洗礼台 蓋はダ・ヴィンチ時代のもの
バスの車窓からの斜塔
糸杉の丘
6日目
メディチ家の礼拝堂
集合までの時間があったので、ホテル近くのメディチ家の礼拝堂に出かけた。元来は、昨日見たサンロレンツォ教会と一体になっていたが、今は博物館として裏に入り口がある。最初の八角堂はトスカナ大公としてのメディチ家の君主たちの墓所である。次に16世紀にミケランジェロが造った新聖器室があり、建築と彫刻を調和させたミケランジェロの最高傑作のひとつ。ミケランジェロは「時はめぐり死に至らしめぬ」という詩を作って、曙、昼、夕暮れ、夜の寓意像を配した着想の一端を述べた。
アカデミア美術館
バスの中で、スリが多いのでくれぐれも注意するように耳にたこが出来るほど注意される。ジプシーの人達なので、つかまっても国籍も市民権も無いので裁判にもかけられず、すぐ出てきて元の木阿弥ですといっていた。集団で掏るので掏られたら出てきませんと憂鬱な気分になる。
ダヴィデ像 撮影禁止なので絵葉書から
フィレンツェ〜ピサ
糸杉のある風景がひろがる
ピサ ドゥオーモ、洗礼堂 斜塔
ピサ〜ビンチ村
傾斜角度5.5度、最上階の傾き幅は4.5M。最近、反対側をロープで固定し、砂を掻き出して傾きを40CM戻したが、全部戻すと価値がなくなるのでこのくらいに留めたらしい。 ガリレオ塔の傾きを利用して、物体落下の実験を繰り返した。
ピサの衰退は、競争相手ジェノヴァとの戦いに敗れたことからはじまった。1284年のメローリアの戦いが山場で、ピサの船隊は壊滅し、海上での軍事力も通商の利権も一挙に失った。1405年からはフィレンツェの支配下に入る。 アルノ川の河口付近は海岸線の土砂の堆積が進み、港としての条件が悪くなり、湊としての使命を終えた。
ドゥオーモの後ろ姿
洗礼堂 荘厳なピサ・ロマネスク様式の外観。
お墓、人々は教会の中に葬られることを望んでいた。
ヴァサリーニが設立し、コジモ一世が初代総裁を務めた美術アカデミー。シニョリーナ広場から移されたダヴィデ像や、他のミケランジェロの彫刻が置いてある。
私たちの旅の最後の晩餐は、フィレンツェの夜景を一望するミケランジェロ広場の横にあるホテル「ヴィラ・ラ・ヴェデッタ」で創作イタリア料理だった。イタリアというより、フランス料理風のしゃれたものだった。 ミケランジェロ広場には、ダヴィデ像とメディチ家礼拝堂にある四つの寓意像のレプリカを組み合わせた記念碑が立つ。
フィレンツェのホテル 古い立派なホテルだったが、鍵が特殊で難儀した。
ダ・ヴインチコード以来、このヴィウンチ村に観光客がたくさん来るようになったそうですが、まだ人は少なく、のどかな村でした。
ダ・ヴィンチ設計のおもちゃが売られている売店 時計
隣にある教会
レオナルド・ダ・ヴィンチの設計図に基づいた小型模型の機械や兵器が展示されている博物館
オリーブ畑が広がるヴィンチ村
ダ・ヴインチの生家には彼が残した設計図のレプリカが展示してある。
駐車場とドゥオーモ広場までのシャトルバス
カネロニ クレープのような生地にひき肉が入っている。これはソースにもひき肉が入っていた。
ハムとサラミの盛り合わせ、チキンレバーのカナッペ
斜塔 ドゥオーモ付属の鐘楼として建築が始まったが、3層目が出来た頃から地盤沈下によって傾き始めた。途中から傾きの角度を補正するように積み重ねたため、よく見るとくの字に曲がって、身をくねらせて立っているような感じを受ける。
お墓 中には聖人のミイラが安置されている。
ガリエオが「振り子の等時性」の法則を発見したとされるランプ。(本当ではないらしい)
ドゥオーモ 11世紀から13世紀にかけて発展したピサ独特のロマネスク様式。回廊を巡らせた繊細な装飾、透かし彫りのような軽やかな彫刻、多色大理石のモザイクが特徴。
14世紀後半に完成した洗礼堂は、音響効果のよさで知られ、私たちがいた時も、守衛さんが出てきて声を響かせてくれた。30分に一回くらい行われているようです。
ニコラ・ピサーノ作の説教台
内部の洗礼台
古代ローマの軍港として栄えたピサは、中世はヴェネツィアやジェノヴァとともに海洋国家として発展した。きっかけは1063年パレルモ沖の海戦でサラセン人に勝利すると、小アジア南部から北アフリカ、スペインまで支配圏を拡大する。地中海貿易で得た潤沢な資金で、ドゥオーモ広場の建築群が建設された。