深谷~新町
H.27.05.09~10
早朝家を出て、東海道、新幹線、高崎線を乗り継いで、9時15分に深谷駅に着いた。深谷ネギの「ふっかちゃん」に見送られて、前回行った「飯島本陣」まで歩く。今回も「本日休業」の札がかかっていたが、ここは非公開だそうです。深谷特産の赤煉瓦造りの建物が目につく。
江戸時代中期の優れた銅鐘
行在所の奥には、「於菊稲荷神社」がある(。美貌の飯盛り於菊は不治の病に倒れ、稲荷に祈願したところ全快し、稲荷神社の巫女になった。)
新町宿は、上野七宿の東口にあたり、神流川の渡しを控え、承応2年(1653)落合村と笛木村を合わせて「新町宿」ができた。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で、小宿ながら飯盛ははなはだ盛んであった。
勅使河原交差点で国道17号と合流する。神流川橋のたもとに復元の見透灯籠がある。本物は線路の向こう側にある「大光寺」に移設されている。 神流川は暴れ川で、出水の度に川筋を変えて伝馬や旅人を悩ました。文化12年(1815)本庄の戸谷半兵衛が見透し線上に灯籠を設置した。
賀美小学校を過ぎると、右側に「石仏・石塔群」がある。寛政12年(1800)建立の庚申塔など三基の石塔がある。その先には、「勝場の一里塚」跡がお堂のそばにある。江戸日本橋より23里目。
その先に「中山道解説」がある。(新町宿への直通路ができるまでは、陽雲寺の東で北に向きを変え、角渕を経て倉賀野宿へ向かっていた。この道は三国街道とか伊香保街道と呼ばれていた)。
陽雲寺(武田信玄の弟・信実の嫡子川窪信俊が金窪城に入城する際に、伴った信玄の正妻・三条の方が境内に居住し、仏門に帰依し、法号を陽雲院と称した。)
左側に石仏・石塔群が並んで、奥の小さな祠は開運薬師如来坐像が安置された薬師堂である。向かいのキムラヤ乳業の所には、自然石の「庚申塔」がある。
神保原陸橋交差点を過ぎ、旧石神村に入ると、赤城山を望む立場があった。「神保原」は明治になって、石神村、忍保村、八丁河原村が合併し「神保原」となった。
玄室
県道392号・勅使河原本城線を歩き、「上里町・本庄市の境界標識」があるが、見落とした。その先の左側に浅間神社の赤い鳥居が見える。 浅間山古墳の上に祀られている。古墳は直径約38m、高さ約6mの円墳で、古墳時代末期の築造で、横穴式石室を残している。出土遺物は昭和2年に玄室の一部が露出した時に出土した鉄鉾、耳環、玉類などが東京博物館に収蔵されている。
栄泉の描いた「本庄宿」は、神流川の渡しの風景です。勅使河原村の河原から中洲までは架橋されている。中洲から新町宿までは舟渡しになっている。画面右手には常夜燈(見透灯籠)。参勤交代の大名行列を描いている。背景には、上毛三山、右から赤城山、榛名山、妙義山が描かれ、赤城山の後ろには奥日光の白根山、妙義山の後ろには信州の浅間山を描写している。
歴史民俗資料館には、「旭・小島古墳群と前の山古墳」から出土した埴輪が展示されている。この地域に古墳が造られたのは万年寺付近で、県内でも数少ない古式古墳(5世紀初頭)である万年寺八幡山古墳や隣接する万年寺つつじ山古墳からは、学術上重要な遺構や土器、玉類が発見されている。
資料館の前には、「田村本陣門」が移築されている。この門は北本陣と呼ばれた田村本陣の正門だった「皇女和宮 涙をさそう 田村門」 和宮は11月15日に本庄田村本陣に宿泊した。
本庄城・弘治2年(1556)本庄実忠が築城する。永禄10年(1567)北条氏邦の攻撃で敗退し小田原北条氏の配下となる。秀吉の小田原攻めの際に落城する。家康の関東移封後は小笠原信嶺が城主となる。慶長17年、子の信之は古河に転封となり廃城になった。
その先には、「八幡大神社」がある。牧西市の鎮守。建久6年(1195)児玉党一族の牧西四朗広末が鎌倉八幡宮を勧請したもの。奉納される神楽「金鑚神楽宮崎組」は本庄市指定文化財。木製の鳥居には瓦屋根が施工されている。
その先には、右側に常夜燈が立っている。天保11年(1840)建立で、深谷宿京口(西)の枡形に富士講の人々が建てた。高さ4mもあり、中山道筋で最大と言われる。またその向かい側には、「呑龍院」がある。境内には、子守り地蔵が安置されている。
その先には、「明治天皇行在所跡」がある。(明治12年(1878)明治天皇北陸東海巡幸の際に宿泊した。当時は、木造瓦葺きの平屋建の本屋と付属家の2棟で、中山道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてあった。)今は、前は行在所公園になっている。
陽雲院の門の向かい側に「畑時能首塚」がある。
金下公会堂の先の右側に、「金久保八幡神社」がある。入口の案内板によると(金窪城主齊藤盛光が、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことにはじまり、神流川の戦いで金窪城の落城ともに焼失した。その後村人により、中山道脇のこの地に遷座した。拝殿には、狩野派の絵師、祥雲斎俊信によって描かれた天井ががある。) 鳥居脇には、高札場があった。
小島4丁目に入ると、左側に「二柱神社」がある。武田信玄没後、正室の三条陽雲院はこの地に住み、信玄の聖天像を安置したことに始まる。
本庄市高尾歩道橋を左折する。しばらく歩き、県道に合流する。小島4丁目交差点を右折し、しばらく行くと、唐鈴神社の鳥居がある。遣唐使が帰国の際に唐国の玄宗校庭から渡海安全のために授けられた金鈴を祀っている。参道を歩いていくと、小さな社があった。
神社を出ると、千代田3丁目交差点に出る。街道は右折する。左折する道路は、下仁田街道で、上州姫街道ともよばれた。その角に「本庄宿」の道標と常夜燈が建っている。 下仁田街道は、本庄宿から富岡、下仁田を経て信州岩村田宿に至る脇往還、千曲川に架かる中山道塩名田橋が流失すると、この街道が迂回路となった。
開善寺は、天正9年(1591)に本庄城主小笠原信嶺が開基。寺から道を隔てたところに「信嶺夫妻」の墓があった。サツキは終わっていたがツツジが満開で綺麗だった。 「開善寺 本庄城主の 墓ここに」 そばにある案内板によると(公の墓石宝篋印塔は古墳の上に築かれている。)と書かかれている。
「ケヤキの木 歴史を語る 城山稲荷」
中山道交差点の先の左側に「大正院」がある。天正3年(1583)開山で、不動堂には不動剣が安置されている。参道には、馬頭観音などの石仏が安置されている。「炎燃え 正邪をただす 不動剣」の本庄かるたがあった。
藤田局の前には「小川家長屋門」が残っている。近くの農家で、おじさんがねぎ選定をしていた。聞いてみると、深谷ねぎの収穫は3月いっぱいで終わりだそうで、今のねぎは気温が上がっているのでもちが悪いそうです。背負って帰りたかったが、匂いがきついのであきらめた。
その先には、17号に面して「岡廼(おかの)宮神社」がある。聖天宮。室町時代から水難除けと豊作を祈願する獅子舞神事が行われる。
「お休み処」の路地を入っていくと、川沿いに「黒田藩岡村陣屋畧景碑」がある。
その先の左側には、「滝澤酒造」があり。、こちらは今でも営業している。創業文久3年(1863)の老舗で、銘酒「菊泉」の蔵元で、煙突にも「菊泉」と書かれていた。
その先の右側に「糸屋製菓店」がある。明治41年創業の老舗で、羊羹、翁最中、五家宝が売られていて、五家宝を買い求めた。
今回は、1日目は雨、2日目は風に悩まされた。特に頑張ったつもりはないが家に帰って翌日腰痛になってしまった。今回もたくさんの人に道を聞き、お話を聞いて楽しいウオーキングでした。
ネギ坊主
「七ツ桜」の看板の掛かった古い店がある。田中屋といい、銘酒「七ツ桜」の蔵元で、昔は造り酒屋だったようだ。中に入っていくと、「深谷宿」と書かれた木の看板がある。傍の説明書によると、刻書作品と書かれ、(枯れ死した「見返りの松」の一部で作ったもので、「深谷宿」とノミで刻書してある。)
公園の前に「上州名物焼まんじゅう」の貼り紙のあるお菓子屋さんがある。串に小麦粉で作ったまんじゅうが4個ついていて、焼いて甘味噌と付けて食べるのだそうだ。冷凍物を買い求めて家で焼いた。中山道最中と味噌まんじゅうも買った。新町駅入り口交差点を左折し、駅に向かった。今日も、昼食を食べ損ない、駅にも食べ物屋さんが無く、高崎線、新幹線、東海道線と乗り継いで藤枝に帰った。
新町郵便局前の交差点を越すと、右側の笠原宅門扉内に「高札場跡」の標柱が建っている(。宿東口からここまでが笛木新町、ここから宿西口までが落合新町)
浄泉寺の樹齢400年の銀杏
街道を少し入ったところに、諏訪神社、専福寺 浄泉寺が並んでいる。 諏訪神社には、旧い鳥居が境内に埋められて保存されているということだったが、見逃した。
その先には、八坂神社がある。往時鳥居脇には柳の木があり、柳茶屋があったと記されている。境内には芭蕉句碑が建っている。 「傘に おしわけ見たる 柳かな」
国道17号を進み、陸上自衛隊駐屯地先のY字路を斜め右方向に入る。分岐には、復元見透灯籠が建っている。
陽雲寺の手前にあった「三国道入口」の道標
畑時能供養祠・新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した。義貞の死後、南朝方と戦い足利方に討たれた。家来の児玉五郎左衛門が時能の首級を持って敵陣を脱出し、当地に持って帰り供養した。
「金窪城趾案内標識」があり、少し遠いが右折し、8分ほど歩いて、金窪城趾公園に着いた。石碑は「金窪館阯」となっている。(平安末期に加治家治が築城し、新田義貞が修築。齊藤実盛の子孫が居城したが、神流川の合戦で落城。家康の世になると、川窪氏が入城するも、丹波転封により廃城となる。)
道の両側に庚申塔がある。神保原1丁目交差点を右折し、神保原北交差点で国道17号を横断して、右の道に入る。
クスノキの大木
遠くからでも目立つ大木がある神社は、「金鑚神社(かなさな)」である。欽明天皇2年(541)創建の古刹で、本庄の総鎮守。社殿等は本庄城主小笠原氏が建立したもの。御神木のクスノキは嘉永16年(1639)社殿改修時に植栽されたもので、樹齢300年。11月2,3日に行われる本庄祭りの山車曳きまわしは北関東随一といわれる。
街道に戻ると、左側に、赤煉瓦造りの建物がある。旧本庄商業銀行跡で、現在はローヤル洋菓子店と書いてあったが、工事中で、洋菓子店もやめたのか、リホーム中なのか分からなかった。
安養院・文明7年(1475)の創建。武蔵七党のひとつ児玉党の頭本庄信明の弟・藤太郎が開基した。総門、山門、本堂の木造建築は市指定文化財で、本堂は本庄最大の木造建築物である。総門は修理中なのかなかった。小倉山房の石碑があるということだったが、探せなかった。
(加美橋・大正15年に元小山川に架けられた鉄筋コンクリート製の桁橋である。この橋は近代的な意匠を凝らした装飾を持つ親柱やタイル張りの高欄など竣工時の様相を残す貴重な近代文化遺産である。)
(寺坂橋・かって中山道から山王堂河岸を結ぶ旧伊勢崎道に明治22年に架けられた石造アーチ橋で、現在使われている橋で、埼玉県最古のものである。築造当初は、親柱、束柱、高欄ともに石製で、親柱4本は脚部上の橋詰部に配置され束柱4本がその間の橋の両端に配置されていたが、現在、親柱は、束柱のあった位置に移築されている。)
(小倉山房石碑群・4基の石碑は小倉山房という建物の周辺に建てられていた。小倉山房は、江戸後期の本庄宿の渡辺吉十郎が資料館北側の崖線上を京都の嵐山に見立て小倉屋という旅館を造った。小倉山房と名づけ、庭に紅葉を植栽し、有名な文人の石碑も数多く建てた。石碑の多くは「安養院」に移されたが、この4基は最後まで崖斜面に残されていたものである。)
真ん中が「ハニポン」のモデルとなった埴輪
中央3丁目交差点を右に入ると、「市立歴史民俗資料館」がある。建物は明治16年建築の「旧本庄警察署」である。「明治の香り 歴史民俗資料館」 本庄宿で初めての本格的な洋風建築で、木造2階建て瓦葺き、しっくい塗り大壁造りで、正面のベランダにはコリント式の列柱を配している。
街道に戻り、足利銀行と東和銀行のあたりに「内田本陣跡」があったという。南本陣とも呼ばれ、内田七兵衛が勤めた。
開善寺に出た。その門前に「はにぽん」の石像が建っている。はにぽんは、埴輪のハニと本庄のホンで「ハニポン」というマスコットだそうです。ハニポン号バス停を何回か見たが、バスが走っているのを見る事は出来なかった。
その先の右側の路地を入っていくと、右側の高いところに、「愛宕神社」がある。石段を登っていくと、途中に、庚申塔が二基あり、大きなケヤキの木があった。「仲町愛宕神社のケヤキ」と書かれていた。愛宕神社は、天正の19年(1591)本庄城主小笠原信嶺が勧請したもの。公園側におりると案内板に(愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳の上に祀られている。)と書かれていた。この辺りは古墳が多い。
駅入り口交差点に戻り、街道を歩き始める。本陣跡の向こう側に「戸谷八」の看板の店がある。創業永禄3年と書かれている。「戸谷八郎左衛門」の表札が出ていて、「せともの ガラス器」の表記がある。江戸時代は何の店だったのだろう。 その向かい側には、「回船問屋岸谷」があり、創業元禄2年と書かれていた。今は仏具屋さんのようだ。
その隣のシャッターには、「塙保己一」の肖像画が描かれている。「本庄の偉人 盲目の国学者」と書かれていた。7歳で失明し、賀茂真淵門下の国学者となり、「群書類従」を著した。ヘレンケラーの手本と言われた人です。ある夜、講義をしていると、ローソクの火が消え、弟子たちが慌てふためいていると、「目明きとは不便なものじゃ」と言ったという。
本庄駅入り口交差点の先の「りそな銀行」辺りには、田村本陣跡があるというが、何もない。北本陣とも呼ばれ、田村作衛門が勤めた。入り口前には高札場があったという。
本庄駅入り口の交差点手前を右に入ると、3基の庚申塔が建っている。その向こうに「円心寺」の山門がそびえている。円心寺の朱塗りの山門は天明年間に建立された。「円心寺 赤い山門 そびえ立つ」の「本庄かるた」があった。
本庄宿は、利根川の舟運や交通の要衝を控え、二と七の日に市が立ち、賑わった。飯盛りが盛んで、助郷に出た若者が村に帰らなくなり、度々取り締まりが願い出された。天保14年の中山道宿村大概帳によると、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒で人口は4554人で中山道宿内では最大であった。
不動坂の二番坂を上りつめると中山道交差点に出る。この辺りが、本庄宿の東(江戸)口です。
左折し、新泉橋を渡る。この辺りに「傍示堂一里塚」があったが今は位置不明。江戸から21里目であった。 日ノ出町4丁目交差点歩道橋で国道17号を渡る。御堂坂を上ると左側に、石仏・石塔群がある。文化元年建立の庚申塔や宝暦13年建立の馬頭観音がある。
街道が左に折れるところに傍示堂集落センターがあり、敷地の奥に蔵造りのほこらがある。傍示堂は国境に建立されるもので、かってはここが武蔵(武州)と上野(上州)の国境であった。直進する道は五科道である。
しばらく歩くと、内藤歯科医院の所に「長屋門」が残っている。内藤家はこの門を残して医院や家は建て替えて新しくしています。
牧西交差点を過ぎると、右側に石仏・石塔群が現れる。祠に安置された子育て地蔵尊、賽ノ神碑、庚申塔、青面金剛像が並んでいる。
その向かいの長い参道を入っていくと宝珠寺がある。境内には「本庄かるた」があり「野の花を にらむ宝寿寺 仁王様」と刻まれていた。これからこのかるたは何回か出てきます。
県道45号を横断し、丸岡工務店の前に出る。藤田小学校前には石仏・石塔群がある。銀杏の根方に天明3年建立の馬頭観音や男女双体道祖神が並んでいる。
橋を渡り、渡り詰めを左折して土手道を進み、その先の舗装路を下る。小屋の傍らに、二十二夜塔がある。
豊見坂を下ると、旧道は国道17号で分断されている。岡交差点で国道17号を横断する。田んぼが広がる道を歩く。この辺りは中山道で唯一赤城山が左に見える「左赤城」だそうだが、今日は雨模様で、山は見えなかった。記念碑の先の小山川に架かる滝岡橋は、昭和3年竣工の鋼製八連橋で国登録有形文化財。
百庚申が建立されたのは、万延元年の庚申の年(1860)で、岡の13人の有志により建立された。庚申塔群の中の大型の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に記されている。のぞいて見たが何が書いてあるのか分からなかった。もともとこの場所には、享保元年の庚申塔があり、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑もたっていた。万延元年は黒船の渡来や、桜田門外の変があり世情騒然としていた。神仏に頼ろうとする心理と万延元年が重なって百庚申が造立されたといえる。
この辺りは、バラを植えている家が多い。
火の見櫓の向かいの全昌寺には、高島秋帆が幽閉されていた岡部藩陣屋の長屋門が移築されている。
その先で、国道17号と別れ右に入る。少し歩くと「島護産泰神社」がある。「しまもり」の名前は、この地方が利根川の氾濫によりしばしば被害を受けたことにより当社をこの守護神として信仰したことによる。皇女和宮は降嫁の際に参拝している。
その先には、「寶登山神社」がある。埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山麓にある神社で秩父三社のひとつ。
岡部六弥太は、武蔵七党のひとつ・猪俣党の出身で、源義家の家人として保元・平治の乱で活躍した。熊谷直実や齊藤別当実盛などと源氏十七騎のひとり。頼朝が挙兵すると出陣し、木曽義仲を追討し、寿永3年の一の谷の戦いで平氏の平忠度を討ち取った。突然相棒が「青葉の笛」の歌を歌いだした。「一の谷の 戦破れ」で始まるこの歌は、一番は熊谷直実に討たれた敦盛のことで、二番が六弥太に討たれた忠度のことを歌っている。(後で調べました) 「平家物語」に出てくる坂東の武将の名前が出てくるのがうれしい。
「武州榛名郡岡部」の石標を右折し、畑の中を歩く。岡部は大根の特産地で関東の漬物名産地で、街道には、漬物工場の看板が沢山あったが、小売店はなかった。大きな漬物樽が沢山置いてあるところがあった。
普済寺は、岡部六弥太忠澄が栄朝禅師を招いて開山した。境内には、忠度の歌碑がある。
普済寺参道入口には、石仏・石塔群がある。武州榛名郡岡部領界石碑、馬頭観音、庚申塔、二十二夜塔など多数ある。
少し先の右奥に「岡部神社」がある。行って見ると、先ほどの源勝寺と地続きであった。岡部六弥太の祈願所。岡部藩歴代の祈願所でもあった。境内の倉庫に保管されている三基の神輿は市指定文化財になっていると書かれていたが、倉庫内は荒れ果てていて、きちんと保管されているようには見えなかった。
その先の右奥に「源勝院」がある。岡部藩主安倍氏の菩提寺で、墓所には歴代藩主二代から十三代までの12基の屋根付き位牌形墓碑が並んでいる。
ガソリンスタンドの所で、国道17号と合流する。「正妙寺」の参道入口に「二十二夜塔」がある。(これは、人びとが月を信仰の対象にして、飲食をともにしながら月が出るのを待った。二十二夜は勢至菩薩を本尊として祀った。月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから全国に広まった。)
その先の右側には、「滝宮神社」がある。宿根村の総鎮守で、明応5年(1496)大旱魃の時、領主加賀野守源香丹がこの地を掘ったところ、滝のごとくに水が湧き出したので、これを祀って社殿を建立した。
左側に「萱場稲荷神社」がある。萱場は岡部六弥太の所領であった。神社の先の稲荷交差点で国道17号を斜めに横断する。 ぽつぽつと雨が降ってきました。
枡形にカーブした道を歩いていくと、左側の線路の向こう側に「清心寺」がある。境内には、岡部六弥太忠澄が建立した平忠度供養塔がある。一の谷の合戦で討ち取った忠度の菩提を弔うため五輪塔を建てた。傍には忠度ゆかりの菊の前がさした「忠度桜」がある。
2日目
本庄駅
神社の向かい側の民家のブロック塀の中に「中山道標石」がある。 その先の右側の民家の庭先に「涙橋跡」がある。涙橋由来によると(諸大名の参勤通行のたびに助郷の苦役を強いられた農民がこの橋に集い、家族を偲び涙を流したという。)傍らに、庚申塔もある。
笑う盾持人物埴輪は古墳を邪悪なものから「たてふさいで」守るため置かれていたと考えられる。顔はほかの人物埴輪より大きく、威圧的な印象を受ける。頭にかぶり物を付け、大耳、大鼻で歯を表現した痕跡もあり、しゃくれた顎の大顔に仕上げられている。大笑いした様な表情に見え、全国でも珍しい風貌をしている。 きれいだったので、レプリカかと思い、係の方に聞くと、「パリの展覧会に出した時に、修復してきれいにし過ぎた。失敗しました。」と言っていた。
街道に戻るとその先の右手に馬頭観音がある。その横には平成23年に建てた「中山道古道について」の新しい石碑が建っている。右折して先に進むと、「村社寅稲荷神社」の社標があり、フェンスに「百庚申100m」の標識がある。そこを右折し豊見坂を下る。しばらく行くと八坂神社があり、百庚申の石塔が並んでいる。
「岡部六弥太忠澄之墓」がある。五輪塔が6基並んでいるが、北側の三基は、右から父・行忠、真ん中が忠澄、左が夫人・玉の井で、忠澄の墓石を煎じて飲むと、子のない夫人には子が、乳の出ない母には、乳が出るという迷信が伝わり、五輪塔は削られて変形している。
その先の左側に「高島秋帆幽囚地入口標石」がある。高島秋帆は、幕末の砲術家で、幕命により西洋砲術の演習を行ったところ、幕府守旧派の反目をかい、追放となった。岡部藩預かりとなり、3年間幽閉された。江川太郎左衛門らが門弟におり、西洋兵学の先駆者である。ここは、岡部藩陣屋跡。岡部藩は城が無く、陣屋を構えていた。秋帆は石碑のあたりに幽閉されていた。
諏訪神社
城跡には、城山稲荷神社が祀られ、社殿の前のケヤキは築城当時に献木されたもので、樹高30mで、樹齢400年の大木である。
忠度が、亡くなる時につけていた箙に入っていた辞世の歌。「行き暮れて 木の下影を宿とせば 花や今宵の主ならまし」
権現造り朱塗りの社殿
神輿の上の鳳凰