延線し、事業の発展と無事故を祈念して松島海岸駅脇の八幡岬に奉祇された。高村光雲は江戸生まれで、仏師高村東雲に弟子入りし、養子となった。)
瑞巌寺洞窟群(元来、納骨や供養のための施設で、造営は鎌倉時代から江戸時代まで続いた。松島は古来「奥州の高野山」と呼ばれ浄土往生を祈念する神聖な霊場であった。)
瑞巌寺は、平安時代の初め828年に、慈覚大師円仁によって開創され、天台宗延福寺となり、鎌倉時代中期に、執権北条時頼が法身性西和尚を開山として圓福寺とし、建長寺派に改めた。戦国時代には、寺勢が衰え、妙心寺派に属する。江戸時代のはじめ、伊達政宗が現在の大伽藍を完成させた。
「毛越寺は、もうつうじと読む。もうおつじがもうつじになり、もうつうじに変化したといわれている。」
芭蕉の句碑 夏草や 兵どもが 夢の跡
高館で妻子ともに自害した悲運の義経主従をしのんでこの句を詠んだ。
天台宗の寺院。慈覚大師により開山され、現在は薬師如来、脇侍は日光菩薩・月光菩薩が安置されている。大火で焼失して荒廃した後、藤原氏二代基衡夫妻、および三代秀衡が壮大な伽藍を建立した。現在の本堂は1989年に平安様式に則って再建されたものである。毛越寺境内遺跡は、1954年より5年にわたって発掘調査され、その全容がほぼ解明されている。
武蔵坊弁慶の墓(1189年義経の居城高館を焼き討ちされるや、最後まで主君を守り、衣川にて立ち往生する。遺骸をこの地に葬り五輪塔を建て、後世中尊寺の僧により石碑が建てられた。)と伝えられている。
讃衡蔵は奥州藤原氏の遺宝や仏像、中尊寺に伝わる国宝、重要文化財が3000点あまり収蔵されている。内部を見学し、金色堂に向かう。
「大池跡」の説明板によると(寺域のほぼ中央、金色堂の南東下に開けたこの場所は大池跡と伝えられてきた。これまでの発掘調査から、大池跡は初代清衡の時代に築かれたもので、伽藍のあった場所と推定される。当初池の規模は南北約120m、東西約70mで、中央には中島が設けられていた。池の西高台は古経蔵跡と伝えられ、発掘調査で、この一帯に礎石建物跡が確認されてる。)
大池ハス
南大門跡
毛越寺伽藍復元図
薬師堂
地蔵堂
弁慶堂
阿弥陀堂
弁財天堂
釈迦堂
中尊寺ハス
流鏑馬神事の行われる馬場
鰻塚と岩の中に彫られた五輪塔
北参道鳥居
割拝殿様式の長床