明治3年に武四郎が建てた燈籠、阿部朝臣弘とは、武四郎のことである。

伊勢海道続き(高茶屋〜松阪) 

藤枝を早朝でて、掛川から新幹線で名古屋へ。紀勢線で高茶屋まで行く。9時20分に歩き始める。前回越えた踏切を越え、右折する。しばらく歩くと、「新四国八十八ケ所」の石柱が建っている玉造院がある。境内には、所狭しと八十八ケ所の札所が立ち並んでいた。 人間に慣れすぎた猫が、擦り寄ってきて、猫が苦手な私としては、気持ち悪かった。

今日2月23日は「武四郎祭り」ということで、ボランティアの人が説明をしてくれた。この家は、子孫が建て増して住んでいたので、その部分を取り壊し、元の屋敷にして、公開する予定だと言うことでした。向かいの広場で、あられをスープに浸したものや、ホルモン焼き、などをご馳走になった。

交差点を右折し、2本目をまた右折する。左側に、「長谷川邸」がある。「松阪木綿商 長谷川家」の案内版によると、(松阪を代表する江戸店持ちの豪商である。)その歴史が書かれていた。おじさんが、ここからここまでは、江戸期の建物で、ここは明治になってからとか説明してくれた。ここの羽目板が外れるようになっていて、中には入れるんだよ。とか。本当かな?

その先には、薬師寺があり、仁王門には、古い阿吽の仁王像が安置されている。本堂は入れないようにロープが張られ、見ると屋根が崩れそうになっていた。塀は熱田神宮で見た「信長塀」のように瓦が練りこまれていた。この寺は、戦国時代に、大川内城を信長が攻めあぐねた時、和睦の条件に次男・信雄を北畠の養子にした時、預けられた所でもある。また、境内には、芭蕉句碑もある。梅か香に のっと日の出る 山路哉

その先には、由緒正しそうな市場庄公民館がある。説明板によると、(大正7年に建てられ、昭和30年まで米之庄村役場として利用されていました。外壁が、下見板張りの寄棟造桟瓦葺平屋建てで、正面中央に切妻起り屋根の玄関を組み合わせた近代和風建築となっている。)

常夜燈の前の空き地は、伊勢講の常宿だった旅籠磯部屋があった。今は何も残っていない。また右側には、池田屋と書かれた木札がさがった家は、1,2階とも格子がはまっているが、片方が細く、もう一方が太く粗い格子になっていて、光の入り方を格子の細かさで調節できるようになっている。

しばらく歩いていくと、買い物袋を持った人が「お祭りをしているので、よって行って。」声を掛けてくれた。「武四郎記念館」前で子供達のアイヌ語による劇が行なわれていた。また沢山のお店が並んでいて、参加者でごった返したいた。

池田集落が終わると、左右に田畑が広がる。殿木の集落に入ると左側に、津市雲出(くもづ)市民館があり、その先の左側に、現在地より北100mから移転したと書かれた石碑と明治33年建立の記念碑があった。そこをこえると雲出島貫町に入る。江戸時代には、雲出宿があったところである。 その先に「史跡 明治天皇御小休所址」と書かれた石碑があった。ここには、本陣・柏屋があり、明治期まで営業していたと言う。

街道に戻って、進むと、「和田金」のお店がある。左側には、本居宣長のからくり人形があり、その先には、「鯛屋」という和風の旅館があった。日野交差点で、左折し、松阪駅から帰った。時間があったので、駅で「伊勢うどん」を食べたかったが、売り切れていて、きし麺を食べた。

通りに戻って、「松阪もめん手織りセンター」にはいる。この場所は、隣の産業振興センターを含め、三井家創業の祖、三井高利が最初に店を構えた所でもある。木綿で作った、指貫を買い求めた。

その先には、松阪を代表する「牛銀」のお店がある。

長谷川邸の先には、「本居宣長の親友 小泉見庵」の家がある。案内板によると(宣長は昭和9年、仲間5人と吉野に桜見物に出かけた。旅の様子は、宣長の「菅笠日記」に詳しく記されている。小泉家は代々医者で、家は宣長の向かいにあり、母かつ、宣長もこの小泉家を見て、医者になってやって行けると思ったという説もある。) その向かいには、「本居宣長旧宅跡」がある。国学者・本居宣長が、12歳から72歳までの生涯を過ごした場所である。宣長は、ここで、医者を開業するかたわら、日本の古典を研究し、「古事記伝」「源氏物語玉の小櫛」などを執筆し、門人を指導した。現在旧宅邸に、礎石ともに残る家は、長男・春庭の旧宅と、本居家の土蔵である。

三井家発祥地・この場所は、越後屋、三越と発展を遂げ、三井家全盛の基礎を築いた三井高利の生まれ育った所で、邸内には、初代三井高安と二代高俊の墓碑、創業の祖三代高利の産湯の井戸、高利の長兄らの供養碑が残っている。 この辺りは本町で標柱に(天正15年の松ヶ島城下より移られて出来た町で、北は阪内川、南は神道川までの参宮街道280mの町筋である。江戸時代には、三井、小津、伊豆蔵の江戸店を持つ大店が立ち並び、木綿商人が多かった。)と書かれていた。

橋を渡ると、直ぐ左側に、江戸時代に松阪の御三家のひとつに数えられた紙問屋・小津清左衛門家の邸宅だった所で、今は、「松阪商人の館」として公開されている。江戸時代には、三井家、長谷川家、長井家等ともに、いち早く江戸に出店を構え、財を成した松阪屈指の豪商である。

その先には、朱塗りの手摺と欄干のある松坂大橋が見えて、松阪宿に入る阪内川にかかる松阪大橋は、松阪築城の頃、蒲生氏郷が三度川にかかる笹尾橋を移したのが、最初の橋と言われる。江戸時代に入ると、長さ約44m、幅6mの木製の橋がかけられ、文久9年に欄干の柱頭に擬宝珠が付けられた。

その先の民家に二頭の御神楽がきていて、一軒一軒まわって、祝詞を上げ、ご祝儀をもらっていた。毎年、伊勢神宮から来るそうで、今年は2月11日に予定していたが、雪で今日に延びたそうです。そのおかげで、よいものを見ることが出来ました。この辺りは、街道の雰囲気を残し、江戸時代の鉤型が残り、連子格子の家が建っている。

百々川は塚本と船江の境で、川にかかる橋本橋を渡ると、左側に嘉永5年建立の両宮 奉納常夜燈があり、江戸日本橋室町 紅林氏と刻まれていた。今日は、ずっと街道なので、食堂が見つかりません。

伊勢街道は、右に左にカーブし、鉤型のようになっている。その交差点の左手に、近鉄松が崎駅があるが、交差点を直進すると、左側に、古川水神常夜燈の石柱が建ち、、その奥に万延弐年建立の常夜燈が、その左に小さな祠古川水神遥拝所碑が建っている。その左手に、二基の山ノ神火防御神碑がある。

伊勢街道は、ここで左折し、次を右折する。左手に「舟木家」の立派な長屋門を持つ屋敷が続く。この家は、南北朝から続く舟木家の武家屋敷で、長屋門は、文政年間に建てられたといわれている。門の入り口には、家紋が二つ彫られ、左右に出格子の窓があり、両側は、なまこ壁で塗られ、屋敷全体は、黒と白の塀で囲まれている。

近鉄山田線のガードをくぐると、左側に「町並み案内」があり、市場庄の道筋と家の屋号が表記されていた。ここは、市場庄の南のはずれである。久米集落に入ると、両側には、妻入りの家が続き、三叉路に突き当たると、「左 さんぐう道」の道標があり、役の行者を祀る行者堂、嘉永5年建立の常夜燈、文字庚申を祀る庚申堂、二基の山の神が祀られていた。

その先の三叉路左側の蔵の下に、宝暦3年に建立された「忘井之道」道標がある。ここは、米之庄神社への分岐で、左の小道を100mほど行くと、井戸跡があり、井戸の傍らに小さな社と山の神が祀られていると言うが、もう12時30分をまわっていたので、先を急いだ。

いちのや(宇野家住宅)無料休憩所となっているとあったが、案内板も見つけることが出来なかった。

この集落は、古い構えの家が多く、それに手を加えて住んでいる様子がすばらしい。是非、後世まで、残してもらいたい町並みでした。武四郎の生家の案内をしてくれたおじさんが、「市場庄には、立派な家が沢山あるよ。」と言っていたが、この町並みのことを言っていたとわかった。

三渡川にかかる三渡橋を渡る。三渡川は、涙川とも呼ばれたが、中世の伊勢参宮古道には、渡し場が三ヶ所あったので、三渡川の名前が付いた。橋を渡った右側には、初瀬街道との追分を示す「六軒追分道標」が建っている。道標には、「いがこえ追分」の下に、小さく「六けん茶や」、その右側には、「やまとめぐりかうや道」左に「右いせみち 六軒茶屋」とある。この道も月本の道と同じ、伊賀越えの道だったが、六軒茶屋は、江戸時代後期には、茶屋や旅籠が立ち並び、参宮街道初瀬街道を旅する人手で賑わった。道の反対側には、大坂の人が、田を二反半つけて寄進したと言われる文政元年建立の常夜燈がある。

少し先の交差点の左側には、伊勢神宮式の小津常夜燈が建っている。その横には、大正時代になって建てられた「からす道」の小さな道標が建っていた。道標には「右松阪及山田」「左津及香良洲」と刻まれているそうだが、実際は古くなっていて読みにくかった。半分ほど地面に埋まっていた。

交差点の向こうにある中道公会所の前には天白村青年団の石柱と常夜燈、「右さんぐう道」と刻まれた小さな道標があった。伊勢街道はここを右折し、国道23号線のガードをくぐる。ガードの手前に「小津一里塚跡」の石碑があると言うことだったが、実際は、ガードをくぐった先の小さな川が流れているほとりにあった。伊勢街道で、一里塚は珍しいと言うことです。

中道町に入ると、道は三叉路になっていて、左にカーブしていくと、三角になった所に、常夜燈左さんぐう道の道標と石橋の親柱が並んでいた。これらは、伊勢神宮第61回遷宮を記念して、地元の人が建てた物で、石橋の親柱には山の神と刻まれていた。

右側に、「軒に雨よけのがんぎをつけた平入りの立派な屋敷」があると言うことだったが、探してもない。改修中の幕のかかった家がそうだった。

しばらく歩くと、肥留町で、小さな用水の手前に常夜燈が建っている。文政7年の建立で、宮立型と呼ばれる常夜燈の台座には、「江戸 乾物問屋中」と彫られていた。道の反対側には、金剛寺があり、ニ本の槙を刈り込んで屋根のようにした門が珍しい。

北海道から送ってもらったと言うアイヌの民族衣装が飾られていたので、着せてもらった。似合うでしょうか?

街道に戻り、進むと雲出川の土手に出る。雲出川は奈良県と三重県の県境の三峰山を源流にする川で、県内では宮川、櫛田川と並ぶ大きな川である。雲出川は、北伊勢と南伊勢の境で、南北朝時代には南朝と北朝の境になったため、橋はなく「小野古江の渡し」と呼ばれる船渡しによっていた。この場所には、数年前まで、軽自動車が一台通れるような橋が架かっていたが、取り外されたので、100m上流の橋を渡る。橋の両側には、船渡場に立っていた常夜燈が移設されて建っている。参宮道者のために建てられたので、「参宮常夜燈」と言う。

川に沿った道の左側に倒れそうな石標が建っている。「右からす道」「一志駅跡」と書かれている。ウオーキングのおじさんが昔ここに電車が走っていてこの「一志駅」と言うのは、ここに駅があったと言うことだ。と教えてくれた。

左手の細い道に入ると、円福寺があり、立派な蘇鉄がある。境内には、「雲出島貫かんこ踊り」の案内板が立っている。(以前は、8月14日に、円福寺境内で新仏の供養の念仏踊りをし、地区を練った後、8月15日に、毘沙門堂広場で、神踊りを舞いました。頭に鳥の羽を付けて、6人の踊り子が羯鼓(かつこ)を前に吊るしつつ踊る。)

JR藤枝〜高茶屋  9320円
タクシー         1120円
JR松阪〜高茶屋   230円
計         10670円

伊勢街道続き

蔵から掘り出された万両箱(千両箱が10個入るそうです。)

この辺りは、川井町で、昔は、松阪宿の北の入り口のあたり、多くの茶屋や娼家があり、にぎわった所である。県道59号を横断して、狭い道を進む。左手に、まなこ壁と蔵と袖壁、虫籠窓のある須川屋金物店がある。

20分くらい歩くと、角に道標が建ち、向かい側には、常夜燈が建っている。ここは、月本追分で、伊勢街道奈良街道の分岐である。案内板によると(江戸時代、伊勢参宮が盛んになると、立場や茶屋が軒を連ねていた。月本という地名は、古くから月読社が勧進されており、月読社のもとの集落と言う意味から生まれた。道標は高さ3m10cmで、伊勢街道最大である。「月本おひわけ」「右さんぐうみち」「右いがご江なら道」「左やまと七在所順道」と彫られている。)

各家に屋号や職業を書いた板が貼られている道を歩いていくと、左側に「史跡 松浦武四郎生誕地」の標柱が建つ。妻入り、がんぎ(幕板)のついた家屋があった。(北伊勢では幕板 南伊勢ではがんぎというらしい)案内板によると(松浦武四郎は、蝦夷地から択捉島、樺太まで探検した人で、幕府の蝦夷御用御雇に任命され、明治政府でも開拓判官になり、蝦夷地を北海道と名付けた人物である。彼はアイヌに優しく接したといわれ、北海道の地名にアイヌ語を残す努力をした。この家は、筑後170年位だろう。)と書かれていた。

橋を渡り終えた道の反対側に小公園があり、「小野古江渡跡」(おののふるえのわたしあと)の石碑が建っていた。左折し土手を行くと、下に下りる道があり、これが伊勢街道である。

寛政12年の常夜燈

天保5年の常夜燈

H.26.02.23