白子〜江戸橋

H.26.01.25

藤枝から掛川、名古屋、近鉄名古屋と乗り継ぎ、8時30分に白子駅に着いた。前回のところまで戻る道の途中、伊勢型紙の工房の壁面に型紙の模様を彫ってあった。(伊勢型紙は、染色用具で、江戸小紋などの型染めに用いる型紙のひとつである。渋紙にさまざまな手彫りの技法で、模様を彫り抜いた物である。)

この後、街道は国道23号を左右に位置を変えながら、津まで平行して続く。道の脇には、「ロウバイ」の木に花が、よい香りがしていた。

三叉路を右折すると、その先の三叉路の家の角に、「左 いせみち 右 くあんおん道」と刻まれた石の道標がある。(道標の頭部と北面に窪みがあるが、これは型紙職人が砥石をならすために出来たものである。当地に伊勢型紙職人が多くいたという証拠である。)と案内板に書いてあった。 交差点を越えて、左にカーブすると、右に「伊勢型紙工房 勇匠庵」の看板が出ている家があるが、シャッターが閉まっていた。

少し歩くと、釜屋川があるが、この辺りから寺家である。川に沿って右に入っていくと、近鉄鼓ヶ浦駅がある。橋を渡り、駐車場の先を右折すると、子安観音の仁王門に突き当たる。

道は右にカーブして、その先で左右の道に合流し、左折して大蔵橋を渡る。街道は左折して狭い道に入るが、国道に出て、「ケンタッキー」で昼食をとる。街道に戻ると、「田中川河川改修記念碑」の傍に「常夜燈があった場所」の案内板があり(伊勢街道上野宿入り口大蔵橋を渡ったところに、常夜燈があり、向かい側には、接待所・光明院もあった。)と書かれていた。

江島若宮八幡神社が左側にある。神社の由来書によると(平安時代初期、醍醐天皇が、宮中に奉祀されていた伊勢神宮の戌亥の地に転座したもので、十七柱の神々を祀っている。神社には江戸時代に奉納された絵馬が120余残っている。)とあった。絵馬は、鍵のかかった「街角博物館」や「民族資料館」にあるのか、拝殿の中には無かった。

本堂の前には、「銅燈籠」があり、辻弥三右衛門の作と刻まれている。辻家は、梵鐘造りの名家で、上野東照宮には、辻重種、一身田高田本山の燈籠には辻陳重の名が刻まれている。

案内板によると(聖武天皇の天平勝宝年間に、道證上人により開山された。室町時代には、正親町天皇の綸旨を賜い、勅願寺として寺領を授かっている1200年前からある古刹である。本尊は、日本三大観音にひとつである白衣観音である。)

今回は、「大黒屋光太夫記念館」や「伊勢紙型資料館」に寄れなかったことが残念だった。

更に進むと、大通りに出る。道の反対側の細い道に入る。その先で、左側からの道に合流する。その角地には、松が植えられ、両宮常夜燈と道標があった。案内板によると(この常夜燈は、栗真中山から来た伊勢街道と、白塚から来た道との三叉路建っている。白塚から来た道は、巡礼道、浜街道、下街道と呼ばれ、まっすぐ進むと、河芸町内を伊勢街道と平行するように走り、東千里で再び合流する。伊勢街道よりも古いと言われている。)道標には「右、白塚豊津道  左 上野白子神戸四日市道」とか書かれている。

その先の交差点の角に「痔神大明神」の案内板が立っている。もとは、地の神を祀っていたが、いつの間にか痔の神様になったといいます。 信号中瀬で23号線に合流する。国道を少し歩き栗真小川町にはいる。その先の白塚団地入り口交差点で、国道の右側に出て、その先の三叉路で、右側の細い道に入る。切妻屋根の家が数軒並んでいる。

少し進むと、右側に上野城跡の道標がある。奥にある森が「伊勢上野城跡」である。長い石段を上ると、現在は「本城山青少年公園」になっている城址にでた。(伊勢上野城は、織田信長の伊勢侵攻後、織田氏と長野氏との和睦により、長野氏の一族、分部氏は豊臣秀吉から加増されて一万石になり、関が原の戦いの後、慶長6年安芸郡で知行され2万石になり、元和5年宇近江国大溝に移されて廃城になった。)

この先の道は、鉤型のように曲がっている。江戸時代の上野宿の中心はこの辺りだったようで、この中町の西側に本陣、東側に高札場、問屋、脇本陣があったそうです。角を曲がったところに「道路改修記念碑」が建っている。案内板によると、(伊勢街道上野宿には、戦国時代の戦術上三ヶ所の枡形といわれる直角に近い曲がり角があった。道幅が狭く、時々人馬が衝突したため、有志が北角の家を購入し道路を拡幅した。)

左側に、弘法堂弘法井戸がある。額に井戸の由来が書かれている。(400年前の頃からあり、1960年町営上水道が開設されるまで、村人の大切な生活用水として重要な役割を担っていたが、現在では全く使われていない。)と書かれていた。

本福寺、尾前神社社標、正法寺を過ぎた先で、街道はカーブして近鉄名古屋線の千里駅前に出る。駅前には「ようこそ河芸町へ」の看板が立っている。

右側に、「村社 八幡神社」がある。往時、磯山村は、立場だった。しばらく細い街道を歩き、国道に合流する。ここから少しの間国道を歩く。東千里交差点を横断して、左側に移る。

伊勢街道は、用水にかかる小さな川を渡る。 左側に「鼓浦」の石碑と「右 いせみち」の石標がある。堀切川は渡らず、川に沿って歩く。かもが数羽、ゆったりと浮かんでいた。その先に近鉄の踏切がありそれを越えると国道23号である。江戸時代の橋は、国道より上流にあったそうだが、位置がはっきり分からない。国道の下をトンネルでくぐり、川にそって歩き、水を調整する調整橋で堀切川を渡り、右折して、磯山集落に入っていった。

伊勢街道は、観音堂前を西に向かう。三叉路の手前左角に、石標が建っている。西面に「左くわんおん道、北面に右さんぐう道」と刻まれている。その先には「伊勢参宮道と子安観音寺の参詣道標」と書かれた案内板が立っている。道標の説明があり、(現在はこの道標と先の道標のみになった。)と書かれていた。

白子2丁目にも、連子格子の家が多く残っている。空き地に「同心屋敷跡」の案内板があり、(同心は、江戸時代に庶民の間に入って、犯罪者を摘発する役人で、代官の配下にある与力の指揮を受けて務めた。同心屋敷は、伊勢参宮道を挟んで、東西両側に5軒づつ建っていた。同心の配下には、十手、捕縄を持った目明しがいた。)と書かれていた。 また、少し先には「目付役所跡」案内板があり、(目付役人は、政事や家臣の非違糾察、、秩序維持を目的とする監察をする役人で、俸禄200〜250石で、2年ほどで交代した。)とあった。

正面に唯信寺、隣に黒塗りの大きな家があり、道を左折すると、屋敷の角に指差し道標が建っている。左側には←神戸四日市、右側には、→さんぐう道とあり、案内板が立っている。(この付近の道は、曲がり角が多いため、参宮の往来に、道に迷わないように、ここの和田栄さんの祖先が道標を建てた。その道標は再三倒されたので、昭和12年に再び、和田甚一郎さんがこの道標を建てた。昭和30年代にも倒されたが、和田家で今のように建て直した。)

その先の右側の松葉屋旅館の先を右側に入った小道の右手に「白隠禅師、東美弥禅師足跡」の石碑があったが、この地では珍しい妙心寺派の龍源寺である。境内には、「平敦盛秘蔵の笛が作られた竹林」という伝説がある竹林があった。

右折した駐車場の一角に、「高札場跡」の案内板があり、江戸時代には、白子代官の高札場になっていた所であると書いてあった。 その先の白子東公園には、「旧河芸郡役所跡」の石碑があった。

連子格子、虫籠窓、幕板のある家が残っている。

左側に、古そうな老舗があり、吸い寄せられるように、中に入った。「白子のお菓子は何か?」と聞くと、「大はら木」だというので、2個買い求めた。お茶を出してくれて、昭和20年代に撮ったという写真を見せてくれた。江戸時代から続いている「久住屋」というお店だ。「大はら木」が白子で3軒が売っているということでした。店の前には、神社で見た「旅籠 のじまや」があった。オリジナルの鏝絵は崩れる寸前で、何とか保存して欲しいと思った。

街道に出ると、「江島神社」の石柱が建っている。江島町の通りには、連子格子の家が所々にまだ残っている。 鈴鹿屋と隣の家の間に「陣屋跡」の案内板がある。という事だったが、「陣屋跡」の案内板も見つけることが出来なかった。.鈴鹿市白子コミュティセンターの前には、「安濃津治安裁判所、登記所、法務局」の案内板があった。

海から戻って、街道に戻る途中、「芙蓉館 江戸期勢松丸資料館」があったが神社の駐車場で市の立つ日だけ、開いているようで、今日は閉まっていた。

神社の向こうに、大きな常夜燈が建っている。(この常夜燈は、文政3年(1820)に、白子港と江戸の間を行き来した廻船問屋の船の航海安全を祈願して、江戸にあった伊勢商人の大伝馬組と江戸白子組の船荷取り扱い関係者がこの神社に寄進した。その頃、常夜燈の直ぐ南東は港の入江の小浜と呼ばれる波打ち際で、常夜燈が灯台代わりになっていた。)この後は壊れてしまっていて全部読めない、(大黒屋光太夫が、ロシアのアダム・ラクスマンと北海道の根室に戻った年から28年後に建ったものである。)と書かれていたらしい。少し歩いて海岸のほうに行ってみた。

道の左側に「旧上野村道路元標」の復元された石碑が建っている。案内板によると現物は損傷が激しいので、中央公民館に保存されている。とあった。

近鉄名古屋線の踏切を渡り、旧道に復帰する。その先は、二俣に分かれていて、左は「巡礼道」である。この巡礼道は、「浜街道」や「下街道」とも呼ばれている。この街道は、古伊勢街道とも言われいる。追分のすぐ先には、「甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂がある。屋根の上に釜を置き、その上に甕を伏せているユニークな地蔵堂である。

復元された「旅籠 のじまや」の看板と鏝絵が展示されている。 「江戸後期の伊勢白子」参宮街道沿いの伊勢白子(現鈴鹿市、白子・江島・寺町山村)は古い俯瞰図によると、海辺の村で、文化の中心地京都、生産物集散地大阪に近く、商人や参宮客が往来する村であった。 「旅籠 のじまや」鏝塗りの宿看板は、明治初年の、のじま屋旧宅改築の際、これまでの木製日野商人宿看板に換えて、鏝塗り看板としたと同家内では伝承されている。

天然記念物の「白子不断櫻」の木がある。案内板には(不断櫻は、年中花や葉が絶えないことからこの名がついた。伊勢型紙はこの葉が虫食ったのをみて思いついた、といわれる。)とあった。今はすっかり葉が落ちて枝だけになっていた。

伊勢街道続きへ

JR藤枝〜名古屋  7460円
名古屋〜白子    800円
江戸橋〜名古屋  980円
バス       160円
タクシー     1120円
計     10520円   

伊勢街道と伊勢別街道の追分に着いた。追分には、常夜燈道標が建っている。江戸時代に編纂された伊勢参宮名所図会の江戸橋には、西詰に常夜燈が描かれているが、この交差点の右前に移されていた。安永6年(1777年)建立の春日型で、高さ5m40cmの大きなものである。その左下には「左 高田本山道 」と書かれた道標があるが、高田本山とは、北へ2,5kmの真宗高田派本山専修寺の事である。伊勢街道は左折するが、もう15時40分なので、直ぐ先の「江戸橋駅」から近鉄電車で名古屋、掛川と乗り継ぎ藤枝に帰った。 

三重大学の女子学生さんに道を聞いた。23号線を歩道橋で渡り、信号江戸橋北詰の歩道橋(綺麗に塗りなおされていた。)で、23号線から別れ、斜めに右に入る。志登茂川を江戸橋で渡る。津の藩主藤堂家の参勤交代の際に、見送りもここまでという意味で江戸橋と名付けられた。江戸橋を渡ると津宿に入る。

その先の柵の奥に大きな常夜燈が建っている。荒い彫りの山燈籠の碑文には、「両宮常夜燈 嘉永四年辛亥猛夏 五穀成就 津領と刻まれている。長く続いた飢饉から一息ついた感謝の気持ちで建てたと伝わっている。

その先で、近鉄の高田本山第7踏切を渡る。その先の左側に「逆川神社」があった。神社の境内には数基の山神があった。境内はひっそりしていたが、よく掃除されていて綺麗だった。

信号河芸交番前で23号線を横断する。旧道脇には、小さな祠が祀られている。祠の中には、2体の仏様が祀られていた。

右手の奥に「光勝寺」がある。分部光嘉が長子光勝の菩提を弔うために、慶長6年に、西の桂芳の地に創建した寺で、光勝の名を寺号にした。観音堂は聖観世音菩薩と馬頭観世音菩薩である。

公園には、3階建ての展望台があり、上ってみたが、今日は曇っていて見晴らしはよくなかった。公園では、親子連れが遊んでいた。

ここからは、上野集落で、信号交差点を過ぎると、連子格子、虫籠窓の家があり、その先で道は左にカーブしている。その先の右側には、上野神社の石碑が建っている。上野神社は、国司北畠氏の祈願所として創建され、祭神は八幡大神で、織田信長が太刀や鎧を奉納したといわれている。坂を上って行くとその先に、鳥居と常夜燈が建っている。

駅の右側の踏切を越え、千里駅前交差点で国道23号を渡り、突き当りを左折して、100mほど歩くと、右側に田中地蔵堂があった。

街道に戻り、県道6号を横断し、和田橋を渡り、突き当たった道を右折し、つづいて左折すると、久留眞(くるま)神社がある。由来記によると(往古は、大己貴尊と須世理姫尊を伊勢の森という神域にお祀りして、福徳さんと称え奉り、その周りには、御神木である樹齢一千年以上の「福徳の松」が天にそびえていた。その後、雄略天皇の御代に相殿神である漢織姫尊を合祀して「福徳の女神」として仰ぎ奉られてきた。)神社の鳥居には、「伊勢神宮より当神社に御下賜りし神明鳥居です。」と書かれていた。