ペヤックの丘には、麓から階段が続き、礼拝堂が建っている。
H.25.3.4〜3.13
メキシコの正式名称は、「メキシコ合衆国」で、国旗は、緑、白、赤の三色旗。緑は「独立」白は、「カトリック」、赤は「メキシコ人とスペイン人の統一」を表す。中央には、ヘビをくわえたワシがサボテンの上にとまっている図が描かれている。アステカ人の神話に基づいている。人口は、1億1065万人で、面積は196万4375kuで日本の約5倍である。首都はメキシコ・シティ(シウダー・デ・メヒコ)で、都市の人口としては世界一といわれている。民族構成は、メスティソ(先住民とスペイン系白人との混血)、約60%、先住民、約25%、スペイン系白人、約15%で、先住民は貧しい生活を強いられている。言語はスペイン語だが、25%の先住民は独自の言語を持っている。通貨単位はペソで、米ドルが使えない場合もある。
メキシコ盆地を中心に、350年から650年の間に繁栄の頂点に達する。20万人以上の人口があったと推定される。後に、放置されていたテオティワカンを訪れたアステカ人は、荘厳なピラミッド群を神が建てた都市と信じ、「太陽と月の神話」の舞台とした。タルー・タブレロという建築様式で建てられている。傾斜する基盤の上に、垂直な板面をはめ込んだ基段の積み重ねによって巨大なピラミッドを形成していく。今は、石がむき出しになっているが、以前は漆喰で覆われ、顔料で壁面が彩色されていた。
メキシコ・シティから50km北にあるティオティワカン遺跡は、紀元前2世紀に建造されたメキシコ最大の宗教都市国家である。この巨大なピラミッドを建設したのは、テオティワカン人であるとされている。8世紀ごろ滅亡し、消えてしまった。
テオティワカン
レフォルマ通りに立つ独立記念塔。レフォルマ通りは、1860年代、メキシコの統治を委ねられたマクシミリアン皇帝が、王妃カルロッタのために、フランスシャンゼリゼ通りを真似て造った。マクシミリアン皇帝はその後銃殺刑にされ、王妃は発狂し、悲劇の生涯を終える。 独立記念塔は、1910年メキシコ革命のさなか、ディアス大統領が、独立100年を記念して造らせた。
夕食は、ホテル近くのレストランで、マリアッチを聞きながら。うちわサボテンのスープ、はらみのステーキ、豚皮揚のアボガドソース
あまりにも多くの収蔵品に圧倒された。ここを全部見るには、何日もかかるに違いない。後ろ髪を惹かれるように博物館を出た。
碑文の神殿の地下王墓が原寸大で復元され、発見された埋蔵品が展示されている。パレンケの神殿は地下に墓を造った。密林に住んだマヤ人は、高度な文字と数学を持っていた。
マヤ
トルテカ文明の中心地として栄えたトゥーラ遺跡の「戦士像」 高さ4.6m
「コアトクリエ」は大地の女神であり、死の神であり、他の神を生んだ母なる神である。腹部にある切り落とされた首から2匹の蛇となって血が流れ落ちる不気味な像は、メキシコシティで発見された。
ケツアルコアトルの原寸大のレプリカ
世界遺産メキシコシティ歴史地区観光に出かけた。
2日目
前からユカタン半島のマヤ遺跡に行きたいと思っていた。今回15日間のグァテマラ・ホンジュラスと含むツアーに申し込んだが、結局メキシコだけのこのツアーで、行くことにした。 成田空港を15時40分のアエロメヒコ航空直通便で12時間55分のフライトで、メキシコシティに着いた。日本との時差はー15時間で、現地時間13時35分に到着しました。
ソカロ広場のカテドラル。この場所はアステカ時代にも中心で、神殿が建っていた。スペイン人征服者はアステカ人の神殿を破壊し、キリスト教布教の拠点としてカテドラルを造った。1525年に造られたが、その後改築され1813年に完成した。祭壇はメキシコ・バロック様式になっている。
ジャガーの宮殿
月のピラミッドで祭儀に携わる神官の住居であったとされるケツアルパパロトルの宮殿の南西にジャガー宮殿への階段がある。宮殿の中庭は半地下になっていて、3つの部屋がある。各部屋には、「ほら貝を吹く羽毛のあるジャガー」「ケツアルの絵」などが残っている。ケツアルコアトルとは、羽根を持った蛇のことで、人間の姿を借りてトルテカ人の神として崇拝されていた。
メキシコ湾岸
1709年建設の旧聖堂
地盤沈下のため傾いてしまっている。
1976年建設の新聖堂
グアダルーペ寺院。スペイン征服軍の侵入以前、神殿があったテペヤックの丘にある広大なカトリック教会である。メキシコ国民の精神的な支えであるグアダルーペの聖母が祀られている。黒い髪と褐色の肌を持つ。中では、ミサが行なわれていた。敬虔な信者は、膝行参拝といって、石畳の境内を堂内の祭壇まで膝行する。
エル・ザグラリオ教会の裏手に、テンプロ・マヨールの発掘現場がある。アステカ帝国の首都・テノチティトランの中央神殿跡である。現在でも地下に埋まっている。入場料を払うと、中に入れるらしいが、団体は入れない。
ベシャス・アルテス宮殿(メキシコ国立芸術院) 1904年から1934年にかけて造られた大理石の宮殿である。
コロンブスの像 1492年にアメリカ大陸を発見したコロンブス像です。メキシコには直接関係がないのですが。スペイン人が押し寄せるきっかけとなったということです。
マリアッチとは、メキシコを代表する楽団の様式である。7人から12人で構成され、バイオリン、トランペット、ギタロン、ビウエラの楽器ははずせない。初期の服装は、綿のマントに麦わらのソンブレロだった。「川の流れのように」は今メキシコで流行っているそうだ。 色々な場面で演奏される。ガイドによると、恋の告白にもマリアッチを連れて窓辺で演奏し、本人が顔をだしたら成功で、出てこなかったらすごすご帰る。という場面もあるらしい。
チェチェン・イツァー遺跡のチャック・モール像
雨神チャルティトゥリクエ。月のピラミッドの前に置かれていた。
コルテスに征服される前のメキシコシティ(テノチティトラン)の復元模型と俯瞰図 かってこの都市が湖に浮かぶ島だった頃の風景が浮かぶ。
ビュッヘスタイルの昼食をとる。豚の皮の揚げたものや、サボテンを料理したものなどを食べました。
ケツアルの絵
月のピラミッドに向かう死者の道沿いの建物に残る神格化されたジャガーの絵。
太陽の広場と太陽のピラミッド 高さ65m、底辺の1辺が225mで、世界で3番目の大きさを誇る。宗教儀礼のために造られ、平坦な頂上には以前は神殿が建っていた。年2回、太陽がここの真上にくる日には、後光が差しているように輝いて見える。これは、テオティワカン人によって計算されていたと考えられている。内部にはもうひとつのピラミッドがある。古い神殿を覆うように今の神殿が建てられている。248段の階段を上る。
メキシコ古代文明の母とも言われるオルメカ文明。黒人的風貌からさまざまな説が出ている。オルメカの巨大人頭像。数年前に名古屋でオルメカ文明展が開かれ、人頭像のレプリカを見て、初めて、「オルメカ文明」なるものを知った。 1862年、メキシコ西部のジャングルで、土中からヤカンのようなものが突き出しているのを見つけた。掘り出してみると、玄武岩の巨石で作られた人頭であった。紀元前1200年までさかのぼる最古の文明であることが分かった。最大の人頭像は、高さ3.3m、重さは20トンもある。
アステカ帝国の首都・テノチティトランを俯瞰した全貌図。首都はテスココ湖に浮かぶ島の上に造られていた。1521年、コルテスにより、アステカ帝国は滅ぼされ、テスココ湖は埋め立てられた。そのためメキシコシティは地盤が弱く、建物が傾いたり沈下したりしている。アステカの呪いのようでもある。
カテドラルの右隣には、エル・ザグラリオ教会がある。18世紀に造られ、外壁はメキシコ・バロック様式で、赤みを帯びたテソントレ(岩石)の壁面にエスティビテ(縦長逆台形の飾り柱)が特徴である。
黒いキリスト。毒を盛られた敬虔な信者のそれを吸い取ったので黒くなったといわれている。
カテドラルの前には、ガラス張りになっているところがあり、中が覗ける。アステカ時代の地面があります。
サボテンのお菓子(今日のお菓子)
正面玄関では、ちょうど国旗を降ろす儀式が始まっていた。
パレンケの碑文の神殿から発見されたパカル王のヒスイの仮面
52年ごとに行なわれる人身供儀を伴う火の儀式を描いたアステカの絵文書。52年は彼等のカレンダーで1世紀にあたり、そのたびに全ての火が消され、新たにおこされた火が各神殿や、周囲の祭祀センターに運ばれた。
マリアッチの演奏
踊りと唄
月のピラミッド 2番目に大きいピラミッドで、高さ42m、底辺150m×130m。350年頃に建てられた。太陽のピラミッドより低いが、やや隆起した所に建っているので、頂上の高さはほぼ同じ。このピラミッドのほうが重要度は高く、大きな宗教儀礼はここを中心に行なわれていた。大きく4層に別れ最初の一段目まで登ることが出来る。
アラメダ公園のベニート・ファレス記念碑。近くにあるソカロ広場より広い公園です。ベニート・ファレス大統領はメキシコで唯一のインディオ出身の大統領で、よそ者マクシミリアン皇帝を捕らえ銃殺刑にした人でもある。
今日から3連泊するホテルに着いて、初めての食事です。「田舎風スープ」と「魚ガーリックソース」「チョコレートムース」が出ました。
メキシコ最大の古代都市・ティオティワカン(世界遺産)
ファン・ディエゴ
発掘された墓の原寸大模型
上から、月の広場、死者の道、遠くには、太陽のピラミッドが見える。
国立人類学博物館
岡本太郎氏の塔
トルテカ
カカシュトラの壁画
マヤ文字
パカル王の青年期と壮年期の顔
上から見た太陽の広場
ケツァルコアトルの神殿