神宮前〜岩塚
H.25.01.06
「東 右 なごや 木曾 海道
西 右 宮海道 左 なこや道
南 左 佐屋海道 津しま道
北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」と刻まれている。
早朝家を出て、JRで金山まで行き、名鉄に乗り換えて、神宮前で降りた。秋葉三尺坊大権現に着いた。まだ、松の内ということで、初詣の人で、混雑していた。 一般的には、秋葉山円通寺といわれている。
金山新橋交差点は、江戸時代の美濃路と佐屋街道の追分である。交差点手前に道標が建っていた。案内板によると、(佐屋街道は、江戸時代初期、東海道の脇街道として開かれたもので、海路の「七里の渡し」を避けた道である。文政4年、佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通りから尾頭橋に抜ける佐屋街道への分岐点のこの地に建てたものである。戦災で破損したが、その後修理された。)
10時56分、右の方に大きなビルがそびえている。金山駅前のホテルグランドコート名古屋である。ここには、ボストン美術館が入っている。
10時、国道19号線(伏見通り)を金山に向かって歩き始める。10分ほど歩くと、左側に、「笠亭仙果出生地」と書かれた説明板が建っている。(戯作者で、本名を高橋広道といい、質屋橘やの子としてこの地で生まれた。尾張藩儒鈴木眼に師事して和漢の学を修める。戯作に傾倒し、柳亭種彦の教えを受ける。
熱田神宮の南門からでて、すぐ右側に、「初えびす」と書かれた幟がはためいている寺がある。蔵福寺というお寺のようだが、その表示がない。寺の前には、ひつまぶしの蓬莱軒があり、その横に林桐葉宅跡がある。今は、建て看板だけが残っている。(桐葉は熱田の郷士で、「野ざらし紀行」の旅をしていた芭蕉我が家に迎えて、蕉門に入り、また、鳴海の下里知足を紹介するなど、尾張蕉風の開拓者となった。芭蕉もよく立ち寄って名吟を残し、「熱田三歌仙」もここで巻かれている。晩年は、元竹と称し、書道に熱中し、俳諧から遠ざかった。)
前の回で、熱田神宮の宝物館が閉まっていたので、寄って行こうと向かったが、宝物館前はすごい人だかりで、ごった返していた。 「書初め大会」が開かれているようで、子供達とその親であふれている。諦めて、先を急ぐことにした。神宮内に、大きな燈籠がある。説明板によると(尾張御器所城主佐久間盛次の四男大膳亮勝之が海上で台風に遭った際、当神宮の守護を祈り難を免れたので、寛永7年そのお礼として、寄進したものである。高さ8.2mで、日本でも数少ない大燈籠である。)
青春18切符 2300円
金山〜神宮前 220円
岩塚〜名古屋 160円
計 2680円
13時30分をまわってしまったので、境内にいた方の最寄の駅を聞いたところ、地下鉄岩塚駅が一番近いということだったので、神社の横の道を岩塚駅に向かって戻り、地下鉄東山線に乗り、名古屋に出て、JRで帰った。
腰掛岩
きねこさ祭り2月26日の看板があった。
下に下りる階段があり、地下道を向こう側に渡ると、鳥居が見える。七所神社である。884年頃の創建で、現在の威容になったのは、吉田社家の祖先吉田守重である。境内には、日本武尊の東征伝説にまつわる「日本武尊腰掛岩」があり、境内にある3っの塚(古塚)とあわせて、この地の「岩塚」の地名の由来となっている。尾張三大奇祭のひとつ、きねこさ祭りは、旧暦正月17日に斉行され、特に厄除けに霊験があるとされている。
13時13分、庄内川の堤防にでた。右手には、名古屋高速5号万場線が通る二階建ての万場大橋が見える。江戸時代には、この辺りから対岸の万場宿に渡しがあった。今はないので、堤防を歩き、万場大橋まで来た。
街道を行くと、少し上り坂になり、その先に堤防が見える。手前の右に入る道の角に、半分埋まってしまった道標がある。このあたりは、高札場だったようで、川高札が立っていた様である。
奥の細い道を入っていくと、遍慶(へんきょう)寺がある。その山門の脇に岩塚城址の石碑が建っている。尾張の守護 斯波氏の臣、吉田守氏が城主で、子孫は織田家に仕えたが、後に福島正則に滅ぼされた。
隣には、八幡社があり、拝殿の奥の鞘堂は萱葺きだったははずだが、今は、萱葺きではなく、トタン屋根になっていた。
光明寺は、左側に鐘楼を兼ねた山門がある曹洞宗の寺で、本尊は行基が造ったといわれる地蔵菩薩である。
光明寺の前に道標がある。この通りは「岩倉宿場跡」と書かれているが、宿場らしい趣はない。
岩塚交差点を越えた所が、江戸時代の岩塚宿の入り口だったようだ。岩塚宿と川向こうの万場宿は、二つで一つの宿つされ、月の前半は万場宿、後半は岩塚宿が交代で務めた。岩塚宿は、佐屋街道最初の宿で、4町9間(約500m)の長さに212軒の家があり、1038人が住んでいた。本陣は1軒、旅籠は7軒。交差点を越えると、左手に一里山という地名がある。一里山は一里塚の別名である。
この辺りには、古い家も残っていて、中でも、このお茶屋さんは由緒ありそうだ。
街道から」右に入ったところに、八幡社がある。本殿の左側にある常夜燈は、柳街道の道標を兼ねていたようで、「左 なごや道」と刻まれている。街道に戻り、少し行くと、郵便局があり、そこを曲がる細い道が柳街道である。何も印がないので、知らなければ通り過ぎてしまう。柳街道は、佐屋街道の烏森から米野村、牧野村を経て、禰宜町に通じる道で、名古屋城下から佐屋街道にでる近道だった。ここは、柳街道と佐屋街道の追分で、八幡社の常夜燈はここに建っていたものである。また、烏森は立場だった。
12時12分、松葉町交差点を過ぎると、鉄道の高架をくぐる。第三セクターのあおなみ線、JR関西線、近鉄名古屋本線である。くぐった右側に、近鉄烏森(かすもり)駅があった。江戸時代には、ここから先は、松並木だったようだが、右側の一角に2本の松があるだけだった。少し前の歩道に松並木のレリーフが埋められていた。
5分ほど歩くと、右側に「正楽湯」と書かれた銭湯があった。暖簾がかかっているので、営業しているようだ。最近では珍しい。
長良郵便局と常盤交番の間に明治天皇御駐輦之碑があるはずだったが、交番は手前の右側に引越しし、碑は郵便局の隣にあった。明治天皇は、明治弐年3月16日、東京に遷都するため、東京に向かい、ここで、小休止した。(駐輦とは、天子が車をとめる。天子が御滞在になるという意味。)
その先には、中川運河に架かる、長良橋を渡る。 中川運河は、もともと中川という河が存在し、名古屋城築城の際に石垣の石の輸送を行なった。大正時代になると、鉄道で運ばれた貨物を港まで運ぶ運河が必要になり、建設を決定した。平行して流れる堀川との連絡を図るため、松重閘門も設けられた。8.4kmの間に14本の橋がかかる。小栗判官ゆかりの小栗橋もある。そこは、昔の東海道が通っていたところである。
11時32分、八幡本通2西交差点を越えた左側の福祉会館前に、「佐屋街道碑」がある。説明板によると、(三代将軍家光の通行を契機として、整備が進められた。寛文6年には、幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。熱田宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として賑わった。参勤交代の大名やオランダ商館のシーボルトや14代将軍家茂、明治天皇も通行している。明治5年、熱田と前ヶ須新田(現 弥富町)を結ぶ新道の開通により、その役目を終えた。) その先には「明治天皇御駐蹕之碑」がある。明治天皇は、江戸城に入るため、明治元年9月26日、ここを通り、同年12月18日京都に戻るためここを通り、小休止した。
尾頭商店街を歩き、新幹線のガードを過ぎると、11時19分、右側に唯然寺があり、ここに見難い一里塚があるというので、庭を覗き込んだ。植え込みの中に「津島街道 一里塚」と書かれた、石碑が見えた。調べていなかったら、見落としてしまう。この一里塚は、「五女子一里塚」と呼ばれていたようです。この辺りには、五女子(ごにょし)二女子(ににょし)という変わった地名がある。(昔、古渡村に、七人の娘がいた。それぞれが多くの子を産み、子孫が繁栄した。そこから、一女子から七女子までの地名になった。)という話が残っている。今は、二女子と四女子、五女子の地名が残っている。
熱田神宮公園を過ぎると、青大悲寺がある。この寺は、如来教の尼寺である。この地で生まれたきのという女性が1802年に開いた新興宗教である。通りに面して地蔵堂があり、鉄地蔵が安置されてる。室町時代に造られ、正式には、「鋳鉄地蔵菩薩立像」といい、ほぼ等身大の大きさである。開祖きのの説法の記録は、「御教様」と呼ばれ、名古屋弁そのままの語り方を特徴としている。
鉄地蔵
直ぐ隣に、「源頼朝出生地」と書かれてる。内部は何もないが、立派な門が復元されている。(この地は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったところで、藤原季範の娘由良御前は、源義朝の正室となり、身ごもって熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれてる。)
10時16分、「白鳥御陵」と書かれた石碑が建ってる。白鳥御陵は、熱田区の白鳥公園に隣接する古墳のことである。6世紀初頭に築造された前方後円墳である。
国道1号線を渡り、前回の東海道道標のある三叉路に向かう。ここを左に折れていくと宮の渡しがあり、七里の渡しで桑名までいける。船旅をしない人は、ここで北に向かう。(東は江戸方面、北は名古屋と木曽路、東海道を歩く旅人は宮宿から七里の渡しで、桑名に向かう。)
奈良時代初期の古墳