伊勢街道続き(江戸橋〜高茶屋)

H.26.02.11

早朝家を出て、掛川で新幹線に乗り換え、名古屋まで。近鉄名古屋本線に乗り換え、江戸橋駅に着いた。8時46分に、歩き始める。江戸橋を渡った所にある追分まで戻る。ここから、右折すると、伊勢別街道で、関宿に至る。京方面からの参宮者は、関宿からこの道をたどります。伊勢街道は、左折する。街道筋には、伊勢路独特の幕板のある旧家が残っています。(幕板は、雨露から家を守る役目をする。)

この辺りは、区画整理が進んでいて、道が広くなり、栄町3丁目で、津駅前交差点を渡る。右折すると津総合駅で、JR紀勢本線、伊勢鉄道と近鉄名古屋線の駅がある。右角に寺があり、右折すると、魚藍観音の幟がはためく馬宝山蓮光院初馬寺で、重要文化財の大日如来と阿弥陀如来を安置している。この寺は、「津七福神」のひとつで「恵比寿天霊場」である。、聖徳太子創建、通称「初馬さん」と親しまれ、四天王寺建立に際に、病に罹られた太子が馬頭観音を自ら刻み、病気平癒の祈願をされた草堂を起源とする。重文の仏様は、3月の初午会式で、ご開帳される。

相棒がここで御朱印をいただいたので、岩田川に行く道を聞いた。岩田川にかかる岩田橋を渡る。橋の中程に「岩田橋大正絵図」が刻まれていた。説明文によると(手前が大正9年に架けられた新岩田橋、向こうが旧岩田橋。橋の上の自動車、大八車、川に浮かぶはしけ、両岸の倉庫が大正時代の面影をよく伝えている風景である。)向こうに見える赤い欄干の橋が旧岩田橋なのだろうか。

岩田橋を渡った先は、伊予町で、国道左側歩道部分が伊勢街道である。岩田交差点で、右斜めの細い道に入る。旧町名 立会町の石柱が建っている。(昔 米相場の立会所があったと言い伝えられているが、江戸時代にこの地に米相場の立会所はなかったので、町名の由来はさだかでない。)まっすぐに進むと、交差点の左側には、石仏を祀った小さなお堂があり、祀られているのは延命子安地蔵尊である。

5分ほど歩くと、小さな川があり、思案橋が架かっている。川側の欄干には「松、扇、梅」が浮き彫りになっている。橋の左側には、「香良洲道」の道標がある。橋の手前の細い道が香良洲神社へ向かう道で、江戸時代にはここが、香良洲道との追分になっていた。香良洲神社は、天照大神の妹神の稚日女(わかひるめのみこと)を祀った神社で、伊勢神宮の参拝客は、香良洲神社も参詣しないと片詣りといわれたので、参拝しようか、そのまま行こうかと思案したことから、この名がついた。思案の末、参詣しない旅人は、ここから遥拝したと言われる。

八幡神社の道標のある交差点を越えると、左側に弘法大師の作と伝えられる地蔵を祀っている地蔵堂がある。「この奥にある松原寺に立ち寄った後、富士参りに出かけた人が、山中で道に迷ったが、旅僧に姿を変えたお地蔵様に助けられた。」という伝説が残っている。 道の右側の家の敷地の中に、「史跡 明治天皇八幡町小休止所址」の石碑が建っていた。

高虎の正室であった久芳夫人は、大阪夏の陣の翌年、高虎の留守を守る津城で亡くなり、四天王寺に葬られた。内助に徹したその生涯を偲び、菩提供養に思いのこもった高虎の文書が、四天王寺に残っている。なお、四天王寺は津七福神の大黒天霊場になっている。三面大黒天は、信長公祈願のものである。

その先は、鉤型になっているが、左に入る三叉路で、三叉路の手前に、「縣社 八幡神社」の標柱があった。ここは、八幡神社の表の参道入り口である。焼失して再建した社があると言うことだったので、寄らずに、街道を急ぐ。

芭蕉翁文塚は、津の俳人・菊池二日坊が翁を偲んで建てたもので、裏に芭蕉の略歴と由来が書かれている。というが、古くて読めなかった。

しばらく、街道の雰囲気を残した家が続く道を歩くと、右側に、「味噌・醤油醸造元 阿部喜兵衛商店」の看板を掲げた店がある。阿部家住宅の説明板によると、(阿部家は上浜町の参宮街道沿いで、味噌・醤油の醸造販売を営んできた商家である。母屋は間口7間半で、外観は切妻造りで、桟瓦葺の大屋根の両袖に、卯建をあげ、軒先に雨よけのおおだれを付け、古風な荒格子いれ、その内側に板戸を上から下ろして戸締りする形が残されている。18世後半の建築と推定される。)とあった。

その先の交差点の左側に「縣社 八幡神社」の石柱があり、明治28年に建立された石柱だった。ここは、八幡神社の裏口にあたり、左折して、道を進むと、結城神社があった。結城神社は、南朝の臣、結城宗広を祀った神社である。「結城宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動に参加し、南朝方として北畠親房、顕家親子に従い、親房らが伊勢国から義良親王を奉じて陸奥国にへ航行途中に難破し、伊勢国で没した。」結城神社は、津七福神(福禄寿霊場)で、境内には、赤、桃、白、一重、八重の梅があり、なかでも300本のしだれ梅が有名で、毎年2月〜3月の開花期には、多数の花見客で賑わう。

次の交差点を越えると左側にある薬師堂は、瓦の乗った黒板塀に囲まれているが、中の薬師如来庵跡地碑によると、平成18年に焼失した。と書かれていた。石碑を建てるより、御堂を建てなおしたほうがよかったのではないかと思った。

その隣には、閻魔堂があり、正式には、真教寺である。中をのぞくと、閻魔様が祀られている。1682年の作で、高さ2mある。また、罪を量る天秤があり、人が乗って罪の重さを量られていた。(閻魔堂は二代藩主高次が建立した。当時この辺りは町のはずれで、町の守護として建てられた。江戸時代には、えんま前と呼ばれ、旅人、人足などが休憩する立場になっていた。蕎麦屋や茶店が出来て賑わったといわれる。)

JR       7460円
タクシー      1200円
名古屋〜江戸橋 980円
高茶屋〜津   190円
津〜名古屋   980円
計       10790円

国道23号線の垂水交差点を渡り、細い道を進み、JR紀勢線の踏切を渡る。踏み切りの先はもっと細い道になり、三叉路の信号機に「この信号機は、交互通行式です。約4分お待ちください。」と書かれていた。右から合流する道は、1632年に八幡町側に道を変える前の伊勢街道で、次の交差点の右側に、木造大日如来坐像のある成就寺がある。成就寺は、信長の伊勢侵攻で、兵火にあい、寺勢が衰えたといわれる。石段を上がると、成就寺の本堂と鳥居がある社があった。

閻魔堂を右折し、交差点を越えると、阿漕町の表示があり、両脇に連子格子、、幕板のついた軒の低い2階家が多く残っていて、昔の街道の風景が展開する。左側の民家の間に、神明神社があり、説明板によると(御神祭は、天窓{屋根の上}にお祀りされているので、通称「おまんどさん」と呼ばれている。)

閻魔堂の隣には、市杵島姫神社がある。説明板によると、(このお社は、太古には、庚申塚であった。市杵島姫命は、伊勢国司・北畠氏の守護神として、北畠氏の滅亡まで多気の城内に鎮座されていたが、その後、当地の産土神になった。)御神木のイチョウは、樹齢400年とも500年ともいわれ、この神社の呼び名の弁財天に習い、上弁財町、下弁財町の町名ができた。御神木のイチョウは、昭和20年、津が戦火に見舞われた時、この木が湯気を発し、風向きを変えて御神殿を焼失から守ったと書かれていた。

城内に祀られていた高山(こうざん)神社は、城跡の隣に移設されている。(藩祖高虎公を祭神として、社名はそのおくり名に由来する。明治10年に下部田両社八幡社境内に創始され、その後津城本丸内をへて、戦後現在地に遷された。境内には、山神(大山祇神)が祀られている。なお高山神社は、津七福神の寿老神霊場になっている。

現在でも残るのは、五層の天守閣があったところの石垣の一部と、本丸、西之丸の周りの内堀だけである。 また、公園には、藤堂高虎の馬に乗った銅像があった。

ここを右折し、三重会館前交差点を渡り、左折すると、津商工会議所前の広場には、お城前公園の標石と藤堂高虎公入府400年記念の碑がある。その奥には、二の丸跡に建つ復元の三重櫓が見える。櫓には、時代物の錠前がかかっていて、入ることは出来なかった。

立町の道標を左折し、ア−ケードに入る。祝日と言うのに、通りは閑散として、人通りが少ない。交差点の左側に、明治25年建立の参宮道標があった。左面に「右 さんぐうみち 左 こうのあみだ」右面に「すぐこうのあみだ 左 さんぐう道」と刻まれていた。道標どおりに、左折すると、如意輪観音堂の仁王門がある。本堂の前には、ジャカランダの木が2本植えられていた。現在は冬なので、花はない。

ヤガラの剥製

山門は、津藩主二代目藤堂高次の時に再建されたもので美しい門である。

二日坊塚

土田御前の墓

高虎夫人の墓

しばらく進むと、左側に心覚寺があり、経石塚の石柱があり、立派な松の木が植えられていた。経石(きょういし)とは、仏教経典の文章の1字または、複数の文字を黒墨または朱墨で書き写した石をいう。

江戸橋を渡ると、津宿である。津の古称は、安濃津で、伊勢平氏の支配した所で、平安時代より伊勢国の政治経済の中心地であった。慶長13年(1608年)藤堂高虎が藩主となり、津城を改修し、城下町を整備し、海岸近くを通っていた伊勢街道を城下に引き込んで、宿場町として発展させた。伊勢音頭で、「伊勢は津で持つ、津は伊勢でもつ」と詠われるほど伊勢参宮の人々で大いに賑わった。

境内には、「西行法師ゆかりの木 さる稚児桜」がある。案内板によると(昔、西行法師がお伊勢参りの旅の途中、垂水の成就寺に立ち寄った。その境内に一人の子供が遊んでいて、法師を見ると、するすると桜の木に登り、枝に腰掛けた。見事な木登りに「さるちごとみるより早く木にのぼり」と上の句を口ずさんだ。すると、子供が「犬の様なる法師来たれば」と下の句をつけて返した。このようなやり取りのあった桜は、「さる稚児桜」と呼ばれ成就寺の名木となった。今は、孫の木になって見事な花を咲かせている。)

向かいに「平治煎餅本店」があり、またまた吸い込まれてしまった。大・中・小の煎餅があり、中と小の平治煎餅を買い求める。平治煎餅は、津市阿漕海岸の孝行息子平治の伝説にあやかって大正の初めに生まれた。(母の病を治そうと禁漁を犯して、ヤガラという魚を取り、母に食べさせた。役人に見つかり逃げたが、笠を海岸に落とし、掴まって阿漕海岸沖に沈められた。煎餅はその笠にあやかって笠の形をしている。)

道の両側には、黒い瓦の重厚な屋敷が立ち並び、このような「恵比寿様」を屋根に乗せた家もあった。 国道165号を跨ぐ陸橋をくぐり、JR高茶屋踏切を渡る。街道は右折するが、今回はここで終わりにするため、左折して、高茶屋駅に向かう。津までJRで行き、近鉄に乗り換え名古屋まで行き、新幹線で掛川へ、JRに乗り換え藤枝に帰りました。

その先には、高茶屋神社がある。右側にある春日型常夜燈は、「十社 常夜燈」と刻まれ、文久3年(1863)の建立で、昔この神社は、十社の森と称され、伊勢神宮参詣の勅使の休憩所があったという。境内には、数基の山神が祀られていた。

相川にかかる相川橋を渡り少し行くと、小森上野のバス停があり、直進する狭い道が街道である。道の左側には用水が流れ、道の方が左の土地高いところにあり、地名も高茶屋である。江戸時代高茶屋は、津宿と雲津宿の中間にあたり、立場茶屋があったところで、昔はここから富士山も見えた。その先の交差点を直進すると天神川にかかる天神橋を渡る。江戸時代には、板橋だったそうです。橋をわたると、右手に称念寺がある。

鉤型になった三叉路の左の道を行くと、右側に明治2年建立の「式内加良比神社の石柱があり、その奥に明和元年(1764)建立の銅製の常夜燈hが建っている。神社はここから200m程奥の山の中腹にあるそうです。

交差点を直進すると、道の右側に須賀神社の石柱があり、その奥に鳥居と常夜燈がある。須賀神社は、旧垂水村の産土神で、社殿は、石段を上った山の上にある。数基の山の神も祀られていた。

街道に戻り、先ほどの道標を右折し、カラクリ時計やお雛様を飾ったショーウインドウなどを見ながら、アーケードを歩く。旧中之番町の石柱があった。(江戸時代の中之番町は、津市の中心で、店舗や旅館、問屋、本陣、脇本陣などがあった。)信号交差点を横切ると、旧宿屋(しゅくや)町の道標がある。(津城下における旅館業は、北町から地頭領町にいたる伊勢参宮街道沿いに限って営業が許され、最盛期には、宿屋が約80軒あった。)

国道をしばらく歩き、津市北丸の内の歩道橋を渡り、左の小路に入る。直ぐ右折する。道を横切りタイル張りの道に出る。ここに、「旧町名 立町、現町名 大門」と書かれた標柱が建っている。(観音寺門前の町筋と直交し、西隣は京口御門まで通じる町筋であったことから、立町と称した。城下町の中心街を形成しており、芝原浄林を始め、光田正右衛門・油屋善四郎などの豪商が住んでいた。)
街道に戻り、安濃川にでる。昔は、塔世川と呼ばれ、延宝2年(1675年)に土橋が架けられた。一度河原に下りて橋を渡ったようで、木橋になったのは、幕末のことである。今は左折して国道にでて、塔世橋を渡る。橋の欄干には、「唐人踊り」の絵が刻まれていた。「唐人踊り」は、370年の歴史を持つ。唐人の衣装をまとい、チャルメラやドラなどの鳴り物に合わせて踊る。「朝鮮通信使」の行列の有様をまねたもので、津まつりで、分部町の出し物として始まった。

交差点を越えて進むと、右に入ったところに、四天王寺があり、門の右側に「塔世山」左側に「四天王寺」の石柱が建っている。所蔵されている、仏師定朝により造られた薬師如来坐像や聖徳太子画像、藤堂高虎と夫人図は、戦災を免れ、国指定重要文化財である。本堂の横の墓地の上のほうに「織田信長生母の墓」と「藤堂高虎夫人の墓」があった。 本能寺の変の後、信長の生母土田御前は、安土城にいたが、日野城にかくまわれ、織田家の家督を継いだ清洲城の孫・信雄の庇護を受けた。その後、安濃津城の信包を頼った。文禄3年に亡くなるまで、この津で暮らし、四天王寺に葬られた。

このあたりは、殆ど新しく建て替えられた家が立ち並んでいる。正月もとおに過ぎてしまっているが、玄関にこのようなお飾りを飾った家があった。相棒は、正月にこのようなお飾りを作って飾ったそうだ。真ん中の板に「笑門」と書かれていた。

その先の右側に。「八百善旅館」がある。玄関の看板が、古い歴史を物語っている。今でもやっているようです。この辺りにも、連子格子、幕板の旧家が所々に残っている。その先の右側に、鳥居と小さな社殿がある。

伊勢街道続き