2019.10.31~11.02
教来石~下諏訪
赤彦は明治30年に久保田家の婿養子になり、大正15年に死去するまでこの家を拠点に活動した。庭の赤松は樹齢300年余りでよく手入れされている。「軒先に干したる柿に日短し 郵便配り食べていきにけり」この茅葺の建物は「柿影山房」という。かってはおおきな柿の木があったが、屋根を傷つけるということで切られてしまった。この山房には約200種の植物が生えている。
右手の高台には「カゴメ富士見工場」がある。左手には「奉納念仏供養塔」があり、「左甲州道」と刻まれている。カゴメを過ぎると下り坂をグングン進む。火の見櫓のところのY字路を左に進むと左側に「金山大権現」がある。鍛冶師の守護神。その先に石仏石塔群がある。百萬遍供養塔等がある。
街道に戻ると右に塔所小路、その先の右に「播磨小路」その向かいに片羽通り」その先の左側に「上ノ御社宮神」がある。御社宮司(みしやぐち)社は諏訪神社の神長官守家の守護神。境内には「天然記念物土橋祝殿大欅之碑」がある。その先に「番匠通り」標石がある。街道はその先で右折するが角に「甲州街道渋沢小路」標石がある。
駅前広場には「姥塚古墳碑」がある。明治38年(1905)中央東線の敷設に伴い茅野停車場が設けられ、その際古墳は取り崩された。 街道に戻り、Y字路を右に入るが、左に行くと「大年社」がある。諏訪神社上社の末社。御柱を立てないが、境内の鳥居は七年毎に建て替えられる。4月27日御座石神社の矢ヶ崎祭りに濁酒が奉納される。
甲州道中の開設に伴い「権現の森」の西辺りに青柳宿が開設された。度重なる宮川の氾濫や慶安3年(1650)の大火に見舞われ、翌4年に高所の現在地に移転し、「金沢宿」と改称された。本陣1軒、問屋2軒、旅籠17軒であった。
藤枝5:36の東海道線で、静岡、富士、身延線に乗り換えて甲府駅に9:27に着いた。中央線に乗り換え10:13に小淵沢駅に着いた。駅前にはタクシーを待つ人の列ができていた。やっと順番がきて、10:25乗ることができた。ちょうど2000円で、教来石の蓬莱郵便局のところに行くことができた。この郵便局では先日ハンコを押してもらっているので、10:29さっそく歩き始める。
諏訪市大和から諏訪郡下諏訪町に入る。左手に棚田が広がり、諏訪湖も見えてきた。街道を進むと左手に「茶屋橋本屋跡」がある。鯉の彫刻が施されている。諏訪湖で獲れた鯉の料理が名物で、高島藩主もここまで出向いたという。屋根には雀返しが乗っている。裏に回ると樹齢250年の「殿様おひねりの松」がある。枝がぐるぐるにひねられている。殿さまに石灯篭とともに贈られたもの。
右折しJRを越すと「千鹿頭神社(ちかとう)」がある。左折すると奥に「葛井神社」がある。大みそかに前宮で一年間神事に用いた御幣や榊などを境内の池に投入すると、翌朝遠州のサナギの池に浮かび上がるという。ご神木のケヤキは生きていれば樹齢700年から800年。再三にわたる落雷や火災で昭和49年に現在の高さに切り倒された。
道中を上り詰めると「諏訪大社秋宮」に到着した。わが国最古の神社の一つで、信濃の国造りをした後、日本国土の守護神としてこの地に鎮座した。御柱は七年毎の申・寅年に御宝殿とともに建て替えられる御神木で、社殿の四隅に建てる。
上諏訪宿は高島藩3万石の城下町として栄えた。本陣1軒、問屋1軒、旅籠14軒であった。
左側に秋葉常夜燈があり、その先の火の見櫓の手前を右に入る。すぐにY字路があり、ここが高遠追分で、宝暦8年(1758)建立の道標がある。「左 たかとう道」と刻まれている。「旧甲州街道道案内」の立て札がある。
金沢交差点を渡ると、火の見櫓のところに「明治天皇金澤行在所址碑」がある。ここが金沢本陣跡である。当初小松家が勤め、下の問屋を兼ねた。三代目小松三郎左エ門の時、隣の千野村と、山の所有地や金沢山の入会権をめぐる争いで、高島藩は千野村の権利を認める裁定をした。三郎左衛門は敢然と立ちあがり、幕府に直訴も辞せじと,控訴抗弁し、人馬継立の駅務を遅滞させ抵抗した。藩は延宝6年(1678)三郎左衛門を磔刑に処し、金沢山を没収し藩有とした。その後白川嘉右衛門が勤め、上の問屋を兼ねた。
街道に戻り、先に進むと右側の奥に「児玉石神社」がある。下桑原の鎮守。境内にある五個の大石は諏訪七石のひとつ。拝殿前の二個の大石は神社のシンボルで「いぼいし」と呼ばれる。大石の窪みにたまった水でイボを洗うと治ると伝わっている。境内の樹齢250年の大杉はご神木である。
右に「角間天神社」がある。天保12年(1841)創建。菅原道真を祀っている。向かいには「銘酒真澄」がある。寛文2年(1662)創業。高島藩御用酒屋を勤めた。今日はここまでにして今日の宿に急ぐ。ホテル近くの居酒屋でアルコールなしの食事をする。
JR中央本線ガードをくぐる。旧道は登り坂になり大きく左にカーブする。大門追分のT字路に突き当たる。追分には道標、常夜燈がある。大きな道標には「右江戸道」小さな道標には「右江戸道 左山浦道」常夜燈には「右東京迄 左大門道」と刻まれている。その先の右側に「姫宮神社」がある。
街道に戻り、そのまま道を突っ切ると、「達屋酢蔵神社」がある。達屋社は大工の神。酢蔵社は酒造の神で、横内の産土神。境内のケヤキは葛井神社のケヤキに次いで市内で2番目の巨木。樹齢は400年~500年。当社の御柱は八ヶ岳の御小屋神林より曳きだす特権を有する。
金沢橋で宮川を渡る。渡り詰を左に行く道は高遠道で、高遠藩の参勤交代の道筋だった。道中は右折する。これが西枡形である。突き当りを左折して、また突き当りのY字を左折する。右側に「権現の森」がある。金山大権現が鎮座している。武田信玄が開発した金鶏金山の守護神だったが、武田家が滅亡すると鉱夫達は青柳宿に定着し、石祠をここに移した。左右には石造物二十基が祀られている。
街道に戻ると、左側に木鼻に彫刻が施された「近江屋跡」がある。その先には旧旅籠「松坂屋武右衛門」「HOTEL」と刻まれた看板を掲げている。向かいにも木鼻に彫刻が施された旧旅籠跡がある。
左側の長慶寺参道口には、萬霊塔、聖観音像、地蔵菩薩などがある。参道を進むと、山門の右手に「おてつき石」がある。参勤大名や藩主の通行の際に、宿役人がこの石に手をついて口上を述べたという。本来は東西の宿口に置かれていた。この石は上町にあったものです。墓地には金沢宿のヒーロー・小松三郎左衛門の墓碑がある。
郵便局の手前を右折する。しばらく小径を歩くと左手に「諏訪神社」がある。元和元年(1617)の創建。教来石村の産土神、本殿は天保15年(1844)信州諏訪の宮大工・立川和四郎富昌の手によるもので、見事な彫刻が施されているが、目の細かい金網で覆われていて、写すことはできなかった。その先の左手には「明治天皇御田植御通覧之址碑」がある。明治13年、巡行の際にここで眼下の田植え風景を眺めた。今でも田んぼが広がっている。
諏訪大社下社の門前町として古くから栄え、中山道との追分を控え、中山道唯一の温泉地として大いに賑わった。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒であった。
坂を上ると突き当りに「温泉寺」がある。寛延17年(1640)高島藩主2代諏訪忠恒が菩提寺として建立。本堂は高島城本丸にあった能舞台で、明治33年、温泉寺が大火で焼失した時、移築して本堂とした。近くに温泉が湧出し、温泉の守り神として薬師如来を祀ったお堂があった場所を広めて寺を建てた。寺の先の坂を上ると「高島藩墓所」があり、和泉式部の墓があるが、行かなかった。
貞松院の隣には「高国寺」がある。高島藩三代目諏訪忠春の母永高院によって再興された。
元町交差点のところから二筋に分かれる。両筋とも上諏訪の宿並である。分岐に「十王堂跡碑」がある。この辺りが上諏訪宿の江戸口(東)である。角間川を角間橋で渡り、川沿いを歩くと古い土蔵や麹屋がある。
街道に戻り歩き始めるが5時を回って辺りは暗くなってきた。右側に「染一染物店」がある。江戸期の創業。かっては染物屋が軒を連ねていた。その向かいには「かねさ呉服店」がある。蔵造りの商家。
広場を挟んで豪勢な三階建ての建物は「宮川寒天蔵」である。地場産業として定着した寒天の保管庫であった。その前に名主を勤めた「五味家宅跡」があるが、見つけられなかった。明治13年明治天皇巡幸に際し、当家で休憩した。「明治天皇茅野御休憩所」碑があるはずであった。
しばらく国道を歩き、磐田建材のところで左に入るが、「電流ネット」で遮断されているので、このまま国道を歩く。諸水橋のたもとに道祖神、甲子塔、庚申塔が祀られている。右に入ると「汀川生家住居跡」がある。歌人森山汀川は明治13年生まれ。島木赤人とともに、「ひむろ」を創刊し、のちにアララギに合流する。神代集落センターの中に石仏石塔群が集められている。
路地を奥に入ると、「高木津島神社」がある。高木村の産土神。神社の左の山の上に島木赤彦と久保田不二子の墓がある。ここから300mも上らなくてはならない。
一里塚の先でT字路に突き当たる。この先の塚平旧道は三菱マテリアルに払い下げられ通行できない。う回路は左折して、一本目を右折して真っすぐな道を進む。右にカーブすると舗装路の旧道に突き当たる。ここには「富士見町の茶屋標識」がある。左折すると富士見変電所がある。その先の右側に「富士見公園」がある。明治44年、アララギ派の伊藤左千代がここの風景に感激し富士見公園を作った。園内には斎藤茂吉、島木赤彦の歌碑、芭蕉句碑などがあり、高尾神社が祀られている。
すぐ先に樹齢200年以上のとちの木防風林がある。赤松が160mの間に植林されている。この地は風当たりが強く五穀は実らず無住の地であった。寛政年間に村人が高島藩に願い出て赤松を植林した。その先に塚平の一里塚がある。北塚を残している。塚木は榎で、江戸日本橋より47里目である。塚前には道祖神が祀られ、傍には標高950mの標識がある。
とちの木の村内は緩やかな上り坂になっている。村はずれの右手に「尾片瀬神社」がある。境内には宝篋印塔、繭玉神社石碑、福昌院跡碑がある。多数の石仏石塔群がある。
その先のY字路を左に進む。道標があるが、風化が進んで読めない。そぐ先のY字路を左に進む。左手に道標がある。「右山浦 左すわ道」と刻まれている。山浦は八ヶ岳西山麓一帯を指す。三つ目のY字路を左折する。右に行くと瀬澤合戦跡に行く。街道には馬頭観音や甲子塔が多数ある。左の擁壁上に観世音菩薩碑が祀られている。
すぐ先で国道に合流する。立場川を瀬澤大橋で渡る。弁柄造りの旧家の隣のお宅の軒下にはめどでこが飾られている。傍には「本宮御柱御用」と記された木札が掲げられている。坂を上ると左手に「諏訪神社」常夜燈があり、後ろには男女双体道祖神が祀られている。諏訪神社は瀧澤村の鎮守である。隣には「吉見屋」がある。瀬澤村は立場であった。
左手の火の見櫓のところに「標高800m」標識がある。火の見櫓を右折すると、石仏石塔群がある。その先の左側に馬頭観音が祀られている。
突き当りを左折して小橋を渡り、国道に向かう。合流付近に金山彦命、甲子塔、多数の馬頭観音が祀られている。机信号交差点で国道に入り、右手の家のブロック塀の中に「明治天皇平岡御膳水碑」がある。明治天皇の野立に供された。
ドライブイン赤石で国道に出る。火の見やぐら手前を下り、すぐ右折する。すぐ平岡の一里塚がある。塚木はなく、片塚であった。江戸より46里目である。現在の塚は約10mほど国道沿いに移設されたもの。刈り取りの済んだ田んぼの中を進むと「明治天皇巡幸御野立所跡碑」がある。明治天皇が出立すると、玉座跡の白砂を村人が御守りとして持ち帰った。
石仏石塔群が並ぶ教冠院の先で右に折れる。左手に「三ツ辻柳」がある。大木であったが、強風で倒伏した。急坂を上り牛舎を過ぎると右手の草道が「逸見追分」である。釜無川沿いの甲府道中は川路であり。、逸見路(へみじ)は七里岩の上を通行して韮崎に至る原路である。「みぎへみじ にらさきまで むしゅく」甲州街道と逸見筋との追分。
右の奥に「一品香」の看板があり、干し柿が干してある。台湾の方がやっているお店だった。国道のすぐ先の急坂を右に入る。右に「日蓮上人高座石」がある。日蓮聖人は文久3年(1274)流罪を赦免され、佐渡から鎌倉に戻った。その後甲斐身延山に草庵を結び、村々を巡錫した。下蔦木村では悪疫が流行り、聖人は三日三晩高座石に立って説法と加持祈祷を行い、村人を救った。日蓮の弟子・日誘は、高座石の傍に堂を建立する。これが教冠院である。
北杜市上教来石標識で、国道20号にぶつかる。国道側に「教慶寺」がある。中国の宋から渡来し帰化した蘭渓道隆禅師の開山。境内には教化石がある。蘭渓が石上に元文2年(1737)諏訪大明神を祀った。下のお墓の草取りをしていた夫婦に「猿がいる。」と聞いて少し石段をあがり、写真だけとって退散した。 蘭渓禅師が村人の難儀を取り除くために鎮座させた「地蔵菩薩」が祀られている。両側には庚申塔、甲子塔、馬頭観音が並んでいる。
加久保川を加久保橋で渡り、上教来石バス停(と言っても朝と夕方と1本ずつしかない。)をすぎると「御前水跡碑」がある。明治13年、明治天皇が細入沢の湧水を飲み褒めたという。碑のそばに小さな馬頭観音があり、そのそばで、高齢者が仲良く座って話をしていた。のどかないい感じでした。今日最初に話しかけられた人達です。
街道筋には、「銘酒本金」「銘酒横笛」「銘酒麗人」「銘酒舞姫」が軒を連ねている。
下諏訪の駅には午後13:30に着いた。電車の接続が悪く。1時間近く待って、中央本線、身延線、東海道線で藤枝に帰った。
1日目は足がつってどうなる事かと思っていたが、2日目以降は無事に歩けました。1年半かかって甲州街道を歩ききることができて、お酒が飲めれば乾杯をするところです。今回は初めての2泊3日ということで体力的にもきつくて、長い石段を見ると上迄行く気力もなく、参道口でお参りを済ませたことも何度かありました。見逃している場所や物もたくさんありそうです。 次は日光街道を目指しましが、体力と相談しながら歩こうと思います。
大鳥居と手水場の間を抜けると突き当りに「番屋跡碑」がある。下諏訪宿は諏訪大社下社の門前町で、下諏訪宿は甲州道中口と中山道口に番屋が設置されていた。左折すると、先ほどの「新鶴本店」がある。新鶴は幕末尊王派で南画家の「天龍道人」の住居跡である。 「下諏訪宿甲州道中中山道合流の地碑」がある。ここが甲州道中の終点である。完歩しました。万歳です。
「新鶴本店」で塩羊羹を買い求め、そば店で昼食をとる。見残していた「専女(とうめ)の欅を見に行く。樹齢1000年。秋宮の一部で芽吹きや紅葉で気候を占なう「陽気木」として知られている。裏に回ると洞ができている。
承知川を承知橋で渡る。武田信玄が川中島出陣の際に、諏訪大明神に戦勝を祈願し、社殿の建て替えを約した。しかし戦に利あらずここまで戻ると、馬が頑として動かない。信玄は先の約を思い出し「神のお告げ承知つかまり候」と言った。「承知橋の一枚岩」がある。(この石は承知川にかかっていた橋石で、輝石安山岩で重さは約13トンある。この一枚岩のレンガ模様は防滑とも信玄の埋蔵金の地図ともいわれてきた。)
高木から冨部に入ると左手に「冨部一里塚」がある。塚木が榎であった。江戸日本橋より53里目で甲州街道最後の一里塚。その先の右手には「若宮神社社標」がある。諏訪大社の小社。で、七年に一度「御柱祭」が行われる。
向かいには「男女双体道祖神」が祀られている。その家の横には「元気もりぞうぽすと」がある。郵便ポストを木で覆ってもりぞうになり、上にはちょんまげもあります。その家の方が出て来て、「木がだんだん伸びて来てポストを囲み、植木屋さんが作ってくれた。」と教えてくれた。
その先の右手には「寿量院」がある。以前は茅葺屋根の本堂だったが、建て直されてきれいになっている。天正10年(1582)創建。境内の文殊稲荷社に枝垂れ桜がある。(大坂夏の陣の際に二代藩主諏訪忠恒公が出陣、戦勝祝いにサクラを持ち帰り移植した。)その先の右側に常夜燈がある。天保10年(1839)建立。
その先の右側に「白山神社」がある。急な階段を登ると「全快地蔵尊」が祀られているという。湯の脇から大和に入ると右側に「先宮神社」がある。諏訪神社の神が鎮座の際に当社の神が抵抗したため、境内から出ることを許されず、小川に橋が架けられていない。橋のない川を飛び越えて境内に入る。拝殿横の大ケヤキは樹齢690年以上の古木で、幹には異様なこぶが数か所できている。
街道は右にカーブすると左手に「指月庵」がある。高島藩主は菩提寺である温泉寺墓参りの際に、虫湯で入浴し、ここを休息所とした。庭は市文化財指定庭園である。街道から右の坂に入ると、「西国三十三観世音、あと読めない」石碑があり、三棟の社があり、仏様が納められていた。
すぐ先の方羽保育園に吉田の松がある。高島藩士吉田式部彦衛門が元禄3年(1690)から享保8年(1723)の間に4代藩主諏訪忠虎の大坂城守護に随行した際に持ち帰った黒松。おじいさんが掃除をしていた。 この向かいには「下桑原の一里塚」がある。西の塚木は榎、東の塚木はなかった。江戸より52里目。
諏訪1・2丁目交差点あたりが「小平本陣跡」であるが何もない。ここから南西に700m行くと諏訪氏の居城高島城がある。諏訪湖に面していたので「浮城」と言われた。諏訪1丁目交差点を右折しすぐ左折する。右の奥に「手長神社」の長い石段が見える。高島城の鬼門鎮護神として崇敬された。「上諏訪宿」の標識がある。
高国寺から街道に戻り、街道を直進すると「八剣神社」がある。高島藩の鎮護神。「諏訪湖御渡り神事」を担い吉兆を占う。
その先には「正願寺」がある。芭蕉の弟子「河合曽良」の墓がある。晩年は幕府巡検使として九州壱岐勝本に渡るが病に倒れ客死した。享年62歳であった。辞世の句は「春にわれ 乞食をやめても 筑紫かな」
3日目
秋葉神社の前には「明治天皇御前水」明治13年巡幸の際に供された。境内に入ると、巨木の根方に四社が埋め込まれている。
先の右手に足長神社参道口がある。上桑原村の産土神。諏訪大社の祭神に随従する足長彦神を祀っている。あまりの石段の高さにここでお参りを済ませた。街道の左側には秋葉山石塔と男女双体道祖神が祀られている。
街道沿いには信州特有の「雀返し」と呼ばれる棟飾りの旧家がある。その先の左手に「秋葉常夜燈」と道標「左江戸みち 右大明神江」がある。霧ヶ峰入り口交差点手前の右の小山が桑原城跡である。信玄の猛攻に対して諏訪頼重は上原城を焼き払い、桑原城に籠城したが、自刃に追い込まれ、諏訪氏惣領家が滅亡した。
その先には「神戸の一里塚」と「甲州道中五十一里塚解説」がある。塚木は槻(つき)でした。右奥には「地蔵院」がある。境内のカツラの木は樹齢250年で、市内最大のもの。その先の右手に火入れの部分が木製の変わった常夜燈がある。
その先の右手に「秋葉山常夜燈」があり、傍に男女双体道祖神が祀られている。その先の左手に小さな「神ノ木神社」がある。橡の木(とち)に降臨する「勧請の木」として信仰された。
公園先の右手に頼重院がある。諏訪頼重の菩提寺で、本堂の左手に頼重の供養塔がある。頼重の正室が信虎の娘なので、信玄の義理の兄になる。新田次郎の句碑がある。「陽炎や 頼重の無念 ゆらゆらと」
さらに進むと右側に常夜燈がある。竿石には「秋葉山、白雲山、象頭山、日本之総神」と刻まれている。その先の右に「火燈(ひとほし)公園がある。御柱年の7月15日夕、頼重院裏の火燈場で諏訪大社への鳥居火を灯して奉納する神事が行われる。
街道に戻らず、神社を出て、20号線を歩き、上原交差点に出る。その先の上原八幡信号機のところに上原八幡宮がある。諏訪盛重が鎌倉八幡宮を勧請したもの。島藩主諏訪家の崇敬が篤く、参勤の際に道中安全を祈願した。でもすっかりさびれてしまっている。その裏手には「光明寺跡」があり、碑が立っている。鎌倉五山になぞらえた上原五山のひとつ。
しばらく歩くと茅野駅前に出る。左に諏訪大社上社大鳥居がある。参道口鳥居で上社は諏訪湖の南西に位置し、本宮と前宮の二社が鎮座している。駅前には「寒天の里」のモニュメントが立っている。立っているのは寒天だ。
道の反対側に「丸井伊藤商店」がある。創業100年の信州味噌醸造販売元である。味噌蔵の奥に「貧乏神神社」が鎮座している。ここでお祓いをしてからおかめ神社にお参りをするのが良かったようです。せっかく授かった福を貧乏神神社で落としてしまう。しまった!!盛大に豆をぶつけてお祓いをした。
街道を進み、中央自動車道下をくぐり、宮川古道口東が分からず、新田バス停まで来てしまった。右に折れて古道に入ると茅野の一里塚址がある。塚木は松であった。江戸より50里目。古道は元禄年間に廃止になり、甲州道中が新設され、一里塚は取り残された。手前には男女双体道祖神が祀られている。
再び宮川に沿って進むと、宮川坂室交差点に突き当たる。右折して20号に合流する。ここには「秋葉山」「出羽三山碑」「三十三夜塔」「馬頭観音」などがある。
木舟入り口バス停を過ぎると右手にSUZUKIがありその手前をUターンして上り坂に入る。左手斜面に庚申塔、石倉大六天、道祖神、馬頭観音が祀られ、その先の右手には御柱に囲まれた石塔がある。
元来た街道に戻らずそのまま宮川に沿って農道を歩く。(街道ではない道)木舟で橋を渡り木舟信号機のところに出る。街道を進むと右側に地蔵立像が陽刻されている。その奥に車が通れるように下が開いている火の見櫓がある。
宮川を万年橋で渡りHOTELメルヘンを回り込み農道を歩くと稚児神社がある。(この辺りで地元の方に道を教えてもらった。)稚児神社先の高台に金沢の一里塚がある。片塚で塚木はなかった。江戸より49里目。
矢の口バス停を左に入る。「旧甲州街道」の説明版がある。「青柳宿は焼け屋敷と呼ばれ、現在は水田となっている。」宿場の入り口は鍵の手になっていて、新田開発時にお迎えした「御射宮司社」が祀られている。 のどかな農道を歩くと、そば畑に機械が入っている。傍のおじさんが説明してくれた。畑を借りてそばを作っている。この機械は刈り取って蕎麦粒を大、中、小に分けて袋にいれ、茎は畑に戻すのだそうだ。優れモノの機械です。
旧道先の右手に如意輪を安置した祠がある。ここは小松三郎左衛門が磔にされた刑場跡である。時に34歳であった。寛政2年(1749)町民は刑場跡に三郎左衛門を供養する地蔵を安置し、「みょうり様」と呼び崇敬した。宮川の氾濫で流失したため、12年に新たに如意輪観音が安置された。先に進むと宮川に突き当たる。左折して宮川沿いに進む。突き当りに石仏石塔群がある。道祖神、地蔵、魚供養塔等があり、大きな石塔は「水神明王」で宮川を鎮めるために祀られている。
右手に大きな明治中期建築の横棟造りの旧家がある。馬方と馬が共に宿泊で来た馬方宿跡で、建物前には馬つなぎ石がある。向かいにも馬つなぎ石が残されている。
金沢交差点を左折すると、金沢小学校に突き当たる。このT字路を右折すると金沢コミュニティセンターがある。その敷地内に東日本の縄文時代の磨製石器で、仏具の独鈷杵(とっこしょ)に似ているところから「独鈷石」となずけられた。センターを左に回り込むと「青柳神社」がある。繭を司る神を祀っている。小松三郎左衛門の顕彰碑、三郎左衛門地蔵立像が安置されている。
馬頭観音や石仏石塔群などが祀られた街道を歩く。EPUSONのテニスコート、EPSONの金沢清和荘 を左に見て街道を進む。
その先の右側の街道斜面の中腹にある大石は「ゆるぎ石」と言われる。触ると揺れたといわれる。傍にある案内板によると「ゆるぎ石はJR中央線を越えた御狩野集落にもある。夫婦石ともいわれ毎日米一粒分づつ歩み寄るといわれている。江戸時代、甲州街道を行き来する旅人は、この石を金沢宿出入り口の目安とした。」
その先には「御射山神戸の一里塚」があり、両塚を残している。西塚のケヤキは往時のもので樹齢400年、東塚は榎であったが明治30年に枯死してけやきが植樹された。江戸日本橋より48里目である。 塚上には、標高917m標識がある。
国道を進むと、北枡形を残しているというが、見つけることはできなかった。その先でY字路を左に入るところに「馬頭観音文字塔」が祀られている。上り坂を進むと右に石仏石塔群がある。左を入ると「神戸合戦跡」である。享保元年(1528)信濃に浸出した武田信虎と諏訪頼満が激突し、諏訪方が勝利した。戦死者を供養する五輪塔が並んでいる。
駅から来ると正面に「神戸八幡社」がある。社殿は宝暦12年(1762)の創建。社殿脇のケヤキは樹高30mで推定樹齢390年。境内には芭蕉句碑がある。「雪ちるや 穂屋のすすきの狩りのこし」
駅のほうに右折すると右側に「筆塚」がある。午後5:08に「すずらんの里」駅に着いた。1時間に1本しかない電車を待って「茅野」駅に向かった。さすがに夕方は冷え込んだ。乗客の中にはダウンを着ている人も多かった。
坂を下りて南枡形跡をヘアピン状に回って国道20号に合流する。宮川を渡ると右手に「小川平吉先生生誕之地碑」がある。明治の政治家で、鉄道大臣在任中、それまで左書きの駅名標を右書きに改め「国粋大臣」と言われた。 御射山神戸信号機の向こうに「冠木門」の旧家がある。
その先の石塔群は「庚申塔」「千庚申塔」嘉永6年(1853)建立の筆塚がある。暗くなって歩いているので、心配されたのか、どこまで行くのか聞かれた。「すずらんの里駅」まで、と言いうと、「あそこに見えるよ。」と指さした方角に灯のついた駅が見えた。勾配の強い洗坂を下ると右側に「富倉山碑」がある。信濃三十三観音霊場十五番札所、岩殿寺の山号。
その向かいには「旅館桔梗屋跡」がある。明治から大正にかけて伊藤左千夫、土屋文明、竹下夢二、斎藤茂吉、田山花袋など多くの歌人・文人か訪れサロン的な役割を果たした。常夜燈の隣には「如意輪観世音菩薩」の標石がある。像は名取家の敷地内に祀られている。
神社の並びに石祠や男女双体道祖神がある。とちの木村の西口である。緩い坂を上ると右手に馬頭観音、馬頭観世音文字塔が一列に並んでいる。
右に入ると机観音堂がある。境内には六基の六地蔵石憧がある。境内の石段を上ると三社明神社が鎮座している。 境内には宝篋印塔がある。
右手JAの手前に「御前水」跡碑がある。この水は七里岩から出る湧水である。与謝野晶子の歌碑がある。 「白じらと 並木のもとの石の樋( ひ)が 秋の水吐く 蔦木宿かな」本陣門の裏にも歌碑があるというが、門は閉じていて見ることはできなかった。 その先の左手に「西枡形道址碑」がある。
宿並の家々には旧屋号札が掲げられている。本陣跡に隣接する「桔梗屋跡」は御影石の標石になっている。
上蔦木交差点を過ぎると、右側に「本陣大阪屋源右衛門跡」がある。元治元年(1864)の大火の後に建てられた本陣門を残している。問屋を兼ねた。門の並びに「明治大帝駐輦跡碑」がある。明治13年、明治天皇は旧本陣有賀源六宅で休息した。
道路の反対側に「めどでこ」を飾った蔦木簡易郵便局がある。5000円預けて「信州蔦木宿 蔦木簡易郵便局」の印鑑を押してもらった。三光寺の隣には「十五社大明神」がある。七年に一度御柱祭が行われる。社殿にはその時に使われる「めどでこ」が奉納されている。めどでこは棒に縄の輪をくくりつけ、御柱の先端に取り付け、氏子はこの輪に足を入れて体を安定する。以前「御柱祭」を見学した時に見たことがあります。
南枡形跡には「枡形道路碑」がある。蔦木宿の江戸口である。本来は碑を左折するが、道路改良工事により、約10m先に移動した。半鐘やぐらを左折し、国道20号を右折する。枡形の先右手に三光寺がある。武田家11代・信重が創建。信虎は諏訪と和睦を結び、天正9年(1582)信虎の三女で信玄の妹・ねねを諏訪頼重に嫁がせ、甲斐領であった上蔦木を化粧料とした。
緩い坂を下ると「蔦木宿」モニュメントがある。12:37蔦木宿に到着した。小川を越すと庚申塔、甲子塔があり、寛政3年(1791)建立の常夜燈の奥に石祠道祖神が祀られ、宿口を守っている。
20号に突き当り、本当は道を突っ切って進むが、その道には「電流ネット」が張ってあり、不安な人はこの新国堺橋を渡って国道に進むようにとあるので、橋を渡る。下蔦木信号で、甲斐国から信濃国に入る。ここは七里岩の北端になる。
坂を上り詰めると、高架橋で中央本線を越す。中央線に沿って進み、阿久川を宮沢橋で渡ると斜め右に進む。のぞみ大橋の高架下をくぐる。左側に「南無阿弥陀仏名号碑」と小さな馬頭観音が祀られている。早川を早川橋で渡ると「原村・向ヶ丘方面標識」がある。ここを左折する。旧道はいったん宮川から右に離れJR中央線ガードをくぐる。
境内はちょうど菊の品評会が行われていて、たくさんの菊の鉢が並んでいた。七五三の親子ずれ、外国人で賑わっていた。
スズランの赤い実
慶長9年(1604)甲府までの甲州道中が整備され、その後下諏訪まで延長された際に設けられた。本陣1軒、問屋2軒、旅籠15軒であった。宿長は約491mで、宿並は6度大火にあっている。
2日目
下蔦木集落センターに「標高731m」の標識がある。坂を上ると真福寺の前がY字路になっている。左に進む。日蓮聖人に帰依し、真言宗から日蓮宗に改宗し、和尚も名を「日誘」とした。境内には芭蕉句碑がある。読めなかったが「御命講や 油のような 酒五升」
向かい側には五山の一つ「極楽寺」の「南無妙法蓮華経題目碑」がある。その先には原田通り」標石。上原は上原城の城下町であった。その先の右側は「鍛冶小路」標石。その前に五山のひとつ「金剛寺跡碑」。
街道に戻り、右手のJA農産物直売所向かいの左小路に入ると「国枝神社」がある。ついで、浅川菓子店を左に入ると檜皮葺の稲荷神社が祀られている。 その先で上川を上川橋で渡る。往時は「茅野川」と呼ばれた。上流には諏訪大社御柱祭の「川越場」がある。
坂室交差点を右に入ると「酒室神社」がある。御射山祭りの際に濁酒を造り、山の神に供える前夜祭が行われた。本殿は見事な彫刻が施されている。境内の倉庫には「めどでこ」が収納されている。 境内の東隅には明治34年に発掘された「雨降り塚」と呼ばれる古墳がある。
畑の向こうに「寒天の里」看板がある。海藻の天草を煮た汁を固めたものをトコロテンという。これを更に凍結乾燥したものが寒天。この地は冬になると夜間の気温は零度以下に下がり、寒天造りに適していた。T字路に突き当みやがわたる。本来は直進すると一里塚があったが、今は通行不可である。
その先の右側に「庚申塔」があり、その先には題目碑がある。文久元年(1861)建立。身延69世の書「南無妙法蓮華経」が刻まれている。。
街道に戻り歩くと「ナツメ」の木に実がなっている。一ついただいて口に入れると以前中国で生のナツメは今しか食べられないといって食べた味がした。中国五果の一つ。その先の右手に「南信八名所石投場跡碑」がある。往時は諏訪湖が真下まで迫っていて、旅人は湖面に石を投げ興じた。 隣には「明治天皇駐輦址碑」がある。明治13年巡幸の際にここから漁師たちの投網を上覧した。
左手の火の見櫓のところに、御柱の立った「男女双体道祖神」が祀られている。その筋向いに「山王嵜五社神社がある。その先を右折すると「島木赤彦住居跡」がある。
その先の右手に石仏石塔群がある。百番供養塔、庚申塔、道祖神、新しい「男女双体道祖神』らが祀られている。左の街道脇の林の中に旧道痕跡がある。足がつるので慎重に歩き、時々立ち止まっていたら、車を止めて、迷っているのではないかと心配してくれた方がいた。迷ってはいないが足が持つか心配です。
大きく左にカーブすると,登り坂の林道になる。右手に石仏石塔群がある。道中は下り坂になり、小川を渡ると旧瀬澤村(落合)から旧とちのき村(富士見)に入る。小橋のところに小さな「水神」が祀られている。
下り坂になると右手石垣の上に「かぐら石」がある。獅子頭に似ている石で、下からきれいな清水が湧き出ていたところから「清水のかぐら石」ともいわれ、旅人の休息の場であった。その先には馬頭観音が壇上に祀られている。
国道20号に突き当たるが、手前の草道に入る。ここが旧道痕跡である。左手の二本杉の根方に石造物があり、175km標識で国道20号に出る。
道祖神の前で枡形は右折するがここを直進すると右手に不動明王、愛宕山大権現地蔵、庚申塔、甲子塔があるその先には信玄堤がある。道祖神を右折すると「川除古木」が聳えている。釜無川の氾濫による水害から蔦木の地を守るため植樹された。
左折し、道なりに右折し、Y字路を左に進む。ここを右に入ると観音供養塔、二十三夜塔、甲子塔がある。左に進むと、右手に常夜燈があり、奥に石祠道祖神が祀られている。宿口に鎮座して悪霊の侵入を見張っている。
古碑の先で旧道はT字路になり、右折する。左手には石仏石塔群がある。ここからは眼下の国道20号に沿った下り坂になる。
左に進むと、左手に石祠道祖神が祀られている。旧下蔦木村に入る悪霊を見張っている。すぐ先の右手に「富士見町指定史跡 応安の古碑」と刻まれた碑がある。碑の後ろには子乃神、九四天、馬頭観音像などが祀られている。古碑は後ろにある四角の石造物で、宝篋印塔の基礎石と言われている。応安5年(1372)の銘が刻まれていて、諏訪地方では石造物として最古のものである。
大目沢を大目沢橋で渡ると右側に「蓬莱山口関跡」左に「西番所跡」がある。 武田信玄が設けた甲州24ヶ所の口留番所の一つ。信州口を見張った國堺の関。西番所は徳川幕府が設置した番所。「女改め」の取り締まりが厳しかった。番所蔵を残している。
屋根に鍾馗さんのような人形を乗せた家を過ぎ、国道側に左折してしばらく行くと「山口素堂生誕地跡碑」がある。「目には青葉 山ほととぎす はつ松魚」素堂はこの地の農民俳句に薫風を与え、75歳で享保2年(1717)没した。
「清流と緑のふるさと白州歓迎塔」を右に入る。上教来石集会施設のところに「白州観光名所マップ」がある。のどかな畑の中を歩いていくと「順禮四国八拾八個所供養塔」が右手に立っている。
車窓からの八ヶ岳
千本木川を渡り火の見櫓を過ぎると「大ケヤキ」が左側にある。欅の裏にまわると、空洞で、幹の皮を残すのみである。甲州街道標石、津島牛頭天王、男女双体道祖神、慰霊碑等がある。
神社の境内には御柱に囲まれた男女双体道祖神が祀られている。正月にこの場所で諏訪湖の鯉が奉納される神事が行われる。
貞松院には家康の六男松平忠輝の墓がある。家康の勘気に触れて高島城に幽閉され、93歳で亡くなった。
旧道赤羽バス停を過ぎると国道20号に合流する。合流したすぐ先の石段を下って清水旧道に入る。旧道はすぐに清水1.2丁目交差点に出る。交差点右の細い道に入る。「清水町の清水」が湧いている。これは庶民用の清水です。その先には「殿様用御膳水」がある。高島城に藩主がいる時はこの清水を用立てた。
街道を進むと、右手に「石仏石塔群」がある。南無阿弥陀仏名号碑、馬頭観音、岩久保観音碑等がある。火の見櫓を過ぎるとした道に合流する。この分岐には「林家記恩碑」がある。公民館の前に「男女双体道祖神」がある。装束から見て祝言道祖神です。傍には秋葉山石塔がある。
街道沿いの蕎麦屋で昼食をとった。その先で右に曲がり坂を上ると「宗湖寺」がある。諏訪家の藩祖諏訪頼忠の菩提寺。頼忠は断絶した諏訪家を再興した。山門は諏訪藩家老の邸門を移築したもの。境内には「明治天皇茅野御膳水」碑がある。
街道に戻る。宮川交差点は三差路になっていて、中央の県道197号払沢茅野線に入る。左側に三輪神社がある。久寿年間(1154~56)の創建で、三輪村の産土神であった。その奥には「おかめ神社」がある。祭神は天照大神が天岩戸に隠れた時、岩戸の前で舞を踊った「あまのうずめ」で福の神という。
茅野ステーションホテルで朝食を済ませ午前7:21の電車ですずらんの里駅に向かう。