とっておき南イタリア・シチリア島8日間

平成24.1.22〜1.29

集合時間が早いので、成田のホテルに前泊し、朝8時の集合時間に、空港に行き、37名の同行者と人気添乗員の石原さんに会い、10時のアリタリア航空で、ローマに向けて出発した。ローマからまた空路ナポリに着いた。着後、トーレ・エル・グレコのホテルにバスで走り、その日は終わった。

ゼウス神殿 ポンペイの守護神。中央にあるのは生贄を捧げる台

ローマ時代のレンガの厚みを説明しているガイドと添乗員

ヴェベレロ港から船に乗ってカプリ島へ。ゲーテが絶賛したナポリの町の風景を見ながら出航した。そんなに波があったとは思えなかったが、船が揺れて、船酔いした。カプリ島に着いたが、青の洞窟はクローズされていて入れず、島内を歩いて観光することになった。

ナポリは「ナポリを見てから死ね」と言われるように、風向明媚なところで、外国人が想像する輝く太陽と温暖な気候、陽気な人々というイタリアのイメージはこの都市が元になっている。その一方で今でもカモッラ(やくざ)による影響が強い土地である。ナポリは紀元前6世紀、ギリシャ人によって建市された。ナポリの語源はギリシャ語で「ネアポリス」(新しいポリス)と言う意味です。その後長らくローマ帝国の支配下にあった。476年の西ローマ帝国の滅亡により、南イタリアは東ゴート族、ランゴバルト族の支配が及んだ。6世紀になると東ローマ帝国のユスティニアヌス1世が征服に乗り出し、イタリア半島はラベンナを首都とするビザンツ帝国の属国となった。その後の色々な民族が去来し今日に至っている。

ローマに続く道

浴室 大きな浴槽、着物を入れる穴、水がでる甕などの部屋がいくつもある。

倉庫 と人体を石膏で固めたもの。中には骨がある。

パンやさん(ピッツァ)粉をひく機械や、カマドが残っている。

踊るファウノ像(ポンペイの遺跡最大の家で見つかるモザイク画)はレプリカで、本物は博物館にある。

市のあちこちのある井戸。番地のなかったポンペイでは、待ち合わせは、あの井戸でと言う具合にした。

浴場を出たところに居酒屋がある。

公共広場

海への門(昔、このあたりまで海だった。)をくぐって遺跡の中へ入る。道には馬車の車輪の幅を計算した石が横断歩道になっている。入り口近くには、馬をつなぐ穴があいている。

ポンペイは、1世紀まで、ナポリ近郊にあった都市である。79年のベスビオス火山の噴火による火砕流により、地中に埋もれた。  末期はローマの属国になり、最盛期の人口は2万人と言われる。噴火直後に、当時のローマ皇帝ティトスはポンペイに使者を出すが、すでに市は壊滅したあとだった。

ポンペイ遺跡

カプリ島の説明をするガイドのサルビオおじさん。帰りは大きな船だったので、あまり揺れず、船酔いもしなかった。

往年の大女優ソフィア・ローレンはここの出身で、彼女の別荘だったと言うレストランで昼食をとった。

カプリ島は、ナポリ湾にある島で、ナポリの南30kmに位置する。風光明媚で、ローマ皇帝ティベリウスが統治期間の後半を過ごした所でもある。レモンが特産物で、別名「レモン島」とも言われる。島には二つのコムーネ(都市)カプリアナカプリがある。北の島にはマリーナ・グランデ、南側にはマリーナ・ピッコラと呼ばれる海岸がある。

青の洞窟に入れなかったので、島内を歩いて観光することになった。まず、バスで島の上のほうに行き、そこから歩き始めた。

市庁舎広場では、地下鉄の工事中にローマ時代の船が見つかり工事は中断。発掘作業に変わった。

卵城 サンタルチア港の小島に突き出た要塞

カステル・ヌォーヴォ城 13世紀 フランスのシャルル1世により建てられる。

ナポリ歴史地区

世界遺産に登録されている地区で、歴史的な建物があるが、車窓からの見学だったので、写真をあまり撮れなかった。

ポンペイの近くのカメオ店で買い物をして、30km走りサレルノのホテルに入った。

ファラリョーニと呼ばれる海岸の岩

大きなお屋敷が続き、門には、二つと同じものがないといわれる鉄の模様が入っている。

3日目へ

荷物を運びますというマーク