H.25.02.03

岩塚〜津島

名古屋〜藤枝  4100円
名古屋〜岩塚  230円
津島〜名古屋  390円
計       4720円

名鉄津島線のガードをくぐると、右側に十王堂がある。中の説明板によると、(地獄の裁判官十人の王が祀られている。昔、津島村の入り口東西南北に十王堂があった。東が当堂、西が橋詰「西方寺」南 下溝 北 北口「大龍寺」)とあった。

左折すると、佐屋街道だが、道は途切れて残っていない。県道を歩いていると、右側の「清光院」という寺の垣根の中に「津島一里塚跡」の標識があった。

左側に「右 つしま天王道」 「左 さやみち」 反対側に 「東 あつた なごや道」と書かれた石の道標が建っている。「津島街道 埋田追分」の道標と説明が書かれている。(埋田町のここには津島神社「天王様」の一の鳥居があったが、伊勢湾台風で倒れ台座のみ残る。常夜燈が一対残っている。追分(分かれ道)を表す道標が残っている。江戸時代ここから右は、津島神社への道で、茶店などもあって賑わっていた。大正時代頃までは、松並木が残っていた。熱田から津島までの道を「下街道」と呼んでいた。佐屋街道は熱田から岩塚万場砂子、神守の宿をへて桑名へと続き、東海道の脇街道として、三代将軍家光や明治天皇が通られた跡や記録が残されている。)

一対の常夜燈と壊れてしまった鳥居の台座

橋から下っていくと、日光交差点の手前に、ちいさな地蔵堂がある。古川交差点手前の十字路に「式内 諸鍬神社」の石柱と、「獅子舞開祖 市川柳助碑」が建っている。この辺りは、街道筋を思わせる家並みが残っていたりする。佐屋街道は、この先で二俣で、左前方に入るが、道は残っていないので、県道に平行した道を探して歩く。

越津信号交差点で、県道と合流する。下切のバス停を過ぎると、橋が見える。日光川にかかる日光橋である。数年前に架け替えられたが、以前は橋脚が低いため、増水時に水が堰きとめられて、洪水の原因になっていた。橋を渡ると、旧親柱と基礎杭があり、日光橋の変遷が説明板に紹介されていた。(東海道と佐屋街道 七里の渡しに代わる重要な陸路として天下に知られるようになったのは、大坂の陣(1615年)に家康公の通路になってからであり、これが整備され天下の大道になったのは、家光公の上洛(1634年)の時と言われている。

石の鳥居があり、村社 穂歳神社(ほうとし)神社の石柱が建っている。祭神は、天竺ルイビン国龍帝龍王の御子で、常夜燈には、南神守文化8年とあった。 日本武尊の妾腹の子を祀った神ともいわれている。「尾張津島秋祭り」のうち、神守の山車は文化年間に始まったと伝えられ、穂歳神社や憶感神社を中心に、古くは大豊作の年や、特別の奉祝行事の年に限り、旧暦8月16日に奉納されていた。街角にある山車蔵には、地区の山車が収納されているのだろう。

街道に戻る。ここからが上町で、神守の標柱があったところから先に、本陣や問屋場があったようだ。立派な家があったが、本陣は濃尾地震で崩壊したようである。

吉祥寺 六角地蔵堂

役の行者(えんのおずの)

吉祥寺 三十三観音堂

右折すると、憶感神社がある。憶感はおかみ、おつかんと読むが、9世紀からあったことが記録にある。以前は、北神守村にあったが、神守宿開設に伴う集落移転により、慶安元年にここに移ってきた。祭神は雨を降らせる神、龍神である。隣には、秋葉三尺坊も祀られていた。神社と境内を共有する形で、吉祥寺がある。

その先の右側には、神守の一里塚がある。大きな石積みの上に玉垣があり、塚の上には、椋(むく)の大木があり、一対の常夜燈が建っている。昔は、東西7.3m、南北6.7m、高さ1.5mの塚に椋の木が植えられ、南側には、これより一回り小さな塚に榎が植えられていた。佐屋街道で唯一のこる一里塚である。現存する椋一里塚は、野村一里塚とここ神守一里塚だけである。笠寺一里塚は左塚が椋だったという記録がある。

神守宿(かもり)が設けられたのは、正保4年。本陣は1軒、問屋が2軒、旅籠が12軒、宿場の長さは7町51間(約850m)で、家数184軒、812人が住んでいた。 中央道を過ぎると、右側に、「ようこそ 津島へ 津島神社 天王川公園 まっすぐお進みください」という看板があった。

県道68号名古屋津島線を歩いていくと、右手に高い鉄塔が見える。東海ラジオの送信所の看板があった。その先は蟹江川で下田橋を渡る。左側の歩行者用の橋は、弓掛橋の名が付いているそうで、見に行きたかったが、自動車が切れ目なく通るので渡れず、諦めた。橋を渡ると七宝病院がある。莪原交差点を過ぎると、津島市になる。莪原は(ばいはら)と読み珍しい名前である。さらに進むと、神守(かもり)交差点にでる。この左右の道は西尾張中央道である。

遠島村が安松村と沖之島村と合併して賽村となったのが明治23年のことで、その後、賽村は、井和村と伊福村と合併し、七宝村になり、その後七宝町となった。現在は、甚目町、美和町と合併し、あま市七宝町となっている。また、加賀藩前田利家の正室松の生誕地でもある。

その先の小路を入って行くと、林七宝店があるということだったが、シャッターが閉まっていた。日曜日は休みと書いてなかったが。この後、もう一軒、「七宝店、見学できます」と書いてあるお店があったが、閉まっていた。 正面には、八剣社熊野社があり、道の手前には、秋葉社があった。

本殿の前の蕃塀

七所社神社があり、10分ほど歩くと、大治町になる。道はカーブしていくが、そのまま進むと、狐海道交差点に出る。交差点を左折すると、西条交差点で、県道68号線と合流する。交差点の先右側に八剣社がある。金山からの佐屋街道で、いくつもの八剣社があったが、これらは全て、熱田神宮の別宮である八剣宮を勧進したものである。

道の左側に「横井庄一記念館」の看板が掛かっている。道を歩いていた方に、聞くと「日曜日には、開いているよ。観光バスなども来ているよ。奥さんがいるから、行って見ては」といわれ、チャイムを鳴らした。奥さんが出てきて、中を案内してくれた。横井さんは8年前に亡くなり、市の要請でここを造った。市に寄付して自分は京都に帰るつもりだったらしいが、市が10年しか面倒を見ないといってきたので、それでは約束が違うと、自分でこれを守っていく決心をされたらしい。

その先に「道標跡 従是馬嶋明眼院道」と書かれた標識がある。この先には、大治小学校がある。また、明眼院とは、平安時代に、聖円上人により開かれた寺であり、元弘・建武の乱で一部が焼失した。延文弐年、聖眼僧都により再建された。聖眼僧都により、馬嶋流眼科が創始され、後水尾上皇の第三皇女の眼病治療により、明眼院の院号を賜った。その先で、東名阪自動車道をくぐる。

交差点に出るが、左右の道は、先ほどの十二所神社の参道で、左折すると、神社があった。素の一角に栗田直政の記念碑が建っている。栗田は、文化4年に、砂子町の神官の家に生まれ、尾張で名高い国学者になった。日本最古の源氏物語の研究書、「源氏物語遠鏡」の著者である。碑のある前の家は「栗田」の表札が出ていたので、子孫かもしれません。

左側に、富田山玉泉寺がある。さらに進むと、交差点のカーブミラーのところに、高札場跡(旧佐屋街道)の道標があった。佐屋街道はここで、左折するが、道の反対側に、小さなお堂がある。入母屋造りの屋根には、装飾瓦も乗っていて立派である。また、「自性院 30m、栗田直政記念館100m」の標識があったので、右折して行って見た。

高札場跡

万場宿

14時を過ぎたので、十王堂の角を曲がり、シダックスの奥にある名鉄津島線の「津島駅」から名古屋にでて、JRで家に帰った。

小学校を過ぎると、道は突き当たり、「神守の宿場跡」の標柱があった。(東海道の宮宿から桑名宿への七里の渡しにかわる脇街道として佐屋街道が利用されていた。万場宿と佐屋宿との間があまりにも長かったため、正保4年、神守の宿が定められた。この宿場は古い憶感(おかみ)神社を中心に宿屋・商家が立ち並び、近くの村々の手助けによって宿駅の仕事を果していた。)

左側に半鐘がぶら下った火の見櫓があり、奥に神守分団と書かれた消防団の建物と屋台蔵がある。その向こうには、「神守村道路元標」がある。

神守ふるさと散歩」には、(江戸時代 七里の渡しに代わる脇街道として利用された佐屋街道は正保4年、万場と佐屋の距離が長いので、中間点の神守に宿場が置かれた。)と書かれていた。ひなびた風情の町並みが続く。神守下町交差点辺りが、神守宿の下町だった所で、右折すると角に南町と書かれた山車蔵があり、ここから中町になる。

神守宿

案内板によると、(七宝焼「尾張七宝」は、江戸時代末に服部村「現名古屋市中区富田町」梶常吉により創始され、七宝町の町名の由来になっている。七宝町においては、当時の遠島村の林庄五郎が、梶佐太郎より技法を伝授され、その後、遠島村を中心として広まった。この道標は明治28年に建てられたもので、碑の上に、ローマ字でShippouyaki Toshima とある。明治時代には、七宝焼は輸出の花形で、外国人が買い付けに来ていたことから、このようなローマ字の道標が建てられた。)とあった。

街道に戻り、小切戸川にかかる秋竹橋を渡る。七宝役場前に、黒塀で囲った広い大きな屋敷がある。この辺りには、古い家がまだ残っている。旧秋竹村は、万場宿から1里、神守宿まで27町の距離にある佐屋街道の立場で、七軒ほどの茶屋があり、旅人の小休所になっていた。その先の七宝役場北交差点に、七宝焼原産地碑が建っている。

少し行くと、福田川にかかる秋竹橋を渡る。橋の先は、海部郡七宝町である。秋竹交差点の右手奥には、数百メートル進むと藤嶋神社がある。神社の創建は天武天皇の白鳳4年で、延喜式尾張121座の一つに数えられている。祭神は、「市杵嶋姫命」である。古代は、一宮あたりまで海で、いくつもの嶋が点在していた。「枇杷島」「津島」「飛島」などの地名はその名残で、ここは、藤嶋という島だった。拝殿の手前には、立派は、蕃塀があった。

十字路まで戻り、街道を行くと、右側の民家の前に、常夜燈と大きな題目碑が建っている。東名阪自動車道の高架手前には、稲荷社があったが、拝殿の前には、狐ではなく、狛犬だった。

右側に自性院の石柱が立ち、奥に山門が見える。

光円寺を過ぎ、街道は北西方向に斜めに進む。名古屋高速5号万場線が走るところに出ると、信号交差点には、万場と書かれていた。 交差点を渡り、さらに進むと、右側に浅間神社がある。ここを過ぎると、名古屋市から海部郡大治町にはいる。しばらくすると、橋に出る。この川は新川で、橋は砂子橋という。庄内川の洪水を防ぐため、砲水路として作られた。天明24年に着工され、天明7年に完成した。 

神社の角を右折すると、大きな笠の石灯籠がある。光円寺と言い、天台宗の寺である。山号の臥龍山の金字額がかかる立派な山門は、織田信長と斉藤道三が会見した富田村聖徳寺(一宮市)の山門を移築したものである。

その隣に、神社があり、鳥居の右側に、「郷社 延喜式 国玉神社」左側には、「郷社 八剣社」と二つの石碑が建っている。「国玉神社・八剣社相殿」と書かれた説明板によると、(国玉神社の創建は古く、尾張大国霊神社より勧進した。明治元年に八剣社を合祀。祭神は、両神社の大物主大神、天照大御神、草薙剣御霊、日本武尊。神社の前は佐屋街道で、南西角は、万場宿の高札場になっていた。)とあるが、今は、ちいさな石仏を祀った祠になっていた。

津島へ

しばらく堤防を歩き、下に下りると、佐屋街道の万場宿だったところになる。左側に古い家が数軒並んでいる。中でも、玉石を積んだ土台に背の低い中二階、黒板壁の家は昔の雰囲気を今に伝えている。万場宿は、六町十間(約700m)で、160軒、672人が住んでいた。本陣1軒、問屋場1軒、旅籠は10軒だった。

早朝家を出て、JRで名古屋へ、地下鉄東山線で岩塚駅まで行き、前回の終点まで歩いた。七社神社の古墳を三基見つけられなかったので、神社に寄った。古墳は2基しか見付けられなかった。 高架下のトンネルを通り、万座橋の左側の歩道を歩き、橋を渡り終え、左折し、堤防沿いと歩く。しばらくすると、下に鳥居が見える。

10分ほど行ったところに、「ちちの観音医王山覚王院」の石柱が建っている。「観音様のお告げで、境内にある乳の木の実を食べたら、乳の出が良くなった。」という言い伝えが残る観音様である。行基作と言われている。境内に乳の木と書かれ、囲われた場所がある。冬なので葉がないのか、枯れてしまったのか、分からない。

9時49分、秋葉神社があり、鳥居の両側には、天保13年建立の常夜燈があり、拝殿の先に小さな本殿があった。万場宿跡の立て看板には、(万場宿は、佐屋街道「万場ノ渡し」を挟んで、岩塚宿と向かい合って、寛永11年に、御伝馬所に指定され宿場が置かれた。この両宿場は近距離にあったため、制度上は一宿とみなされ、月の上半月を万場宿が、下半月を岩塚宿が交代で人馬継立の役務を行なった。明治5年に御伝馬所は廃止された。なお、この地にある秋葉神社は百メートルほど南の万場宿の東端にあり、その下に渡し場もあった。)

新川を渡ると、住宅地になり、右側に、村社・十二所神社の鳥居と常夜燈があり、参道がずっと伸びている。街道には、はじめて、佐屋街道の道標があった。