伊勢街道続き(斎宮〜伊勢神宮)

H1.26.05.04

早朝家を出て、今日は各駅停車で名古屋まで行き、近鉄名古屋線に乗り換え、松阪まで急行に乗り、各停に乗り換え、斎宮で下りた。早速街道を歩きはじめる。黒板塀の立派な家がある。この辺りは、まが古い家が残っている。

内宮

NTTの手前の交差点のひだり側に「大世古」の道標があり、「お木曳き行事と山田」の説明板があった。(木曾の山から切り出された御用材を宮川より外宮の北御門まで各団の誇るお木曳車に載せ、木遣り歌、伊勢音頭などを囃したり、練ったりしながら神領民と呼ばれる地元の人たちによって行なわれる民俗行事である。)とあった。

屋敷門の前に「御師福島みさき大夫邸跡」の石碑が建っている。説明板は字が消えていた。福島みさき大夫は徳川将軍家の祈祷所も務めた格式の高い御師で、ここに広大な屋敷を構えていたという。御師は、全国の神宮信徒とつながりを持ち、伊勢を訪れた参詣客を桜川で出迎え、邸内に宿泊させ、参詣の面倒を見てきた。現在福島邸の正門は神宮文庫の門になっている。「本日 臨時休業」の張り紙がしてあった。

少し行くと、百五銀行の前に筋向橋の欄干が残っている。傍にある案内板には(関西方面からの伊勢街道と、関東・中部からの伊勢街道が筋向橋でひとつになり、ここから市内に入っていったもと道筋と橋の板がすじかいになっていたことからこの名がある。古く反り橋でしたが、大正4年に平橋になり、昭和3年からコンクリート橋になった。宮川の支流の清川が流れているが、昭和45年に暗渠になった。)

T字路の向こうの階段を上り宮川の土手に上がる。河川敷の降りると、「宮川の渡し」の案内板があったが、古くてよく読めなかった。(宮川は必ず渡し舟で渡らなければならなかった。上の渡し、下の渡し、磯の渡しと三ヶ所あり、小俣と伊勢を結ぶ下の渡し「桜の渡し」が一番よく利用された。)と書かれていた。渡しが再現されていた。

宮川の西を流れる汁谷川を宮古橋で渡る。橋の手前に、「参宮人見附」の石碑が建っている。左側面に、永代常夜燈とあるので、竿部分だったのか縦半分に切られている。

道は左右にカーブして近鉄山田線明野駅前から県道713号線に突き当たる。ここを右折する。しばらく行くと、「へんば餅」の看板と暖簾の下がった「へんば屋」がある。この店は安永四年から続く老舗である。へんば餅の由来{安永4年に、7代前の先祖が、参宮街道宮川のほとりで茶屋を設け、餅をひさぎはじめた。当時駕篭や三宝荒神で参宮する人たちがこの店で憩われ、ここから馬を返し、参宮されたことから、いつしかへんば餅と名づけられた。)三宝荒神とは、馬上に三つの鞍をおいたもの。

左側に「弘法大師堂」がある。中には二体の弘法大師が祀られている。少し歩くと、「伊勢市」の標識があり、伊勢市にはいった。この辺りは、旧小俣明野で、平成の大合併で伊勢市に併合された。

小川を渡ると、新茶屋集落になるが左側の角に嘉永六年(1853年)建立の「従是ニ里外宮」の石の標柱があった、伊勢神宮も近い、と足取りも軽くなった。このあたりは、明星茶屋だけでは客をさばききれなくなり、茶屋が出来たところで、新茶屋と呼ばれた。 その先に「かめや」と書かれた札がさがった連子格子、幕板のある大きな家がある。

細い道を進むと、道の左側に「すく下宮江 内宮江 壱里三十三丁半 」「左 二見浦 二里十五丁」「右 宮川渉場 六丁三十九間」と刻まれた、文政5年の建立の道標が建っている。その先を左折して道なりに進む。浦口1丁目で広い道に出る。「伊勢神宮(外宮)1.4km」の標識があるが、横断歩道が無いので、浦口交差点まで行き、右折する。そこを左折すると、JR参宮線の山田上口駅がある。その先に「外宮(豊受大明神)1.2km」の標識があるので、その先の交差点を左折する。

店をでると左右には、田植えのすんだ水田が広がっていた。外城川(ときた)を相合橋で渡る。この辺りは道が一直線に伸びていて畷(なわて)と呼ばれる。伊勢街道はその先の庚申堂交差点で斜めに延びる細い道に入る。小俣宿への道である。その手前に安永年間(1772〜1781)建立の庚申堂が建っている。

しばらく行くと、左側に「斎王之遺跡」と書かれた石標と「観音寺跡」の木柱が建っている。傍の解説板には、(1576年、斎王の乾源休(もとやす)がその菩提寺として斎宮寮跡の西南、最勝寺を創建した。その後乾覚右衛門によってこの地に移され、観音寺とした。明治元年に廃寺となり、本堂は現在佐田清光寺本堂になっている。)とあった。ここに来る前に「乾」という表札の出た立派な家があった。塀には瓦が乗り、所々に連子格子がある家である。

正宮を中心とする社殿は内宮とほぼ同じ様式で、鰹木は9本で千木は垂直に切られている。社殿の配置が内宮とは違う。正宮をお参りし、内宮に向かうが、外宮から6kmもあって、バスかタクシーで行くが、今日はゴールデンウイークと言うこともあって長蛇の列で乗れそうにない。歩くことにした。

しばらく河原を歩き、右手にある宮川橋を渡った。向こう岸には、安藤広重の「宮川桜の渡し」の絵と案内板があった。それによると、(宮川は伊勢最大の川であり、渡しは明治30年に参宮鉄道が開通するまで行き続けた。)とあった。

消防施設の前を左折する。その先には、鳥羽本陣跡、坂田の橋跡、鳥羽藩高札場跡の碑がつづいて建っている。

五十鈴川駅行きのバス停には、またまた長蛇の列で、乗るまでに1時間はかかるというので、また歩くことにした。「おかげ横丁」にちょっと寄った。ここも人であふれ、ソフトクリームを買って食べながら歩いていると、バス停にバスが止まった。そんなに人が乗っていない。不思議だったが、ラッキーとおもって乗り込んだ。直ぐ五十鈴川駅に着いた。これで、伊勢街道は完歩です。

五十鈴川にかかる宇治橋を渡り、正殿に向かう。(宇治橋は、長さ101.8m、両端の鳥居は両正殿棟持柱をリサイクルしている。)人ごみに押されるように正宮に向かう。途中「五十鈴川御手洗場」で手を清める。 正宮に着くと、石段のところで渋滞していた。15分ほど待って正面でお参りは出来ず、側面で御参りを済ませ、裏にまわって帰ってきた。(正宮は、唯一神明造の古代の様式を伝え、萱葺きの屋根には、10本の鰹木がのせられ、4本の千木{ちぎ」の先端は水平に切られている。)

新正宮

古い正宮

外宮は、天照大神のお食事を司る神の豊受大神を御祀りしている。内宮創建から500年後に山田原に迎えられた。衣食住をはじめあらゆる産業の守り神である。神社には、神馬が奉納されているが、普通は木像だったりするが、さすがは伊勢神宮で、本物の神馬がおとなしくしていた。笑智(えみとも)号と書かれていた。

伊勢神宮は、宇治の五十鈴川の川上にある皇大神宮(内宮)と山田原にある豊受大神宮(外宮)を中心として14ケ所の別宮、43ヶ所の摂社、24所の末社、42所の所管社がある。「神宮」はこれら125の宮社の総称でもある。

伊勢神宮(外宮)

その向かい側には、「漢方薬 万金丹」で有名な「小西万金丹薬舗」である。延宝4年(1676年)創業の老舗で、四日市と草津にも出店があった。古い看板や屏風が飾られている。万金丹は、伊勢土産の代表的なものだったが、明治以降は殆どが廃業し、現在では、野間家と小西家が残るだけとなった。大きな鬼河原、むくり屋根、切妻の立派な屋敷が残っている。

伊勢街道はこの辺りから広くなる。右側に、「→阿弥陀世古」の道標がある。伊勢では沢山の路地があり、路地を世古とよぶ。

その先を右折して、横町に入る。その角に大きな家があった。何か商いをしていた雰囲気で、壁には、「計量器具・・・」という札が残っていたので、秤などを売っていたのかもしれない。大きなお店だった。

その先には、左側に奥山家がある。昔の屋号は丸吉、紙煙草入れや薬などを商っていた。背の低い二階、黒い漆喰壁に虫籠窓、一階は、連子格子で、これからも残しておきたい雰囲気のある家だった。

15分ほど歩き、小俣小学校の先の角を左折する。角には「紀州藩高札場跡」の石柱が建ってる。旧小俣町は、江戸時代の初めは鳥羽藩領と田丸藩領で、1817年、田丸藩領は津藩領に、その後紀州藩田丸領となった。以後、鳥羽藩領と紀州藩領の相袷地だった。 ここは、江戸時代、宿場特有の鉤型になっているところで、札の辻と呼ばれた。

三宝荒神

へんば餅は、大福をつぶして焼き鏝をあてたようなもので、さわ餅は、縦に並べた姿が竹笹に似ていることから、笹餅がさわ餅に成った。両方お土産に買い求め、店内で、へんば餅を食べた。

右側には、「南無阿弥陀仏」と彫られた石塔が建っている。徳浄上人千日祈願の塔で説明板によると、{一人の僧が勢州明野の庚申堂を霊場にして、修行していた。天保の頃、村が大飢饉にみまわれ悪疫大流行、世情騒然となった時、この僧が村人の窮状を救わんと伊勢両神宮に千日の間、素足で日参された。その後、明野村は疫病もなく、盗難、火災もなく平安に暮らすことが出来た。千日祈願の徳を称え、明野や宇治山田の人々が世話人となって建立した。」 後にある庚申堂は、寛政年間(1789〜1801)の建立と伝えられる。

勝見交差点の左手前には、石積みの上に山の神が三基祀られている。ここで、斎宮集落は終わる。笹笛川にかかる新笹笛橋を渡ると、「斎宮参向古道」と書かれた矢印道標があり、小さな道が残っている。現在は案内板はどこにも無かったが、(斎王が斎宮より伊勢神宮に赴くための官道で、この地を横断して作られた。この道は年三回の斎王参向時だけでなく、朝廷の儀式や政情によって随時神官に祈願や報告に派遣された勅使や奉幣使らさなざまな使者が往還した。)と書かれていた。

しばらく行くと、左側に「天満宮・・・」と刻まれた石標がある。北野天満宮への道標で、昔はここに黒木の鳥居があったということです。

その先には、「延喜式内竹神社」がある。(竹神社は、垂仁天皇の御代に、竹連という豪族が天照大神の奉行に供奉してこの地にとどまり、孝徳天皇の御代に竹郡が創建された時、その末裔が当社を創祀した。また、竹連は、宇迦之日子の子、吉日子で、斎王制度が確立されるともに、地名も竹の都から斎宮に変わった。竹神社は、以前は斎宮歴史博物館の南隣にあったといわれ、郷社竹神社御址の石碑が建っている。竹神社の石垣は、石の中から岩が飛び出ている特異な形状だった。

謡曲「絵馬」と竹神社の説明板があり、{伊勢参宮名所図会に毎年大晦日に伊勢の斎宮で絵馬を掛ける行事が載っているが、黒絵馬は雨を白馬は日照りの占方を示すと言う。謡曲「絵馬」は、その行事を節分の夜とし、老翁と姥が人民快楽のため、二つの絵馬を掛け並べ、国土安穏を祈るというもの。

その先の左側に、「有明六地蔵」の看板があり、奥には、中町公民館がある。この辺りは有明池のあったところで、明治初年まで笛川の中町地蔵堂があったようだ。説明板には(斎宮は神領であったため、明治の神仏分離により、この地の寺院はすべて壊された。ここに残る有明六地蔵石幢は歴史を語る貴重な遺産である。 燈籠の六角形の火袋部分に六体の地蔵を刻んだもので、この石幢は室町時代の1513年に造られた。)隣には、庚申堂があり、手前には五基の山ノ神が祀られていた。

その先の石垣の前に、「斎宮城跡」の標柱があり、案内板には、(室町時代、斎宮の住人野呂三郎がここに城壁を築き、勝手に徳政を敷き、狼藉を働いたので、国司北畠材親はこれを討伐した。)とあった。

少し先の左側に、二つの石標が並んでいる。手前は、「斎宮旧蹟蛭沢之花園」とあり、天然記念物のどんと花と呼ぶ野花しょうぶ群落地への案内である。奥のほうは「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」とあり、病で亡くなった斎王・隆子女王の墓への案内である。