伊勢街道(松阪〜斎宮)
H.26.03.16
早朝家をでて、JR、新幹線、紀勢線と乗り継ぎ、松阪に着いた。駅前駅には駅鈴が飾られている。(駅鈴とは、律令制で、駅馬を利用する際に掲行を必要とする鈴。中央官庁と地方国衙に備えてあって、使者の位に応じた剋数に応じて人馬を調達した。使者はこれを鳴らしながら往来した。)現存する駅鈴は、隠岐の島の玉若酢命神社の2個だけだそうです。以前に隠岐に行った時に見ました。
墓参りを済ませ、伊勢街道にでる。日野町交差点の所に、「左 さんぐう道」「左 わかやま道」の道標がある。しばらく歩くと、愛宕町公民館の隣に「小津安二郎青春館」があり、古い映画の看板がかかっていた。小津安二郎は、青春時代の10年間を松阪で過ごしているようです。 その先に、三角公園があり、しばらく休憩する。 交差点を右折し、その先の三叉路を直進し、名古須川にかかる里中橋を渡ると、右側に、信楽寺があり、門前の仏足石は、天明5年に、広瀬永正寺の名僧・天阿上人が建立したもので、その隣に閻魔堂があった。
JR 9780円
タクシー 1120円
急行・指定券 1240円
計 12140円
街道の旧家
この先は、金剛橋から楼門橋まで「徳和畷」と言われる直線的な道が続く。江戸時代には、白酒を名物とする茶屋が並んでいたというが、今は田園地帯である。 加茂川にかかる極門橋の右側に常夜燈が建っている。「永代常夜燈」と書かれた燈籠は、文化12年に江戸干鰯問屋等により寄進されたもので、嘉永2年に修理されている。
原田二郎翁墓
本居宣長の墓と春庭の墓・本当の墓は山室山にある奥墓(おくつき)でこれは参り墓所である。
裏門跡と搦手門跡を結ぶ石垣の道の両側に槇垣をめぐらした武家屋敷が御城番屋敷である。城の警備を任務とする紀州藩士とその家族に住居として、1863年に建てられた。現在も、子孫の方が維持管理し、13戸は借家として利用されている。1戸分を借り上げ復元修復して、一般公開している。
三重県立松阪工業高等学校誕生の地の石碑
金の間櫓跡
裏門を出たところにある常夜燈
天守閣跡
本丸跡(丸いものは井戸)
隠居丸跡
宣長邸が、隠居丸跡に移築された時に、事務所として建てた物である。宣長記念館が開館された後、昭和63年に茶席「桜松閣」として開所した。
松阪城は、蒲生氏郷が、天正16年に四五百森(よいほのもり)に築いた平山城である。氏郷は、楽市楽座の制度を取り入れ、それまで海岸近くを通っていた参宮街道を町の中につけかえ、大手通の四つ辻には、前の居城の松ヶ島から蔵方を移住させ、近江の日野から商人を呼んで日野町に、伊勢大湊からは、海運業者角屋一族を招いて、湊町に住まわせた。その後、三井、小津、長谷川などの松阪商人たちが豊かな経済力を持つようになり、商人の町として発展した。
その先が豊原町で、江戸時代の豊原村は櫛田村から分離した村で、紀州藩と藤堂家の入組地であった。また、間の宿で、19世紀初頭には、本陣や伝馬所などが置かれ、旅籠や」茶屋が」軒を連ねていたといい、櫛田宿として知られていた。かっての本陣は奥田家に置かれた。奥田家は代々藤堂藩の豊原組大庄屋を務めた名家である。 豊原町を歩いていると、「櫛田橋」と刻まれ橋柱が門になっている家がある。
駅から伊勢街道に出て、城跡に向かって歩き始める。途中の歩道に2000年に作られた「本居宣長からくり人形」が置かれている。説明板によると、(本居さんは、本を読むことと地図を描くことが好きで、お医者さんになってからも、勉強を続け、疲れると、鈴を鳴らして心を休めました。日本人の本当の心が知りたくて、古事記や源氏物語を読みました。)と書かれていた。松阪では、「宣長さん」と呼ばれ慕われている。古くなってしまっていて、鈴の紐が切れていた。
薬種商「桜井家」池大雅が書いたと言う「黒丸子」「萬能千里膏」の看板
松阪木綿の織機
斎宮小学校を超えると、「斎宮」駅がある。15時47分まで、電車が無いので、「いつきのみや歴史体験館」を見学した見学した。広い斎宮跡の敷地には、その一部に10分の1の模型で再現されている。館の内部では、十二単などの衣装を着せてもらう体験や、貝合わせや双六などが置かれていた。衣装は時間が終わっていた。斎宮は、いつきのみやと呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮という役所があったところである。天皇が即位する度に伊勢神宮に天皇の名代として奉仕する未婚の皇女のことを斎王という。
田園風景がひろがり、近鉄山田線の電車が時々通る。大稲木交差点を過ぎると、左手に凡字の刻まれた六字名号碑があった。ここは、大稲木集落の西の入り口で、この石碑は文化4年に建立されたものである。その先に、赤い欄干の橋があり、その手前を入ると漕代駅がある。橋柱には、「はらいかわばし」と書かれていた。祓川は、古代の斎王群行のさいに、ここでお祓いをして斎王宮に入ったことからこの名が付いた。多気川、稲木川とも呼ばれる。水は澄んでいて、数匹の鯉が泳いでいた。 (六字名号とは、仏の名前を唱えることを言う。南無阿弥陀仏)
堤防に出ると、櫛田川が流れている。名前の由来は、神宮に向かう斎王が、櫛を落としてしまい、流されたという故事による。江戸時代には、渇水期には、仮の板橋が架けられたが、通常は渡しで、渡しも橋も有料だったようだ。堤防を歩き、櫛田橋を渡る。先ほどの家の橋柱はこの橋が架け替えられたときにあの家に渡ったのだろうか。
裏門跡を下りた道の右側を下りると、御城番屋敷がある。左側に「土蔵」がある。説明板によると、(この土蔵は江戸時代末期に松阪城内の隠居丸に建てられていた三棟の土蔵の内の米蔵で、明治初期に苗秀社に払い下げられ現在地に移築されたと言われている。西側には、紀州藩初代藩主・徳川頼宣を祀った南龍神社がある。)
「本居宣長記念館」は、1970年、本居家より松阪市に寄贈されたものを展示している。宣長の著書、蔵書、版木など、重要文化財が1949点もある。
斎宮駅から紀勢線で松阪まで行き、JRに乗り換えた。ちょうどよい電車は、急行指定席しかなかったので、1240円払い名古屋まで乗った。紀勢線は不思議な線路で、途中「伊勢鉄道」の線路を走るので、「青春18切符」などでは、この区間の運賃を伊勢鉄道に払わなければならない。また、単線部分があるので、駅で電車を待ったりするので、随分時間がかかってしまった。名古屋、掛川と乗り継ぎ藤枝に帰った。
川を渡ると、明和町になる。しばらくいくと「従是三里外宮」の道標が建っている。
橋を渡り、左折して街道に戻る。その先の右側に大乗寺がある。その隣の早馬瀬神社の境内に道標を半分に割ったような石柱が両側に建っている。「右けのう」「左さんぐう」と書いてあるようだが、下は土に埋まっている。この道標は渡し場にあったものをここに移転したものである。
豊原南交差点で、初めて「伊勢街道」の道標を見つけた。県道鳥羽松阪線を横切る。なお江戸時代には、この交差点付近に藤堂藩・豊原本陣があったと言うが、場所は分からない。 その先の櫛田交差点を渡って、右にまわりこんでいくと、左側に、小さな社があり、鳥居の右側に「式内大櫛神社」「櫛田大市」の石碑が並んでいる。「豊原稲荷大明神」の赤い幟がはためいている。
左側に「従是外宮四里」と刻まれた道標がある。
その先の右側には、八柱神社がある。石段を上って行くと、奥宮の前には、八柱神社の額辺を飾った質素な社があった。前にも見たことがあるが、前にある社殿がなくなってしまって、仮の社殿を造ったという感じである。
上川西交差点を越えると、右側に、「禁酒の神 沖玉の夫婦岩」と書かれた石柱と案内板があった。(昔、夫婦岩は酒井家の屋敷東の池のそばにあった。この石にお酒をかけて困りごとをお願いすると、願いが叶うと言うことで、評判になった、当時の庄屋の庭園に持って行き、祀った。その夜から毎晩のようにもとの屋敷に帰りたいと石がいうので、元の場所に返した。この石にお酒をかけて、お酒を預けると、禁酒できると言われている。)
少し先の左側には、御乳母稲荷と神戸神社がある。神戸神社は、かっては三宝荒神社と呼ばれた旧垣鼻村の鎮守社で、常夜燈の隣には皇太神宮遥拝所がある。
本居宣長の墓があるという樹敬寺を目指して路地を歩く。新町通りにでて、左折し、数分歩く。境内には、「原田積善会・創始者原田二郎翁歌碑」がある。原田二郎は、1849年、同心の子として生まれ、21歳の時に、勤皇の志士・世古延世に随行して、京都に上り、23歳で、東京に上京し、英語と医学を学んだ。その後、大蔵省、銀行頭取などをへて、鴻池銀行を建て直す。大正9年、全財産を投じて、原田積善会を設立し、昭和5年、82歳で死去するまで、代表として運営あたった。平成24年度から生家を航海しているようだが、位置と時間の関係で、行けなかった。
「本居宣長旧宅=鈴屋」は、12歳の時から亡くなる72歳まで住んだところで、彼の祖父が隠居所として建てたものである。この家で、医者の仕事をし、古典の講義をし、歌会を開いたりした。2階の書斎は、宣長が52歳の時に物置を改造して設けたもので、床の間に掛鈴を下げていたことから「鈴屋」と呼ばれた。もとは、魚町にあったが、明治42年に現在の地に移築した。
松阪市立歴史民族資料館は、明治44年に、飯南郡図書館としてこの場所に建築された。明治洋風の木造建築としてその保存価値が認められています。昭和53年に、新しい図書館が建築され、資料館として衣替えした。「長谷川家の承認の歴史」という企画展が開かれていた。長谷川家は、江戸時代より、三井家、小津家、長井家とともに、松阪を代表する江戸店持ちの豪商です。長谷川家の蔵に残されいたものを数回に分けて展示するそうです。
松阪城跡は、石垣が立派である。松阪までの電車の中で、隣の方が松阪の方で、「松阪城は、石垣が立派なので、是非見てください。」と言っていたが、本当に高くそびえた石垣は立派でしたが、他には、なにも残っていません。その方が言うのには、「城は燃えて無くなってしまったというが、石垣を積んだだけで、後はお金が無くなって、造らず、燃えたことにしたという話があります。」と言うことでしたが、古い写真を見ると、古い櫓の写真などはあるので、あったのだろうか。天守は、1644年の台風で倒壊したと伝えられているそうです。